ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 18  薬音寺伝弁財天立像

2011年12月03日 | みほとけ
   
 薬音寺仏像群にあって聖観音菩薩立像に次ぐ作域を示すのは、寺で弁財天と伝える俗形の天部形立像である。聖観音菩薩立像とは異なる線によって連眉の名残を思わせる眉の形があらわされ、細長くつくられた眼の鋭さに呪術性すら漂う。この造形表現は俗形神像としての天部形像にまま見られる性質のものだが、だからと言ってこの像を俗形神像の一種と推定するのは早計であろう。それよりは同じ姿形をとるもう一躯の天部形立像を寺では帝釈天と伝えることに着目し、これと対になるべき伝弁財天立像の造形や姿形の意味をまず問うべきである。
   
 仏浄土を彫刻群像にて立体化する場合、本尊を中心として左右に侍する諸尊は原則として対の関係を持つ。薬音寺の初期安置像も例外ではなく、薬師如来坐像を主尊として釈迦、阿弥陀の両坐像がほぼ同じ姿形にて左右に置かれる。これに続いて同じ10世紀頃の造立とみられる比丘形立像と俗形天部立像がほぼ同一の法量と姿をもって二躯揃うのであれば、これらも薬師如来坐像を中心とする脇侍眷属の位置におかれたとみてよい。比丘形立像をいま地蔵菩薩と伝えるのは姿形の近似からくる二次的な名称である可能性が高いが、俗形天部立像の場合は梵釈の対であったとみて良い。いま弁財天とされているが、本来は梵天であったと思われる。
   
 その理由については、薬音寺に隣接する九頭神社の存在を思い出さねばならない。別称を戸隠社として水神九頭龍王を祭神とするゆえに本地仏は弁財天をあてていたことが知られるが、この九頭神社は室町期以降に遷座したことが明らかであるので、10世紀代の俗形天部立像の一方に当初から弁財天の尊名があてられたかは疑問である。それよりは帝釈天に相対する梵天であって、これに弁財天の名が冠せられたのは九頭神社の移座以降とみておきたい。
   
 これをふまえて、薬音寺の俗形天部立像二躯をあらためて梵釈像と見なす場合、まず天台系の群像遺品によく似た一例が現存することに思い当たる。近江善水寺本堂の薬師如来坐像を本尊とする脇侍の梵釈二像であり、造立時期が10世紀代であることも共通する。
 しかしながら善水寺像の一方は着甲形であり、双方とも鎧をまとわない薬音寺像とは明らかに異なる。梵釈の双方が非武装の大衣姿である例は法隆寺旧伝法堂像や唐招提寺旧講堂像など、南都系の造像例に多い。薬音寺像もまた大和国内での成立であるが故に、南都系の特徴が反映されたとみてよい。10世紀代には天台系彫像も南都との交流によって表現の幅を広げていたことが京畿の諸遺品から知られる。
   
 したがって薬音寺の伝弁財天立像および帝釈天立像の二躯は、薬師如来坐像を主尊とする群像の造立の最終段階に成立したとみられる。10世紀頃から南都系の影響が天台系彫像に現れつつあった時期にあたるが、伝弁財天立像にはそれでも古い表現が根強く息づく。
 この古風さこそが、奈良仏教以来の雑密系尊像としての伝統でもあったと気付くとき、やはり伝弁財天立像も奈良の仏像であるのだと改めて感ぜざるを得ない。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、薬音寺総代様および山添村教育委員会の御許可を頂いた。)


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