ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 12  円成寺大日如来坐像

2011年11月07日 | みほとけ

 円成寺の大日如来坐像は、かつては本堂西庇南面側室に仮安置され、近くに尊顔を拝み祈りつつ親しむことが出来た。初めて相対した瞬間の印象がいまだに鮮やかなのも、像との隔たりが無かったことによる。像容を捉えた最初、じりじりと寄せてくる異様な存在感に圧倒されたことを思い出す。その記憶とあわせて「なぜ運慶だったのか」という問いかけが今なお浮かび上がる。

 鎌倉彫刻史における円成寺大日如来坐像の重要さは、仏師運慶の確認出来る最初の事績であること、藤原彫刻定朝様からの作風展開の大きな転換点であることをふまえたうえで語られる傾向にあり、運慶が像の制作にあたった意味や背景についてはあまり顧みられることがない。
 また一般には藤原様式から鎌倉新様式への過渡期にこの像をおいて解釈する向きが多いが、藤原彫刻の本質的な意味から俯瞰する限り、円成寺大日如来坐像の造形は決して過渡期のものではあり得ない。一個の研ぎ澄まされた精神によって成立し完結した、新様式の初発的にして意欲的な完成品というべきである。定朝様式以来の流れや意識は全く見られず、若き日の運慶の輝きがすでに歴史を変えつつあったことを実感出来る。

 私はずっと仏師定朝と藤原彫刻を追いかけてきた身であるので、結果的に鎌倉彫刻の新様式というものの性格や意味が逆によく見えてしまう。定朝の事績や作風を追求すればするほど、運慶という仏師の「特殊性」が鮮やかなほどに感じられてくる。その「特殊性」とは「凄味」と言い換えてもよい。彼の才能によって鎌倉彫刻世界は鋭く切り開かれたが、その記念碑的作品として輝く円成寺大日如来坐像の造立当時の環境や背景が全くといってよいほどに語られないのはどうしたわけであろうか。

 「運慶ばかりに注目する偏ったつまらない鎌倉彫刻史」とは梅村美穂嬢の名言(?)であったが、円成寺大日如来坐像に限って言えば、もっと「運慶ばかりに注目」しなければ何も見えてこない。像の造立された安元二年は歴史区分では藤原時代のうちであるが、造形芸術は常に時代を先取りしてやがては時代そのものを牽引する。その影響は決して小さくはなかったし、大日如来坐像と運慶によって導かれた世界観を考えてみることは決して無意味ではない。

 大日如来坐像の成立は、近世編纂の「和州忍辱山円成寺縁起」および「和州忍辱山円成寺略言志」にまとめられる後白河上皇の一連の作善による。本堂阿弥陀如来坐像への帰依結縁とあわせて仏舎利及び多宝塔寄進のことがあり、後白河の院政期には迎摂会の創設がなされて院と円成寺の関連が明らかである。
 当時の円成寺は、覚鑁流の法脈を受け継ぐ真言念仏忍辱山流の本拠であり、その教義的指導者であった僧兼豪が後白河の信頼を受けて活躍した経緯が知られる。兼豪の構想による真言念仏本尊の基本は「大日即阿弥陀」思想であり、本堂の阿弥陀如来坐像に大日如来坐像を加えることで具体的に完成する。後白河の多宝塔寄進はその構想のうえに実現したものであろう。
 これは円成寺にとっては忍辱山流根本伽藍整備の最終章を飾る事業であった筈なので、多宝塔本尊像の担当仏師の選定は極めて重要であったに違いない。兼豪の構想にかなう技量と信仰姿勢が必須条件だったと思われるが、その適任者が運慶であったことは、そのまま運慶の信仰態度を示唆している。

 運慶が真言系の信仰を持っていたらしいことは、大日如来坐像の基本形が真言宗大日彫像の中心的存在だった教王護国寺講堂本尊大日如来坐像の形式を踏襲したとされる点にうかがえる。「大日即阿弥陀」の理念は既に空海在世時に解釈されていたが、その思想を発展させた忍辱山流の兼豪の指導内容が、運慶自身の信仰や造仏姿勢とうまくかみ合ったのでなければ、多宝塔本尊像の姿を教王護国寺講堂本尊像になぞらえるという発想は成立しない。
 運慶はその後も幾つかの大日如来坐像を造るが、それらの基本形は共通して真言系彫像の系譜を形成する。快慶が熱心な浄土阿弥陀信者であったのに対して、運慶は真言大日信者であったのかもしれない。

 この想定をもとにすれば、円成寺大日如来坐像が鎌倉新様式の初発的にして意欲的な完成品であることも頷ける。「大日即阿弥陀」の理念が真言宗忍辱山流によって発展的に培われたのならば、その最終章を飾る多宝塔大日如来像の造形は完全に新しいものでなければならない。本堂の藤原仏阿弥陀如来坐像を仮身とみなす「大日即阿弥陀」の方針では大日如来が上位かつ絶対的な存在と意識される。それは兼豪の仏教観においても同様であった筈である。そして仏像の「絶対性」は近世以前までは「最新鋭」であることを前提とし、従来の仏像様式とは一線を画した斬新な造形でまとめられることによって効験も一新されると認識された。
 したがって尊像の立体化にあたっては未知の新鮮な作風と造形概念が希求されたであろう。担当仏師の候補に既存の有名かつ老練の者ではなく、無名ながら新たな仏像の型を追求する新進気鋭の作家が選ばれたのは当然の成り行きであった。この若者に可能性を見出した兼豪とは余程の人物であったことと推察される。

 運慶はその兼豪によって指導されたのみならず、仏師としてはこれ以上望めない自由自在の造仏の機会を早くも二十代にして与えられた。この自由自在という条件が、造仏に際して願主の注文などの制約が多かった当時の京都仏師や奈良仏師の造仏には稀なものであったことを考えると、運慶の生涯を通じても数少ない最高の機会とは、実に円成寺大日如来坐像の制作ではなかったかと思われる。この大日如来坐像が、関東下向後の諸作品と比べて格段の出来栄えと深い精神性を宿すのは、運慶にとっても非常に恵まれた状態で持てるだけの能力を発揮出来た数少ない造仏であったことが大きく作用していると思われる。

 円成寺大日如来坐像が、仏師運慶の確認出来る最初の事績であると同時に最高傑作と讃えられるのは、決して誇張ではない。この作品の登場によって康尚、定朝以来一世紀余りにわたった藤原様式が終焉を迎えたからである。その瞬間に運慶がいてくれたことは感動的ですらある。円成寺大日如来坐像を造った時点の運慶の心意気には、時代や造仏傾向の違いこそあるものの、明らかに若き日の定朝のそれと同じものが感じられる。
 だから私は、本堂西庇南面側室にて初めて大日如来坐像と向かい合った日の感動を、今でも忘れない。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、円成寺様の御許可を頂いた。)


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