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千三百年以上前にあった大東亜戦争 白村江、ハクスキエ、あるいはハクソンコウ

2016-11-24 10:53:42 | 日本古代史
千三百年以上前にあった大東亜戦争
白村江、ハクスキエ、あるいはハクソンコウ

 皆さん、大東亜戦争って知っていますか? 
 第二次世界大戦、太平洋戦争、こう言われれば殆どの人は知っていますよね。東アジアの大きな戦争、つまり大東亜戦争は、アメリカが参戦する前の呼び名なんです。戦場は東シナ海、朝鮮半島、満州平野、中国大陸での大東亜の覇権・利権争いと理解して下さい。

 大日本帝国陸軍が一方的に仕掛けた侵略戦争と言われています。エッ!海軍は違うの? そうです海軍は余り乗り気では無く、むしろ不戦論が主流を占めていました。これは陸軍と海軍の歴史を維新戦争の頃までさかのぼらになければ説明出来ません。いずれ機会を改めてお話ししたいと思います。

 この大東亜戦争、初めてじゃ無かったんです。千三百年以上前の西暦693年に白村江(現:錦江近郊)というところで起こっています。これを私は第一次大東亜戦争と言っています。
 百済救済、というよりは再興の為に大和朝廷が派兵しました。もう滅亡した百済国の為にですよ、それも大唐帝国と新羅の連合軍に対してです。少し変ですよね、理由を憶測すると?
 一つは百済が滅ぼされ、高句麗も唐と挟撃されて風前の灯火でした。次は自分の番だと恐怖にかられた事です。そんな懸念は必要無かったんですけれどもね。なんて事は今だから分かることで、当時は恐れたとしても仕方が有りません。

 少し前までは朝鮮半島の三国の中では新羅が一番劣勢だったんですが、高句麗遠征(これは隋時代からの中国の念願でした)に意欲を燃やす唐と結びました。まず西の百済を唐を滅亡させ、次に高句麗を滅ぼそうと狙っていたのです。

 もう一つは、大胆にも、日本は朝鮮半島征服に意欲を燃やしていたんです。この時代に限らず、日本の統治者たちの意識には、朝鮮半島を統治したいと想いが常に有ったんです。後世、老いの為に錯乱した秀吉が、信長の遺志を継ごうと思い込んで朝鮮に無体な侵略を仕掛けて泥沼にのめり込んでしまいました。

 信長の意識には朝鮮征伐というのは無く、むしろ明まで攻め込んで、アジアの覇権を掌中にしてヨーロッパ列強の侵略を阻止しようという思いがあったようです。西から攻めようが、東から攻めようが侵略は侵略なんですけれどもね。大東亜文化圏の覇者となる願望が帝国陸軍に引き継がれてシナ事変、朝鮮侵略、満州建国と、暴発してしまったという訳なんです。


東アジアの歴史は扶余と靺鞨の相克の歴史である。と言っても差し支えが有りません。

 扶余も靺鞨もツングース系の民族で、時の流れの中でその名前を様々に変えて呼ばれて来ました。

 現在の民族名で表記すると、扶余が朝鮮(ちょそん)族、靺鞨が満州族という事になります。ともに中国の東北地方の扶余というところを民族の起源としています。多分、元々は同じ民族で、支配者階級が扶余となり、隷属民・庶民が靺鞨となったと思われます。

 扶余(場所)は非常に気候的には厳しい所で、扶余族も靺鞨族もより温暖な土地、ユートピアを求めて南下して行きましたが、万里の長城と中華帝国に阻まれて、中国には入れず、長城を迂回せざるを得ませんでした。そして、ともに一部の人々が日本列島にたどり着き、列島の先住民・縄文人と混血したり、協力し合ったり、残念ながら征服したり迫害したりしながら、日本という国を創ったのです。日本人には扶余と靺鞨の血が入っていると言うことになります。大まかに言えば、西日本に扶余の血が濃く、東日本には靺鞨の血が濃いと考えられます。

 夷狄という言葉が有ります、元々は扶余と靺鞨を指していたとも考えられます。中華帝国の北に居る蛮人を北狄と言い、東に居る蛮人を東夷と呼ばれていました、夷狄という言葉は、必ずしも特定の民族を指すものでは有りませんでした。魏志倭人伝でも分かるように日本も東夷の一つだった訳です。

 扶余国は西暦494年に滅亡しますが、扶余の遺族は朝鮮半島に高句麗、新羅、百済王朝を築きます、勿論三国だけでなく、多くの国を興していますが、この三国に統合されたのです。

