アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

母を殺そうとして地獄に落ちた火麻呂は実在していたか?

2016-12-05 01:12:20 | 日本古代史
愛妻恋しさ故に実の母親をも殺害しようとして地獄に落ちた、吉志火麻呂は実在したのだろうか?

 火麻呂はその悪行故に、日本最古の説話集『日本霊異記』と『今昔物語』にその名を残した。

 霊異記では火麻呂の吉志は大伴の大臣に連れられて武蔵に移住して着たと伝えています。南河内に本拠を置いていた大伴氏の誰かが(大伴赤麻呂という説があります?)傭兵、或いは隷属民として連れてきたのでしよう。武蔵国鴨郷は現在の五日市の辺りで、いまでも来野(漢字表記は自信が有りません、誰か教えて下さい)性が遺っているそうです。

 大伴氏と縁の深い豪族としては‚同国近隣(おなじきくにちかきとなり)の人と言われている紀氏がいます。紀氏は蘇我氏から分かれてきたという伝承を持っていますが。元々はみ百済の木氏や朴氏等の木偏を持つ氏族の末裔だと思われます。

 

 私は、この紀氏と火麻呂の吉志は元は同族だと推測しています。

 吉志、喜志、貴志、紀氏、いずれも音はキシで、皆大伴氏に従属していました。紀氏は貴族になり喜志や吉志ぱ隷属民、或いは庶民になったのでしよう。南河内の喜志は難波の喜志という名で総称され、富田林市に喜志という町名、近鉄南大阪線に喜志駅が有ります。

この辺り一帯が難波の喜志の本拠地だったのでしよう。

 火麻呂の吉志は武蔵の国守に赴任する大伴某かに従って武蔵に移住してきた喜志の孫かひ孫ではないでしようか? 私は火麻呂は実在していたと思えてならないのです。根拠は、

『日本霊異記』では全くのフィクションを殆ど扱っていません、特に登場人物は可成りの確率で実在の人物を扱っているのです。


 名前は本当に吉志火麻呂? それは少し怪しいと思います。

 防人の軍政は十人を最小としてその隊長を火長、五十人隊長を隊正という呼び方をしていたようです。火麻呂は防人の十人隊長,火だったのではないでしょうか、或いは炎のような心の持ち主だったから火麻呂という呼び名で伝えられたと思われます。この時代の庶民の名前は殆ど伝えられていません。正倉院に戸籍が遺っていますが、それともいい加減で、男は動物の名前だったり、麻呂がついていたりします。女はたいていは刀自がついています。因みに麻呂は坊やという意味で、刀自は奥さんとか婆さんという意味だと考えれば間違いが少ないと思います。

 女性の名前に子をつけるようになったのはこの時代からですが、藤原氏が始めたようです、隋唐文明の影響を受けた開明的な大郷族藤原氏ならではという気がします。子というのは中国では男子の尊称ですね、老子、壮士、孔子などのようにです。


 百済救済に派兵した白村江の戦いで壊滅的な打撃を受けた大和朝廷は、唐・新羅の連合軍が襲来すると思われる北九州に山城や水城を築き、筑紫の太宰府を中心に北九州一帯を要塞化して、東国から防人を徴収して守らせました。当時、西国の兵士は弱く、東国(現関東)の兵は屈強だと信じられていたのと、白村江の戦いで西国兵は壊滅状態に陥っていたからです。

 当初、防人に徴用されると死ぬか老いるかしなければ帰郷できませんでした。逃亡が相次いだ為に、たぶん西暦七百二十年前後に期間は三年と定められ、親の葬儀の為に一年の休暇が与えられるようにまなりました。火麻呂の説話は聖武天皇の御代と明記されていますから、丁度この頃、720年代の後半と考えられます。

 任期を終えたり、親の喪に服するために帰郷する防人の大半が故郷に辿り着けませんでした。防人には給金が支給されましたが、貨幣経済が浸透していなかった当時では、銭で食料などを売ってくれる人は殆どいなかったのです。東国に帰郷しようとした防人の大半が野盗の餌食になるか、仲間たちと徒党を組んで、野盗そのものになって生き抜いたのです。万葉集に収集された防人の歌には秀歌が多く、防人の悲哀と哀愁に満ちています。


 吉志火麻呂は愛妻恋しさの余り、生みの母日下部真刀自を殺そうとして果たせませんでした。霊異記と今昔物語では大罪故に地獄に堕ちるのですが、実在の火麻呂は防人を抜けて放浪したのではないでしようか? そして野盗の群れに投じたか、野盗の頭となってこの世の地獄を流離ったのです。


 というわけで、吉志火麻呂、或いは火麻呂のような男がいたと私は考えております。
   2016年12月5日   Gorou&Sakon


コメントを投稿