アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

吉備真備と藤原仲麻呂

2016-12-14 00:34:30 | 日本古代史
 西暦752年四月九日、東大寺の中庭で大仏開眼供養が行われました。一万人の僧侶と皇族・貴族が参加して行われた国際色豊かな大イベントでした。開眼師のインド僧菩提遷那を初め、ベトナム僧仏哲、ペルシャ僧ラームヤール等が参列していました。まさに華厳による光輝く太陽の帝国がこの世に出現したのです。
 光り輝く華厳の皇国を実現するための二つの巨大プロジェクトがこの年展開されました。大仏建立と遣唐使発遣です。しかし、この大仏建立は、崩壊、混迷、騒乱への序曲となったのです。あんな巨大なモニュメントを創る国力、財力があの時の日本にあったのでしょうか? 搾取、酷使、疫病、公害、あらゆる人災が庶民を苦しめたに違い有りません。大仏の建立に成功したのは、行基の協力があったからとされていますが、私には理解出来ません。民間布教に尽くし、真の菩薩業を行い、政庁から小僧と罵られ続けていた行基がどうして? 

 荘厳な大仏開眼供養会。
 丁度この頃、四隻の遣唐使船が唐に向かっていました。
 第十二次遣唐使一行です。大使に藤原清河、副使に大伴古麻呂、そして副使はもう一人いました。吉備真備です。これは極めて珍しい事なんです。
 第十二次遣唐使の発遣が決まったのは前年でした。大使藤原清河、藤原氏初の遣唐大使です。清河は藤原北家の人で母は立野夫人で、兄の永手と真楯の母が牟呂王女でしたから、北家では主流とは言えませんが、大使に選ばれたからには教養と容貌が優れていたに違い有りません。かなり若かったと私は想像しています(生年不詳)。この藤原氏の貴公子を補佐する副使には唐に行った経験がある、大伴氏一の気骨の有る大伴古麻呂が任命されました。中々良い人事だと思いますね。しかし、この年の十一月七日、吉備真備が副使に追加任命されたんです。この時真備は藤原氏と藤原仲麻呂の為に九州に左遷されていました。勘ぐれば、九州に左遷するだけではもの足りず、遙かなる中国大陸まで遠島にしたつもりだったのかも知れません。
 真備だけではなく、藤原清河も大伴古麻呂も藤原仲麻呂にとって邪魔な存在でした。数年の間日本から消えているだけで、だいぶ独裁政権の確立に有利でしたし、三人が海の藻屑と消えればもっけの幸いと思っていたに違い有りません。その確率は五割くらいあったのですから。