 一方の靺鞨人たちは中華にも朝鮮半島にも入れず、いわゆる満州地方から現ロシアの沿海州にかけて続々と建国、とはいっても国家というより、部族といった方が正しいと思います。王というより首領に率いられていました。そくんな靺鞨の部族が七つあったと伝えられています。

 因みに、満州というのは元々は地名ではなく民族名が起源なんです。彼らは自分たちの事をマンジュと呼びました、文殊菩薩を信仰していたからです、満州族の英雄は皆文殊菩薩の化身と自らを言い、そう信じられていました。

 扶余を征服王朝のスペシャリストといいます。高句麗王朝、百済王朝、そして倭国などを建国したと考えられるからです。私に言わせれば、靺鞨の方が遙かに凄いんです。宋(正確には北宋、南宋はその後も存続)を滅ぼして、中華に金という帝国を築き、明を滅ぼして清帝国を築くのですから。金の建国英雄が愛親覚羅ワンガンで、清の建国英雄を愛親覚羅ヌルハチと言います。因みに、アイシンとは黄金という意味の満州言だそうです。

 話が前後してしてしまいましたが、古代に戻しましょう。
 朝鮮半島の三国は、虎視眈々と統一を目指し、今日の同盟国は明日の敵国という風な具合で、しかも、倭国までが任那の支配から征服を画策していましたから、私などには皆目様子が分からないんです。

 三国の中で一番劣勢だった新羅が大唐帝国に縋った事で、様子がガラリと変わってしまいました。高句麗・百済・倭国の天孫族系(天孫降臨伝説を持つという意味)連盟国と、卵性伝説を持った漢族・新羅連盟との戦いになったのです。話としては非常に分かりやすくなった訳です。私の言う第一次大東亜戦争の始まりです。

 新羅は627年に百済から攻められた際、唐に援助を求めましたが、内戦最中の唐は救援軍を送れませんでした。高句麗遠征にて高句麗・百済が唐に対して敵対的になったことで唐と新羅との関係が親密化し、善徳女王(632年~647年)のもとで実力者となった金春秋は積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(~661年)として即位すると、更に両国の間は一気に親密化して行きす。

 大化改新最中の倭国内部でも警戒感が高まり。651年に左大臣巨勢徳陀子が倭国の実質的な首班となっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが採用されませんでした。

 660年、新羅よりの救援要請を受けて唐が軍を起こし、同年に唐・新羅連合軍によって百済が滅亡。唐は百済の旧領を郡県支配の下に置きましたが、すぐに百済遺民による反抗運動が興ったのです。
 660年に唐・新羅連合軍によって百済が滅ぼされたのち、百済の遺臣は百済復興の兵をあげ、倭国に救援を要請した。
 これを受けた倭国は、661年女帝(斉明天皇)自らが九州まで出兵しますが、崩御してしまいます。暗殺説も有りますが、68歳でしたから、お亡くなりになっても別に不思議は有りません。この女帝は中大兄皇子の母親で、皇子の十六歳の時に皇極天皇として、その後弟の孝徳天皇に譲位しますが、再び斉明天皇として重祚 します。名を宝姫皇女と言い、蘇我蝦夷との雨乞い合戦の勝利で有名です。

 皇極天皇時代にあの大化の改新が起こり、政の実権は中大兄皇子が握りました。女帝は祭事を担当していたのでしょう。

 この時代には日本特有の天皇制はほぼ確立されていた思われますが。一般庶民の間では天皇というより大王として認識されていました。

 天皇、すめらみことの意味を知っていますか? 統べる尊、だと思っている人が多いと思われますが、澄める、或いは清める尊と考える方が天皇の実体が分かりやすいんです。澄んだ清い心でお使えするお方なのです。


 さて、本題に戻りましょう。
既に主権を持っていた中大兄皇子母帝崩御の後、敢て即位せずに百済支援を続けます。
第一軍、一万余名。第二軍、二万七千。第三軍、一万余名。と伝わっていますから当時としては大変な大軍です。対する唐・新羅連合軍は一万二千程でしたから、勝てる戦だと思っていたのでしよう。だいたいこの一戦に勝ったとしても、後が持たないということが分からなかったのでしょうか。
 白村江の海戦で倭国は壊滅的な大敗をします。陸戦の方も大敗をして、命からがら日本に逃げ帰ったというわけです。

