とある雑誌が創刊されるので、それに密着したドキュメントを昨日見ました。
そこで、その雑誌の創刊号でデビューするという漫画家の卵の紹介があった。
とりあえず、ボツや書き直し、編集のてこ入れなんてキナ臭い言葉は知っていたものの、漫画家の視点からのそれでしかないイメージを、編集という立場から見ることで少なからず考えさせられた。
1995年をピークに漫画雑誌というのが減少していったグラフを見せられたわけなんだけれど、やっぱり一概にネットのせいではない。作り手、送り手だけじゃなくて、受け手もヒット漫画の骨組みを何となく見抜くようになってしまい白けてった時代なんじゃないだろうか。今流行の言葉で言うと、ホワイトキックである。
江川達也じゃないけれど、ジャンプが「勝利、友情、努力」という方程式を見つけた時に少年漫画は熱量を失ったんじゃないだろうか。
ジャンプというメインカルチャー(あくまで少年達の仲で)が軸をしっかり作りすぎたことで、サブカルチャーに流れ込む人間が増えたんじゃないのだろうか。
まあ、メインだサブだっていつも言っているけど、便宜上でしかないよ。例えば、「坂の上の雲」が発売当初は大衆小説だったのに対して、今は教養の部類に入るし。女子がジャンプを読むことは、サブカルの部類に入っていたけれど、今はそうでもない。男子が少女マンガ好きなのは、相変わらずサブカル臭い。そこら辺が曖昧になってしまうけど。
95年というと、皮肉にも、といえばカッコ付けになるけれど、俺が漫画にハマった年が小学校五年とかそこら辺なんだよねー。
閑話休題。
漫画雑誌が黄金期のジャンプのように600万部売れてれば、実験をする余裕が出来るんだろうね。つの丸やら、漫画太郎やら、苅部誠(地獄戦士魔王の作者ね・・・未だに読めるギャグ漫画なんだけれどね・・・)やら、なにわ小吉やら、うすた京介やら、味のあるギャグ漫画がジャンプで読めるってのは凄いことだった・・・と思う。最後にギャグ漫画で冒険したのは、純情パインの尾玉なみえか?
スピリッツやヤングジャンプ等の成年誌で、中川いさみや和田ラジヲが連載しているのとは根本的に意味合いが違うのでR。
ただ、雑誌が売れなくなってきちゃうと、余裕がなくなっちゃうもんだから、方程式に当てはまったお利口な漫画で手一杯になるんだろう。まあ、そゆ意味では今の冨樫先生の不良っぷりは予定調和を破壊する感じで好きです。まあ、色々な漫画家から批判されているみたいだけれど。
で、その新人の原稿にてこ入れしたり、相談したりするって様が映っていたのだけれど、編集がどこまでその原稿に介在していいのかってことになっちゃうんだよね。蚊帳の外で理想論を騒ぐ不表現者としてはね。
新人漫画家の漫画のヒロインの可愛さが「RPGでいうと五番目の村で仲間になるタイプ。いるんだけれど使わない」(これはそのドキュメントで使われていた比喩)ってレベルだから、もうちょっと可愛い子にしてきてっていうのは、的確なアドバイスなんだろうけれど、悪く言えば、方程式にのせる感じになって、面白くないんじゃないのかなーと穿った見方をしてしまう。少年誌というより、対象年齢がコロコロとかより若干上っぽかったから、冒険しすぎてもアレなんだろうけど。
涼宮ハルヒや碇シンジだって、既存のキャラにあてはまらないからこそ、ヒットの要因となりえたんだろうし。ましてや創刊号なら、そゆことを無視していいんじゃないかなとは思う。
例えば、同人誌やweb漫画で発表した作品があるとする。それに商業が入ってきたら必ずしも良くなるって訳じゃないし、駄目になるって訳でもない。
編集者の仕事ってのは、原石の泥を落とす仕事であって、原石の加工の最終工程までは入るべきじゃないってのが理想だろう。最終工程までやってしまうと、小粒の宝石にしかならなくなってしまう。十把一絡げにまとめられて通販で売られるのがオチなのだ。自分で加工していくってのも、才能の一つだ。
鳥山明が鳥島さん(良い子の皆にはDr.マシリトと言った方が分かるはずだよね)に発掘されたのは、絵は下手だったんだけれど、原稿の擬音がアルファベットだったからという理由らしい。
