ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 5  富貴寺釈迦如来坐像 上

2011年10月12日 | みほとけ

 大和国の藤原彫刻には重要な遺品が極めて多い。しかし奈良において一般的に有名な仏像は飛鳥や天平や鎌倉のそれが多いため、数の上では一番多い藤原の作品が最も印象が薄い。
 その理由の一つに、藤原彫刻の重要遺品の多くが有名寺院ではなく、奈良各地の小さな寺や堂にまつられている状況が挙げられる。ほとんどは公開寺院でないので仏像の存在自体が知られず、隠れ仏的な存在として今もひっそりと伝わる。

 その一例である富貴寺本堂本尊釈迦如来坐像は、国重文指定を受けるものの、本堂とともに通常は非公開であるため、知名度もいたって低い。
 釈迦如来坐像は木造、像高は84.5センチ。彫眼、漆箔とする。構造は矧目が曲線的にみえるので割矧造のようで、底部の隙間からは内刳部分が黒くみえる。切付けによる小粒な螺髪や穏やかな表情の作り、丸みをもつ体躯の輪郭、浅く表された着衣の襞などに藤原彫刻の基調である和様のかたちが示される。これらの特徴が示す年代観は11世紀初頭から前半であり、従来の解説類にみられる12世紀末期説は本堂の墨書銘にある治承二年(1178)に単に結びつけての推論に過ぎない。

 まず像の法量が現本堂の規模に比して小さく、藤原時代には各地に存在した荘園堂(庄堂、惣堂とも)の安置仏を思わせる。現地の保田は平安期より荘園としての開発が進み、集落も中世から集中化が進んで環濠集落にまとまった経緯がうかがえるので、富貴寺もその時期には集落の惣堂としての側面を有していた可能性があり、それは像の年代とも矛盾しない。
 次に、前身堂からの転用とされる来迎壁の密教図像と釈迦如来彫像との組み合わせは違和感がある。彫像による五智如来坐像の一躯が残存した可能性も否定出来ないが、二重円光外輪部に飛天を配置するのは天台浄土様である。富貴寺の由来が不詳であるため、本尊が当初から釈迦如来坐像であったのかも判然としない。

 とにかく歴史的な事柄は殆ど不明というほかないが、仏像が我々に伝えてくれる情報はそれだけではない。造形の上に確かにあらわれる時代の特色や、作者の表現への意識、この像のかたちを造らせた背景などがある程度うかがえる。
 光背および台座は後補とされているが、実見したところ二重円光と台座の下半分は仏像と同時期の作であるようで、11世紀に多い飛天光背と七葉蓮華座の基本形をみせる。ただし光背の外縁部を失い、台座の上半分が後世の蓮華座に変わっている。完存ではないが、藤原彫刻11世紀代の遺品としては状態が良く、それだけでもこの像は重要遺品たり得る。よくぞ残ってくれたと感動を禁じ得ない。

 ところで、藤原彫刻とは、字の如く藤原時代の仏像彫刻全般を指す。大部分は10世紀後半から12世紀後半までの約200年間にわたって平安京の中央仏師一門系統によって造られ広められた作風を共通要素とする。その作風を一般的には「定朝様式」と呼ぶが、厳密には定朝の活躍期である11世紀前半からの作風を呼ぶのが正しい。それ以前の作風や以後の作風には色々なものが見られ、藤原時代の歴代仏師の名にちなんで康尚風、長勢風などと区別する。ちなみに康尚は定朝の父であり大仏師の始祖とされ、長勢は定朝の一番弟子であった。
 こうした歴代仏師のなかで藤原彫刻の歴史に大きな位置を占め、今なお宇治平等院鳳凰堂に傑作を残して不朽の名声を保つのが定朝であり、この人なくして藤原時代の彫刻史と和様化への発展過程は語れない。私が学生時代から学び続けた彫刻史のテーマはこの定朝と定朝仏世界であり、そのために各県の藤原彫刻遺品を追いかけてきた経緯がある。

 その長い道程を経て、いまは大和国の藤原彫刻の数々に対面しつつあるが、準備作業として重要遺品の絞込みを進めていくと、必ずこの富貴寺釈迦如来坐像に突き当たる。定朝と定朝仏世界を考えるうえで重要な「手がかり」を、この像が教えてくれる筈なのである。
 釈迦如来坐像のことは学生の頃に知っていたが、写真を見ただけで実見したことが無かった。思えば迂闊でもあり、非常に遅すぎた今回の初めての拝観であった。しかし像を拝見しているうちに、遅すぎたどころか、今回が絶好のタイミングだったと悟ったのである。 (続く)


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