ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 30  報恩寺阿弥陀如来坐像 下

2013年04月15日 | みほとけ

 報恩寺の阿弥陀如来坐像は、奈良県下における十一世紀前半期の作例としては珍しく古様を示す。その古さは胴体と両脚部によくあらわれるが、まず胴体においては広い両肩と起伏の薄い胸板が挙げられる。肩から両腕につながる輪郭線は角ばっていて肩の広さを強調するとともに体躯の大きさを感じさせる。
 この処理は、定朝様式を中心とする十一世紀藤原彫刻の作品群には見られず、類例は当麻寺金堂弥勒仏坐像、蟹満寺釈迦如来坐像、薬師寺金堂薬師如来坐像などの七世紀後半から八世紀初頭の作品に集中する。胸部の起伏が乏しい点もこれらの作品群に共通するが、着衣の表現がやや異なる。古代の諸作品が腹部を完全に覆うのに対して報恩寺像では腹部上半が露出して丸い線がつく。このあたりは藤原彫刻全般の傾向である。

 次に像全体のフレームである。定朝仏を頂点とする前後の時期には高めの二等辺三角形のフレームが見られるが、報恩寺像のそれは正三角形に近く、大和の古代彫刻つまり飛鳥白鳳天平の遺品群に普遍的にみられるフレーム性を示す。最も近い例が薬師寺金堂薬師如来坐像であるのは偶然の一致ではなく、仮に報恩寺像を栗原寺安置像の再興像とみなして旧像からの踏襲性を推定すれば、薬師寺と栗原寺とが同年代の創建であることが興味深く思い出される。体躯のモデリングと輪郭線も近い傾向にあるので、報恩寺像の手本となった古像とは薬師寺金堂薬師如来坐像のような八世紀初頭の作品であった可能性が浮上する。
 和銅八年(715)に伽藍造営を終わったとされる栗原寺の本尊釈迦如来像もその候補に含まれるのは面白い。これによって「栗原流れ」の伝承を重く受け止めれば、報恩寺像は栗原寺主要安置像の再興であるか、それに準じて造られた像かと想像される。

 三つ目は両脚部の上面に見られる複雑な着衣表現である。激しい虫食により各所に穴があいて後世の補修がいちじるしいが、腹前から下に乱れながら自在に弧や皺をえがいてゆく衣襞の形式は東大寺大仏殿毘盧舎那仏坐像の表現に近く、原状を完全に失ってはいない。これは公表の写真類では見えない部分であるので実物を見ていただくより他にないが、十一世紀の作品には稀な表現である。
 以上の点により、報恩寺像の造形感覚の基本は白鳳、天平時代以来の伝統的色彩のうえにあることが明白である。この方針で造仏を行いつつ、細部に十一世紀の感覚を目立たぬように織り込ませて違和感を抑える。この造仏姿勢は古像の再興か古像からの踏襲でなければありえない性質のものであり、報恩寺像が栗原寺主要安置像の系譜をひく可能性は依然として否定出来ない。

 このような造仏を、古典に学ぶ再興の形で十一世紀前半期に盛んに行なったのが康尚および定朝の一門であることをふまえれば、大和国でも稀な作域と古様をもつ同時期の巨像である報恩寺像もまた彼らの関与が想定される。とくに定朝は若年期より摂関家の氏寺興福寺の造仏現場に関係したことが史料でも伝承でも語られるので、大和国の優れた同時期藤原彫刻遺品の検討には定朝との関連性を考えることが不可欠である。
 報恩寺像には、前述したように天平時代以来の伝統的色彩のうえに新たな作風を重ねて模索した跡がみられるが、結果的に違和感なくまとめて古代的権威を保ち得る範囲にとどめた力量は並大抵ではない。若き日の定朝ならば可能であっただろう。