それから泥を落とされて今の鳥山あ・・・今のじゃ駄目だな・・・ドラゴンボールのピッコロ大魔王編(初代)になっていったんだから。
でも、方程式を与えられて尚且つ、そこでオリジナリティを出すってのも才能なんだから、どうしようもない。
好きなように漫画を書くにはデビューして、言い方悪いけれど編集の傀儡となって何作かを終えるって事が必要なんだろう。好き勝手やるには実績と評価が必要なんだ。よく言えば、編集者という、同じ団地に住むお兄ちゃんからオナニーの仕方を教わったほうが良いに決まってる。大抵、一人っ子ってのは変なオナニーの仕方がまともだと思い込んでて、修学旅行以降で変なあだ名が決まってしまう。そういえば、シャワニーと呼ばれていた彼は元気だろうか。
そう考えると、「オナニーのし過ぎは馬鹿になるぞ。」という言葉は奥深く、含蓄がある。
ミュージシャンのアルバムが1st以降、持っている熱量が消えてしまうのは、漫画を作る過程と逆だからかもしれない。主観だけれど漫画家は、ミュージシャンと比べて、デビュー作が最高傑作と評価されるのは、少ないんじゃないかな。
男のオナニー映像なんて買う人なんてごくわずかだろうけれども、それを商業が「男より女の子にさせようか」という一言言うだけで、また女のオナニー映像なんて別のものが出来上がる。そこで、悪い編集ってのは、その為のアダルトグッズを用意するようなことだろう。良い編集ってのは、何も用意しないだろうし、才能ある作者は既存のアダルトグッズを上回るものを持ってくる。そういうものだろ。
書きたいことがまとまらなくなっているけれど、一つだけ言えることがある。
この漫画雑誌に関わっている人が、「小中学生はオリジナルに敏感」だと。
ただ、この雑誌のメインが真島ヒロなのである。
矛盾という言葉の起源になりかねないよね
※この真島ヒロて漫画家はオリジナリティどころかワンピースに似てるでおなじみ。
しかも、デビュー作より、二作目の方がワンピースに似ているというのが恐ろしいところである。
そこで、その雑誌の創刊号でデビューするという漫画家の卵の紹介があった。
とりあえず、ボツや書き直し、編集のてこ入れなんてキナ臭い言葉は知っていたものの、漫画家の視点からのそれでしかないイメージを、編集という立場から見ることで少なからず考えさせられた。
1995年をピークに漫画雑誌というのが減少していったグラフを見せられたわけなんだけれど、やっぱり一概にネットのせいではない。作り手、送り手だけじゃなくて、受け手もヒット漫画の骨組みを何となく見抜くようになってしまい白けてった時代なんじゃないだろうか。今流行の言葉で言うと、ホワイトキックである。
江川達也じゃないけれど、ジャンプが「勝利、友情、努力」という方程式を見つけた時に少年漫画は熱量を失ったんじゃないだろうか。
ジャンプというメインカルチャー(あくまで少年達の仲で)が軸をしっかり作りすぎたことで、サブカルチャーに流れ込む人間が増えたんじゃないのだろうか。
まあ、メインだサブだっていつも言っているけど、便宜上でしかないよ。例えば、「坂の上の雲」が発売当初は大衆小説だったのに対して、今は教養の部類に入るし。女子がジャンプを読むことは、サブカルの部類に入っていたけれど、今はそうでもない。男子が少女マンガ好きなのは、相変わらずサブカル臭い。そこら辺が曖昧になってしまうけど。
95年というと、皮肉にも、といえばカッコ付けになるけれど、俺が漫画にハマった年が小学校五年とかそこら辺なんだよねー。
閑話休題。
漫画雑誌が黄金期のジャンプのように600万部売れてれば、実験をする余裕が出来るんだろうね。つの丸やら、漫画太郎やら、苅部誠(地獄戦士魔王の作者ね・・・未だに読めるギャグ漫画なんだけれどね・・・)やら、なにわ小吉やら、うすた京介やら、味のあるギャグ漫画がジャンプで読めるってのは凄いことだった・・・と思う。最後にギャグ漫画で冒険したのは、純情パインの尾玉なみえか?
