ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 27  泉徳寺薬師如来坐像 上

2013年03月07日 | みほとけ

 泉徳寺の薬師如来坐像を初めて知ったのは平成17年、最近のことであった。大淀町の刊行になる文化財調査報告書か図録かを開いて、なにげなく一見した写真が非常に印象的であった。その場で写真をよく見直し、間違いなく吉野地域に伝存する藤原彫刻遺品のなかでは最優秀の出来であると感じた。居ても立ってもいられなくなり、次の休日にはやる気持ちを抑えつつ現地へ急いだ。
 御住持に挨拶して本堂内陣へ導かれ、内陣に淡く浮かび上がる優美かつ端整な像容を仰いだ時、なにか温かい心で包まれたような安らぎを感じた。これこそ、長い間探し続けていた像かもしれない、と。

 この薬師如来坐像は、典型的な定朝様式を示すだけでなく、造形表現の質において定朝様式の通念よりも高度な意識を内包する。定朝仏に倣う表現、という程度ではなく、定朝仏の根本精神をそのまま表わす形である。この作域に達し得る仏師は定朝一門でも極めて限られる。定朝その人か、そうでなければ嫡男の覚助、弟子筆頭の長勢ぐらいしか浮かばない。そのうえで薬師如来坐像の相貌表現に着目すると、まず眼の形において長勢の広隆寺日光月光両菩薩立像に近い。さらに全体的な造形感覚が長勢作の可能性が指摘される浄瑠璃寺九体阿弥陀如来坐像四号像に極めてよく似ている。

 このことから、長勢風の表現が泉徳寺薬師如来坐像の相貌の基調であることが最初に理解される。が、あくまでも相貌のみであって胴体や膝部には長勢風の柔らかさが全く表れない。頭部の輪郭は相貌とはややかけはなれて硬さを残す。かすかに両肩に力を入れて両腕をかすかに上げて印を結ぶ点も見逃せない。このわずかな力感を生むために腹式呼吸がなされたかの如く、腹部が丸くやわらかく盛り上がる。
 この表現は人間の動きに対する綿密な観察なしには成立しない。これも一種の厳格なる写実意識であり、単なる前例の踏襲や模倣では習得し得ない部分である。作者の個性的な感覚のみが具体化し得るかたちであり、定朝仏の根本精神を踏襲しての造形とはやや異なる。したがって長勢作の可能性は薄れる。

 再度、相貌表現を見直してみると、この長勢風の感覚は長勢のそれというより、その原形である師定朝の造形そのものとみたほうが適当なようである。いま長勢風といわれている表現は、多くが定朝の作風の踏襲であるとみても矛盾しないので、泉徳寺薬師如来坐像の相貌表現は、定朝の手になるものとみて良い。よく似た作例に定朝作の可能性が説かれる妙楽寺地蔵菩薩半跏像が挙げられるのは偶然ではなく、さらに浄瑠璃寺九体阿弥陀如来坐像四号像の作風が同中尊阿弥陀如来坐像に近似することとも矛盾しない。
 それで、この表現が定朝仏の完成形たる平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像の形式美の手前に位置することが理解されるが、時期的にはかなりの間があるとみたほうが良さそうである。

 これらをふまえると、両肩に力を入れて両腕をかすかに上げて印を結ぶ姿勢が定朝活躍期の前半期の作例に多く見られる点が重要となる。続いて膝部の自在で流麗な衣襞表現が力強さと柔軟さとを併せもった微妙なリズムを示すのが興味深い。両肩や両膝部分に向かって消えていく衣文の静かな動きと連動して、静かに座しているはずの肢体に穏やかな動きを加味している。
 この絶妙の造形に焦点を狙い定めての的確な彫技というものは、日本の著名な仏師の多くにすらなかなか見られない。藤原彫刻の根本を決定づけた造形上の強力な一線がそこにある。これを初めて編み出せる仏師とは、定朝をおいて他には無いであろう。

 おそらく、泉徳寺の薬師如来坐像は、定朝による独自の造形表現が藤原時代の精神に次第に合致し始めて様式への発展過程をとりつつあった段階の作であろうと推定される。定朝その人でなければ、誰がこの定朝様式への発展過程に立ち得るであろうか。
 これこそ長い間探し続けていた像かもしれない、との想いは再拝の機会を得てより強くなった。残る問題は、この像の造立時期をどこまで絞り込んで推定出来るかであった。 (続く)

(写真の撮影および掲載にあたっては、泉徳寺様の御許可を頂いた。)