 この考えに立って報恩寺像の頭部を一瞥すれば、大ぶりな肉髻部の表現を除いてほぼ全体的に藤原彫刻の造形基調が強く打ち出されているのに驚かされる。古典に学ぶ踏襲や再興の形は微塵もなく、ただ十一世紀前半期の新感覚がみなぎって清新の気分をかもしだす。古代的権威のうえに新たなる表情と明るいまなざしを加えたところに作者の意欲的かつ冒険的な試みが見え隠れする。下手すれば作風の破綻に陥って造形表現の統一を崩しかねない危うい一線を、難なく超えてゆく造形への情熱が鮮やかに感じられる。そのほとばしるような精神は、とくに眼に顕著である。天平時代以来の保守的造形とは一線を画した、遠くを見渡してゆく明るい視線が像全体の「心」を凝縮して放たれる。

 初めて仏前に導かれた瞬間に、やわらかな安らぎに包まれたのは、像の眼を見たからである。鋭く切れる瞼、見開きのある双眸、明朗な視線の全てが定朝仏に共通する要素であった。仏師の個性はまず眼に現れるというが、定朝仏の場合は平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像を挙げるまでもなく、それが顕著である。要するに報恩寺像の眼は、平等院鳳凰堂像のそれにつながる。眉の線や目鼻の表現も一見すれば古風にみえるが、頭部における配置の基本形が藤原彫刻の標準的な数値に近い。これだけは古像の再興や踏襲からは生まれない。

 これらのことから、定朝をはじめとする藤原時代の仏師の造形における基本が、たとえ古典学習を重視し古像再興の枠に縛られる形があったにせよ、当時なりの新表現を追究し模索することに力点を置いたことはほぼ肯定される。当時の流行を担う造形作家であれぱむしろ当然の姿勢であり、また仏師は時代を先取りし未来への可能性を追いかけてやがては時代を牽引する役割を期待された。そのことを当時において最も敏感に感じて必死に動いたのが定朝であったからこそ、彼一人だけが師父を超え、時代を超えて前人未踏の表現世界に先んじ得たのである。

 日本仏像彫刻史で唯一人賜勅の栄誉に輝き、藤原時代の造形基準を確立して様式の父となり、日本仏像彫刻の基本感覚を後世に広めた、孤高の天才であった定朝だが、その若い頃の造仏とはどのようなものであったか。これが私の長い間の疑問であったが、永豊寺釈迦如来坐像にわずかな鍵を発見し、覚恩寺薬師如来坐像や泉徳寺薬師如来坐像に出会って次第に大和国における定朝の造形活動のありようが捉えられるようになった。
 これは同時に大和地方の藤原彫刻史の基準線を再発見することに繋がるので重要な成果とも言えるが、残念なことに定朝活躍期の初期の作品になかなか出会えなかった。それが、報恩寺像との縁によって一気に解決したように思う。康尚活躍期の仏像史からの流れが、ようやく明快な形で一本にまとまって定朝活躍期後半の諸仏および平等院鳳凰堂像にぴたりと繋がった。

 若き日の定朝の思い出が像の巨躯に満ち満ちてあるのを感じた、というのは決して誇張ではない。正直な感想であり、奈良県下に残る定朝仏候補の最大最優の遺品であろうとの確信もまた揺るがない。同時に、定朝仏を追いかけ続けてきた私の試みにも、ようやく一区切りがつく。思えば十数年にわたり近江、丹波、但馬、美濃などを駆け巡って定朝仏とその系譜を調べてきたが、まさか地元大和にて大きな手がかりに巡り合えようとは思ってもみなかった。やはり定朝が大和で修行して仏師としての地歩を築いたことは間違いなかったのである。

 私が報恩寺を訪ねる以前に、恩師井上正先生が報恩寺を訪問されたことを山崎住職に伺い、やはり、と感じるものがあった。後日、話を伺うと「あれ(報恩寺阿弥陀如来坐像)は間違いなく定朝初期の作品だねえ」と言われた。
 先生の一言は私にとって最高の言葉であったと言っていい。これまでの全てがいっぺんに集約され昇華されて、心の中で花がふわりと咲いたような鮮やかな感動に包まれた。定朝の造仏への必死の青春が、なんとなく身近なもののように感じられて幸せな気分になった。

 長かった。しかし、楽しかった。私なりの「定朝への挑戦」はようやく終わったのである。 (完結)

(写真の撮影および掲載にあたっては、報恩寺様の御許可を頂いた。)