アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

貴族になった船、能登号

2016-11-30 01:48:43 | 日本古代史
貴族になった船、能登号。

 奈良時代後期、淳仁天皇の御代の西暦763年、渤海使船能登号に正五位下の位と錦冠が授けられました。能登号は人であれば貴族の仲間入りをした訳です。ところが、不思議な事に、能登号の船長板振鎌束(いたぶりのかまつかさ)は罪を受け遠島に処されました。
 今回はこの話をしようと思います。

 西暦763年夏、渤海の港(現在の豆満江河口と思われます)で、渤海師節団を送り届けた能登号が日本に帰国する乗客を待っていました。
 乗客は七人、遣唐僧として唐に渡り、以後三十年間唐土を遊行遍歴していた戒融、その弟子か友人の優婆塞、優婆塞というのは得度していない僧侶の事で、遊行僧とか乞食坊主といった意味と考えてください、構成の聖のようなものだと思えばいいかも知れません。そして、渤海に留学していた楽生高内弓(うちゆみ)と妻の高氏、その長男広成、女の赤子と乳母。
 高内弓は、高句麗系の貴族高氏を妻に迎えたから高氏と称していたのか、日本名も高氏だったのかは分かりません。管弦(雅楽)を学んでいたことや長男の広成という名から渡来系の氏族だったに違いありません。

 能登号はどんな船だったのか? 遣唐使船の絵や模型を見たことが有りますか? おおむねあんな感じだと思って下さい。箱船のような船体、船室が二つ、竹で編んだ帆・網代帆を持つ帆柱が二つ、最近網代帆の上に小さな布帆が有ったことが分かりました。走行方向を補佐したと考えられます。風が無い時は艪を使いました。

 さて、三十年間も唐土を遊行していた戒融がなぜ日本に帰国しようとしていたのでしょうか? 戒融については、筑紫の僧侶としか伝わっていません。おそらく観世音寺で戒を受けた人で、遣唐僧に選ばれたのですから相当優秀か、有力者の推薦が有ったと思われます。戒融は唐土に渡って直ぐ、洛陽から出奔してしまいます。玄宗皇帝から紫の袈裟を賜った玄昉より、民間布教と社会事業に尽くした行基を認めていたようです。井上靖の天平の甍を読んだ方なら、戒融の名を覚えているのでは? 日本に帰国した普照の元に渤海経由で送られて来た甍の送り主が戒融です。今考えると、井上氏は送られてくる天平の甍から、悟りを開いた戒融がやがて帰国する事を暗示させたかったのかも知れません。
 当時の中国というのは、天災も人災も日本などとはスケールが違いました。
飢饉が始まると、草も木も、家畜は勿論、ネズミや、時には人さえ食べ尽くしたと云われています。生き抜くために子供を交換したと伝わっています。三十年の遍歴で、戒融は地獄を見、悟りを開いたと思ったのでは無いでしょうか?
戒融は空海が伝える事になる真言密教の教典と知識を持って帰国しようとしていたのかも知れません。
 戒融の事は全く記録に残っていないのですから想像したり推量するしか術が有りません。もう少し知りたいと思ったら『天平の甍』か『白虎と青龍』を読んでみて下さい。戒融の事は日出ずる国の人々の第四部で詳しく描こうと思っていますが、残念ながら三年から五年位先になってしまいそうです。

 七人の乗客を乗せた能登号は渤海を出航しました。おそらく能登福浦港を目指したと思います。能登号は能登荒木郷で建造された船でしょうね。余談になりますが、荒木というのは元々は新来から変化した地名です。新羅から来たという意味です。新来から荒来、あるいは荒木になり、現在は富来町になっています。奥能登の入り口に当たり、山を隔てた東側の七尾湾に面しては熊来郷(現中島町)が有ります。因みに熊来は高麗来から変化した地名です。
 能登号は荒木郷で建造されたまあ新羅船ですね、船長の板振鎌束は名前から検証すると、船大工だったのでないでしょうか。

 能登号の水夫たちは恐れと不安を抱いていました。「あの優婆塞は日に米粒を数粒口にするだけで生きている」、優婆塞は仏教僧では無く道士だったのかも知れません。「異国の女を三人も乗せて無事に航海できるだろうか」。
 船師(船長)と水夫の不安と恐れは現実のものとなりました。台風に襲われたのです。能登号は暴風雨に弄ばれるだけで為す術が有りません。水夫達の恐怖は遂に悲劇を産んでしまいました。優婆塞三人の異国の女性、妻の高氏と嬰児と乳母は捕らえられて荒れ狂う海に生贄として擲たれてしまいました。なんという地獄絵図なのでしょうか! 戒融は必死に祈ったに違い有りません。が、祈りは全く通じ無かったのです。戒融は唐土で経験した惨劇を超える悲劇を体験してしまったのです。

 能登号は惨劇を荒海に残して、八月、隠岐に漂着しました。
 こんな分けで能登号は官位を賜り、船師板振鎌束は罪を受けたのです。
 生き残った高内弓、広成親子と戒融のその後は、歴史は何も語っては呉れません。ただ、後年、唐政府から戒融の、渤海政府からは高内弓達の安否を問われたと伝わっていますが、我が政庁がどう答えたかは伝わっていません。


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