アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

ニッポンを創った遣唐使

2016-11-30 01:58:53 | 日本古代史
 養老元年、多治比県守を押師(大使より格上)とした第九次遣唐使が派遣されました。大使が大伴山守、副使が藤原宇合(うまかい、藤原式家の祖)という顔ぶれでしたが、この時の留学生が凄いんです。阿部仲麻呂、下道真備(しもつみちの真備、後の吉備真備)、井真成(いのまなり)、僧玄昉、俊英中の俊英、かってない程の優秀な若者達でした。彼らが一つしかない命を擲って文明国家ニッポンを創ったと言っても過言では有りませ。

 一番有名なのが阿倍仲麻呂。

 天の原、ふりさけみれば、春日なる、三笠の山に出でし月かも(古今和歌集)

の和歌が有名ですね。最近、この和歌が紀貫之の創作では無いかと言う研究が発表されました。私もこの説に賛成です。若い頃からどうも出来すぎだと思っていました。藤原清河の漢詩をヒントに、仲麻呂の気持ちになって、望郷の念を紀貫之が歌ったという説なんです。結構リアリティが有りますよね! 

天の原 ふりさけみれば 天の川 霧立ち渡る 君は来ぬらし

 (万葉集 2068)

春日なる 三笠の山に 月も出でぬかも 佐紀山に 咲ける桜の はなの見ゆべし

 (万葉集 1887 旋頭歌 複数の人による唱和)

 この二つの歌はともに万葉集の巻十に載っている和歌です。月も出でぬかも、と、出でし月かも、は同じ意味ですから、二つを組み合わせると、全く同じ歌が出来上がります。

まあ現代だったら盗作で訴えられそうですね。でも和歌の世界はそういうものでもないそうです。

 春日山も三笠山も、特に藤原氏に縁が有りますから、藤原清河が詠んだと伝わっても不思議の無い歌ですし、紀貫之も阿倍仲麻呂が創ったとは言っていません。阿倍仲麻呂が歌ったと伝わっていると書いています。

 阿倍仲麻呂と藤原清河は遂に帰国が出来ずに、唐で客死してしまいます。二人は中華文明のなかで唐の官吏として出世します。特に仲麻呂は玄宗皇帝の寵愛を受けていました。だから中々帰国の許しが出ませんでした。皇帝だけでなく文化人達からも愛されていたようです。王維と李白とも親交が篤く、二人は仲麻呂に漢詩を送っている程で、中華の漢文化の教養に溢れ、容貌も挙措も優雅だったと伝わっています。

 義を慕って名空しくあり 忠を輪(いた)せば考は全(まった)からず

 恩を報ずるに日有るなし 帰国は定めて何年ならん

 この漢詩は、同期の真備や玄昉が天平の遣唐使と伴に帰国するとき、仲麻呂だけが帰国を許されず、望郷の念を謳ったものです。この時、仲麻呂の家人羽栗吉麻呂が混血の息子、翼(つばさ)と翔(かける)を連れて帰国します。二人の混血兄弟は通訳として日本と中国の架け橋として活躍しました。仲麻呂もまた、唐の女性と家庭を築いていたと考える方が自然です。新婚を祝ったと思われる漢詩を送られていますから。

 仲麻呂は十六歳で留学生に選ばれ、貴族の師弟しか入れない太学(たいがく、唐の最高教育機関)で学び、科挙(官吏登用試験)に合格して累進を重ね、皇帝の相談官、皇太子の相談役などを歴任して従二位まで出世をします。文明国家ニッポンを中華に認めさせた点では一番の貢献者です。

 ところで、皆さんは何時頃中国が日本という国名を認めていたか知っていますか?

八世紀に入って直ぐ、我が国は日本という国名を名乗っていますが、730年前後には、少なくとも唐政府は認めていたようです。その事が分かったのはほんの数年前です。2004年、西安の郊外で井真成という名の留学生の墓碑が発見されました。その墓碑に日本と言う国から来たと、はっきり明記されていたんです。日本という国号が刻まれた最古の文献です。
2016年11月30日   Gorou and Sakon


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