 藤原氏と吉備真備の対決が始まったのは740年の広嗣の乱。からと私は思っています。
 太宰府に左遷された藤原広嗣(式家宇合の長子)は諸兄政権に協力する玄昉と真備を除くようにと、上表文を聖武天皇に奉りました。政治の得失も天地の災害も二人の責任だとしています。玄昉については、『密かに皇位を狙っている』と断じ、真備には、『田舎ものの子で器量のない小人。智有り勇有り弁有り権有り、口に邪言を弄す有為姦雄の客である』と罵っている。面白いのは、智有り勇有り弁有り権有りと認めている事です。真備は政敵からも有能と認められいたのですね。あんな凄いやつが重用されては、藤原氏の独裁はかなわないと思っていたんでしようね。この広嗣の上表文は聖武天皇の逆鱗に触れ、広嗣は反乱者として討伐されてしまいます。藤原各氏も藤原仲麻呂も静観しました。或いは、藤原氏の乱暴者広嗣を除きたいと思っていたのかも知れません。捕らえられた広嗣は裁きの席にも着かずに処刑されてしまいます
 乱の影響が有ったのかどうか? 745年、玄昉が筑紫観世音寺に左遷され、行基が大僧正に任命されます。いよいよ大仏建立の態勢が整ったのです。
 翌年、玄昉は筑紫で入寂してしまいます。広嗣の呪いと噂されていますが、藤原氏の暗殺ではないかと私は思っています。その仲麻呂の魔の手も真備には及びませんでした。東宮大夫(皇太子の師)として尽くす真備が天皇一家の深い信頼を得ていたからです。
 750年、仲麻呂はようやく真備の九州左遷に成功しますが、それにも飽きたらず、遣唐副使に追加任命させます。表向きは藤原氏一の信望を集める清河が大使、大伴氏唯一の気骨漢古麻呂が副使、日本一の知識者真備も副使、この人事は万全に見えますが、三人とも仲麻呂の政敵だったのです。この人事はかなり無理が有ったんです。真備の位階が大使の清河よりも上位だったんです。為に清河と古麻呂の位階をあげて矛盾を繕いました。
 第十二次遣唐使の派遣は藤原仲麻呂にとっては半ば成功といえます。藤原清河と阿倍仲麻呂が遂に日本に帰れなかったからです。
 この第十二次遣唐使団には大事な使命が託されていました。
 一つが鑑真とその高弟達を渡日させる事。一つは日本という国を文明国家として唐に認めさせる事でした。
 753年元旦、朝賀の席に着こうとした遣唐使一行、特に古麻呂が驚いた。日本の席次が西のチベットの下で、東の一番が新羅だったからです。直ぐに抗議する古麻呂。
「昔から今に至るまで、久しく新羅は日本に朝貢しています。ところが今、新羅は東の一番の上座に連なり、日本はその下位に置かれています、これは義にかなわない事です」
 古麻呂の抗議が叶い、新羅を西の二番に、日本を東の一番に席次を交換しました。煩わしいから、新羅とチベットに言い含めて代えたのです。大使の清河と真備がどう考えていたのかは伝わっていません。少なくとも真備はどうでも良いと考えていたとと思いますし、清河も玄宗皇帝を余り刺激したくないと思っていた筈です。その後も古麻呂の強気な外交が効をそうします。
 鑑真の招請を願いでた所、あっさりと許可されます。しかし、道士(道教僧侶)を連れて行くことが条件でした。李姓の玄宗皇帝は、同じ李姓の老子を敬愛して仏教から道教へと国教を代えつつありました。念のために、この道教は老荘の教えとは全く関係有りません。老荘というのは宗教では決して無く、むしろ哲学に近いかも知れません。老荘を簡単に説明するのは到底無理ですが、人は無に帰り宇宙と一体にならなければいけない、大体こんな具合に考えれば良いかと思います。ちなみに、私は真備は老荘の徒であったと推測しています。
 遣唐使一行は道士の受け入れを断り、鑑真の招請もあきらめてしまいます。しかし、玄宗皇帝への配慮として、四人の留学生に道教を学ばせる事にしました。ここでまた、古麻呂が活躍しました。鑑真和上自身が渡日に強い意志を持っていたなら、密航させようと言い張ったのです。
 鑑真一行の密航が決まり、鑑真は大使清河と阿倍仲麻呂の乗る第一船に乗り込み、いまや出航という時、唐の官憲の動きが活発になり、船の捜索が行われそうだ。という噂がながれ、大使清河は苦渋の選択をします。鑑真一行はやむなく下船させられます。落胆に呉れる鑑真一行を古麻呂が助けます。密かに鑑真和上と弟子達を招き、独断で自分の乗る第二戦に乗せてしまいました。古麻呂というのはまるで戦国武将のような気骨をもった人ですね。武士の原型になったのかも知れません。
『海行かば、水漬(みず)く屍、山行かば、草生す屍』これは大伴氏の家訓となった歌で軍歌の元になりました。大伴氏というのは大和朝廷随一の丈夫(ますらお)で、その大伴氏で一番の気骨漢が古麻呂だったんです。