 唐・新羅連合軍の兵は殆んど女真族(靺鞨)だと伝わっています。倭軍も奴として徴用されていた靺鞨系の兵士が主力だと思われます。なんだか切なく、悲しいですよね。当時の東アジアの戦争はこんな具合に靺鞨と靺鞨が戦わせられていたんです。靺鞨兵は屈強で弓戦に優れていたんです。まさに最強の傭兵だったわけです。

 壊滅的な大敗を喫した倭国は北九州に水城や朝鮮式山城を築き、大野城と太宰府を設置して唐・新羅に対する防御線を引き、東国から防人を徴用しました。そして、朝鮮半島への野心をひたかくしにし、遣唐使を派遣するなどして唐との関係修復に勤めました。

 唐・新羅連合は次に高句麗征伐に取りかかり、668年遂に高句麗を滅ぼしてしまいました。

 新羅は念願の朝鮮半島を統一したのです。

 百済の貴族・知識者階級は悉くと言って良いほど倭国に亡命しましたが、高句麗の貴族は広大な満州に散り散りになりました。ある意味では故郷帰りかも知れません。

 唐の支配に対して、靺鞨と高句麗の遺族が独立戦争を興し、698年渤海国が建国されました。初代の王が大作栄(テジョヨン)、高句麗の貴族大氏を称していましたが、父親の名がコルコル・チュン・サンと言いますから、大氏を母に持つ混血だったのでは? と推測出来ます。

 この渤海国の支配者・知識者階級は高句麗の貴族が占め、庶民階級は靺鞨族が主でした。扶余と靺鞨が協力して建てた初めての国だと言えます。


 渤海は727年に日本に検使を派遣して来ました。以来、新羅への牽制の意味合いも合って、倭国と渤海は頻繁に使節を派遣し合います。遣唐使よりも遙かに多いんです。

 倭国、倭国と、何度も書いて来ましたが、八世紀になって倭国は日本と名乗るようになり、間もなく唐も文明国家日本を認めたようです。このことは、2004年に一人の遣唐留学生の墓碑が発見された事で明らかになりました。名前は井真成、日本国から来たれり、と墓碑に刻まれていました。日本という国名が記された最古の文献です。2005年の検唐史覧で里帰りした墓碑をご覧になった方もいるのではないでしようか。墓碑のレプリカが藤井寺市に保管されていますから、是非機会があったら観に行ってはいかがでしようか。

 奈良時代に入って初めて『日本』という文明国家と『日本人』という意識が生まれたんですね。反面、朝鮮人への蔑視も生まれてしまいました。日本の知識者階級の大半が百済系で占められたのですから、朝鮮(しらぎ)の悪口を散々言い、書いたのです。以来、日本人が朝鮮と言えば新羅を指すように成ったのです。

 815年、新選姓氏録(しんせんしょうじろく)という五畿内古代氏族の国勢調査のようなものが選進されました。皇別(皇族)、神別(天津神、国津神の子孫)、蕃別(渡来民)に分けられ、渡来系は326氏いたそうですが、新羅系の氏族は中国からの渡来民であると、殆どが届けたそうです。それだけ迫害が激しかったんでしようね。

 ところで、日本人って何なんでしようか? 日本人は存在しますが、日本族という民族は学問的にはいないんです。だから、「日本人が一番優れている」という第二次大東亜戦争を引き起こした認識は間違っているんです。学術的には日本族は朝鮮族の一種と言うことになります。血液の構成から考えると、朝鮮族、満州族、日本列島の先住民(縄文人)、南方系の渡来民などの混血なんです。

 個人的には、日本に住んでいる人の全てが『日本人』だと思います。肌の色や、宗教、文化の違いなど関係有りません。日本で暮らしている人の全てが日本人なんです。

 第二次大東亜戦争の反省も大事ですが、第三次大東亜戦争を引き起こさないように努力する事が一番です。その為には、出来るだけ偏見や差別意識を持たない事なんです。怒ったり罵ったりする前に、少しだけ相手の事を相手の立場に立って考えてみましょう。100パーセントの正義なんてあり得ません。それぞれの言い分があって、それぞれが正しいんです。日本と朝鮮の問題に絞って考えると、私たちが朝鮮の事を、チョウセンと発音しないでチョソンという発音を心がけるだけでも関係は少しだけ修繕出来るんです。東アジア全体で考えると、元々は同じ血が入っているんですから、なんとか仲良くやって行けないんでしようかねェ!?
    2016年11月24日 Gorou


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