
碁というものは、読みが全て。
形だの気合だの言いながら打ってはいるものの、
やはり、その全てが必然の手段の読みによって支えられてないとね。
日本の囲碁が韓国や中国の後塵を拝するようになったのは。
しょせん、厳密・正確な読みの力に差があるからだ。
そんなこと言われなくてもプロたちは知ってる。
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読みの力の差は何処から来るのか?
これもハッキリしてて、普段の勉強量によって決まるのだ。
しからば、何故日本のプロ達の勉強が足りないのか?
理由1:そんなに必死になって勉強しなくても・・・
ある程度の強さになれば、結構食うに困らないのだ。
何とかリーグ、例えば本因坊戦リーグなど。
このリーグのメンバーになるだけで、年俸数百万円ほどは
保証されたようなものなのだ。
つまり、リーグ戦で1局打てば、数十万円。
それを7局打てば・・・
さらにこのリーグ戦で優勝して、本因坊戦の挑戦者にでもなると。
さらに、何百万円かを得るし、挑戦手合いで相手を倒せば
これがなんと、年間3000万円近い収入になる。
こういった大きな棋戦が現在3つある。
で、それぞれのリーグ入りを果たせば・・・
それだけで・・・
何も韓国や中国などへ出掛けなくたって、国内棋戦を
ちゃんとこなしさえすれば、生活は安定。
な~にも、ヒザの毛が擦り切れたり、重い棋書を持って指の骨が
曲がるほどの努力をする必然性を感じないわけだ。
理由2:みっともない棋譜を残したくない!この気持ちが薄い。
「囲碁は芸であり、棋士の生きるよすがは、素晴らしい棋譜を残すことだ!」
と戦前の古い棋士たちは考えていた。
が、今の棋士たちで、そんなことを考えて碁を打っている人が
どれほどいるだろうか?
オイラが察するに、この二つの理由から、現代の棋士たちの
努力と勉強量が著しく、低下しているのだと思う。
酒や競馬に夢中になって・・・
本来、最も自分に投資しなければならない勉強を捨て去って
棋士とは何か?
を自ら問うことを忘れてしまった。
だから、大陸の棋士達に、まるで歯が立たなくなった。
さも、ありなんである。
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こういうプロの世界の変貌と我々アマチュアの碁の愉しみは
まったく別次元にあって・・・
朝から晩まで、へぼ碁を並べて憚るところが無い。
アマチュアにとって、囲碁などというものは
絶対無価値なものである。
勝った、負けたもまた、相対的なものであり
その結果など、これまた絶対的に無価値なものである。
囲碁の楽しみとは何かといえば、
それは自己満足的な人間関係の上に築かれた
頭のスポーツをする喜びといったところであろうか?
自己満足的な人間関係の成立していないところでの
囲碁の楽しみは極めて限定的なのである。
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