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ふとしたこと

日々に気づいたことを書きます

土曜日は囲碁三昧

2011年08月01日 10時02分12秒 | 囲碁

碁というものは、読みが全て。

形だの気合だの言いながら打ってはいるものの、

やはり、その全てが必然の手段の読みによって支えられてないとね。

日本の囲碁が韓国や中国の後塵を拝するようになったのは。

しょせん、厳密・正確な読みの力に差があるからだ。

そんなこと言われなくてもプロたちは知ってる。

読みの力の差は何処から来るのか?

これもハッキリしてて、普段の勉強量によって決まるのだ。

しからば、何故日本のプロ達の勉強が足りないのか?

 

理由1:そんなに必死になって勉強しなくても・・・

 

ある程度の強さになれば、結構食うに困らないのだ。

何とかリーグ、例えば本因坊戦リーグなど。

このリーグのメンバーになるだけで、年俸数百万円ほどは

保証されたようなものなのだ。

つまり、リーグ戦で1局打てば、数十万円。

それを7局打てば・・・

さらにこのリーグ戦で優勝して、本因坊戦の挑戦者にでもなると。

さらに、何百万円かを得るし、挑戦手合いで相手を倒せば

これがなんと、年間3000万円近い収入になる。

こういった大きな棋戦が現在3つある。

で、それぞれのリーグ入りを果たせば・・・

それだけで・・・

何も韓国や中国などへ出掛けなくたって、国内棋戦を

ちゃんとこなしさえすれば、生活は安定。

な~にも、ヒザの毛が擦り切れたり、重い棋書を持って指の骨が

曲がるほどの努力をする必然性を感じないわけだ。

 

理由2:みっともない棋譜を残したくない!この気持ちが薄い。

 

「囲碁は芸であり、棋士の生きるよすがは、素晴らしい棋譜を残すことだ!」

と戦前の古い棋士たちは考えていた。

が、今の棋士たちで、そんなことを考えて碁を打っている人が

どれほどいるだろうか?

オイラが察するに、この二つの理由から、現代の棋士たちの

努力と勉強量が著しく、低下しているのだと思う。

酒や競馬に夢中になって・・・

本来、最も自分に投資しなければならない勉強を捨て去って

棋士とは何か?

を自ら問うことを忘れてしまった。

だから、大陸の棋士達に、まるで歯が立たなくなった。

さも、ありなんである。

こういうプロの世界の変貌と我々アマチュアの碁の愉しみは

まったく別次元にあって・・・

朝から晩まで、へぼ碁を並べて憚るところが無い。

アマチュアにとって、囲碁などというものは

絶対無価値なものである。

勝った、負けたもまた、相対的なものであり

その結果など、これまた絶対的に無価値なものである。

囲碁の楽しみとは何かといえば、

それは自己満足的な人間関係の上に築かれた

頭のスポーツをする喜びといったところであろうか?

自己満足的な人間関係の成立していないところでの

囲碁の楽しみは極めて限定的なのである。

 


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