 運命というものは不思議なものですね、鑑真が下船した第一船は強風で中国に戻され、藤原清河と阿倍仲麻呂は遂に故国の土を踏めませんでした。他の三船はなんとか日本に帰還しました。
 帰朝を果たした吉備真備と大伴古麻呂には藤原仲麻呂との死闘が待ち受けていました。
 無事帰朝を果たした副使の二人、吉備真備と大伴古麻呂も、そして第四船も754年四月に日本に帰り着きましたが、第一船は安南に漂着し、藤原清河も阿倍仲麻呂も遂に日本には帰ることが出来ませんでした。
 754年三月、孝謙天皇は真備を鑑真和上への勅使に任命しました。
「大徳和上、遠く滄波を渡りてこの国に投ず、(中略)、今より以後、受戒伝律のこと、ひとへに和上に任す」と口頭でで勅を伝える真備。この事はいかに孝謙天皇が真備を信頼していたかを物語ますが。孝謙天皇の心情は複雑だったに違い有りません。真備を嫌う藤原仲麻呂とは愛人関係に有ると噂されていたからです。いいえ、この頃までは孝謙天皇は藤原仲麻呂を愛していたと思われます。以後、その愛は道鏡の方に向かって行きます。  四月の人事で、副使の二人はともに正四位下へと昇進したが、古麻呂が左大弁(中央各省の調整官)を賜ったのに対して、真備を待っていたのは太宰府への左遷でした。大和朝廷の忠臣二人を切り離し、藤原仲麻呂は着々と独裁へと盤石の布石をしいて行きます。
 756年二月、左大臣橘諸兄臣下の佐味宮守が紫微令(しびりょう)藤原仲麻呂に「左大臣は聖上皇にたいして謀反の疑いが有る」と密告しました。激怒した諸兄は失意の内に追い詰められ、孝謙天皇に対して辞任を申し出ました。この辞任願いは慰留される事無く直ちに受理されました。藤原仲麻呂の思うつぼにはまったのです。
 756年五月、聖武上皇崩御。
 もはや藤原仲麻呂が遠慮する権力は何も有りません。
 聖武上皇の初七日が終わった日、三関(愛発、鈴鹿、不破)は閉じられ、謀反の疑いが有るとして、大伴氏の長老格大伴古慈悲(こしび)と天智天皇系の淡海三船(おうみのみふね)が逮捕されました。二人は二日後に釈放されましたが、古慈悲は土佐守に左遷されてしまいました。一族の長大伴家持は『族(やから)を諭す歌』を詠んで軽挙妄動を戒めました。これら一連の謀略を太宰府の真備はどんな気持ちで見ていたのでしょうか。真備はただ黙々と防衛の為の任務をこなしていました。
 翌757年正月、橘諸兄が亡くなった。いよいよ藤原仲麻呂の独裁恐怖政治が始まったのです。
 六月九日、勅令五条によって、橘、佐伯、大伴氏の各氏族が徒党を組むことを禁じた。明らかに三氏族への弾圧法でした。
 六月十六日、藤原仲麻呂は大幅な人事異動を行いました。橘奈良麻呂を兵部卿(長官)から右大弁(調整官)へ、大伴古麻呂は左大弁から陸奥鎮守将軍として辺境に追いやられました。さらに仲麻呂は執拗に弾圧を強行します。
 七月二日、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を初めとした反仲麻呂の大物が次々と逮捕され、厳しい糾問と凄惨な拷問が行われ、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、大伴池主、大伴駿河麻呂、小野東人らが次々と悶死していった。仲麻呂は兄の豊成さへも太宰府に左遷してしまい、完全な独裁体制を完成させました。
 翌758年八月、孝謙女帝は淳仁天皇(仲麻呂の傀儡)へ譲位し、仲麻呂は藤原朝臣恵美押勝と改名して朝廷の政治と軍事の権力を一手に集めました。
 760年、恵美押勝は六人の腹心を太宰府に派遣して、吉備真備から諸葛亮孔明の八陣(はっちん、軍陣の形式)や孫子の九地(くち、地形による戦術)を学ばせています。恵美押勝は吉備真備の実力を認めていながら、地方豪族でしかない真備を、自分の兵力を持たない真備を、侮り過ぎていたのかも知れません。九州に置いている限り安全だと思っていたのです。
 761年、大規模な新羅征討計画を発表。
 762年六月、孝謙上皇が反撃に出た。嘗ての愛人押勝の傀儡淳仁天皇から天皇権を剥奪しようとした勅令を発した。
 764年正月、孝謙上皇は造東大寺長官として吉備真備を都に呼び戻しました。この時、真備は辞表を太宰府に提出していましたが、それが朝廷に報告されない内に、いままでは殆ど藤原氏に独占されていた造東大寺長官に任命されてしまったのです。
 真備の人事が物語っているいるように、上皇陣営が次第に優位にたって行きます。
 九月十一日、追い詰められた押勝が遂に挙兵しました。いわゆる恵美押勝の乱ですね。大乱になりかねない騒乱でしたが、真備の戦略であっけない程の短期間(八日間)で鎮圧され、恵美押勝は家族従者三十四人とともに処刑されてしまいました。
 続日本紀に曰く、
 藤原仲麻呂が謀反を起こした時、吉備真備の指揮や編隊ぶりは非常に優れた軍略で、賊軍は遂に策謀に陥り、短期間ですべて平らげられた。・・・と。
 その後も真備は朝廷と日本の為に懸命に尽くし、遂には右大臣にまで登り詰めました。真備が出世そのものを望んでいたとは、私には到底思えません。真備の本質は学者であり、教師であり、啓蒙家だったんです。真備は囲碁の名人としても知られています。真備の戦略眼というのは囲碁によって培われていたのかも知れません。また、私は真備は老荘の徒であると推測しています。真備が留学した唐の、いや古代中国の政治家の多くが、昼は儒家か法家、夜は老荘の徒でした。真備も儒教を学ぶために唐に留学し、老荘の教えに出逢ったのではないでしようか。だから、出世を望まぬのに右大臣まで登り詰めてしまったのです。
   2016年12月14日   Gorou&sakon


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