スピリッツやヤングジャンプ等の成年誌で、中川いさみや和田ラジヲが連載しているのとは根本的に意味合いが違うのでR。
ただ、雑誌が売れなくなってきちゃうと、余裕がなくなっちゃうもんだから、方程式に当てはまったお利口な漫画で手一杯になるんだろう。まあ、そゆ意味では今の冨樫先生の不良っぷりは予定調和を破壊する感じで好きです。まあ、色々な漫画家から批判されているみたいだけれど。
で、その新人の原稿にてこ入れしたり、相談したりするって様が映っていたのだけれど、編集がどこまでその原稿に介在していいのかってことになっちゃうんだよね。蚊帳の外で理想論を騒ぐ不表現者としてはね。
新人漫画家の漫画のヒロインの可愛さが「RPGでいうと五番目の村で仲間になるタイプ。いるんだけれど使わない」(これはそのドキュメントで使われていた比喩)ってレベルだから、もうちょっと可愛い子にしてきてっていうのは、的確なアドバイスなんだろうけれど、悪く言えば、方程式にのせる感じになって、面白くないんじゃないのかなーと穿った見方をしてしまう。少年誌というより、対象年齢がコロコロとかより若干上っぽかったから、冒険しすぎてもアレなんだろうけど。
涼宮ハルヒや碇シンジだって、既存のキャラにあてはまらないからこそ、ヒットの要因となりえたんだろうし。ましてや創刊号なら、そゆことを無視していいんじゃないかなとは思う。
例えば、同人誌やweb漫画で発表した作品があるとする。それに商業が入ってきたら必ずしも良くなるって訳じゃないし、駄目になるって訳でもない。
編集者の仕事ってのは、原石の泥を落とす仕事であって、原石の加工の最終工程までは入るべきじゃないってのが理想だろう。最終工程までやってしまうと、小粒の宝石にしかならなくなってしまう。十把一絡げにまとめられて通販で売られるのがオチなのだ。自分で加工していくってのも、才能の一つだ。
鳥山明が鳥島さん(良い子の皆にはDr.マシリトと言った方が分かるはずだよね)に発掘されたのは、絵は下手だったんだけれど、原稿の擬音がアルファベットだったからという理由らしい。
それから泥を落とされて今の鳥山あ・・・今のじゃ駄目だな・・・ドラゴンボールのピッコロ大魔王編(初代)になっていったんだから。
でも、方程式を与えられて尚且つ、そこでオリジナリティを出すってのも才能なんだから、どうしようもない。
好きなように漫画を書くにはデビューして、言い方悪いけれど編集の傀儡となって何作かを終えるって事が必要なんだろう。好き勝手やるには実績と評価が必要なんだ。よく言えば、編集者という、同じ団地に住むお兄ちゃんからオナニーの仕方を教わったほうが良いに決まってる。大抵、一人っ子ってのは変なオナニーの仕方がまともだと思い込んでて、修学旅行以降で変なあだ名が決まってしまう。そういえば、シャワニーと呼ばれていた彼は元気だろうか。
そう考えると、「オナニーのし過ぎは馬鹿になるぞ。」という言葉は奥深く、含蓄がある。
ミュージシャンのアルバムが1st以降、持っている熱量が消えてしまうのは、漫画を作る過程と逆だからかもしれない。主観だけれど漫画家は、ミュージシャンと比べて、デビュー作が最高傑作と評価されるのは、少ないんじゃないかな。
男のオナニー映像なんて買う人なんてごくわずかだろうけれども、それを商業が「男より女の子にさせようか」という一言言うだけで、また女のオナニー映像なんて別のものが出来上がる。そこで、悪い編集ってのは、その為のアダルトグッズを用意するようなことだろう。良い編集ってのは、何も用意しないだろうし、才能ある作者は既存のアダルトグッズを上回るものを持ってくる。そういうものだろ。
書きたいことがまとまらなくなっているけれど、一つだけ言えることがある。
この漫画雑誌に関わっている人が、「小中学生はオリジナルに敏感」だと。
ただ、この雑誌のメインが真島ヒロなのである。
矛盾という言葉の起源になりかねないよね
※この真島ヒロて漫画家はオリジナリティどころかワンピースに似てるでおなじみ。
しかも、デビュー作より、二作目の方がワンピースに似ているというのが恐ろしいところである。