キスミレ散策と草の道 (跡ケ瀬坂 ?)探し
(坂名の呼称は未確認)
令和7年4月4日 快晴
(行程) 路肩駐車地(発13:30)→石の祠(着13:40~黄スミレ散策と跡ケ瀬坂探し~発14:35)
→駐車地→石の前川砂防堰堤(着14:55~15:10)→ミツマタ群落地(着15:25)
満開だった南高梅の花びらも遅霜で煮え、愛でる楽しみが消え失せた・・・
今朝も冷え込んだが(氷点下1度?) 日中は高気圧到来で、
風も無く穏やかな春日和との予報であった。
昨年のキスミレ散策は3/29日で満開の桜が花盛りであったが、今年はまだ蕾・・・
キスミレの咲き具合は早いかと思ったが絶好の山行日和に併せて本日決行。
今日の目的には
キスミレの他にもう一つ、草の道「跡ケ瀬坂 」探しの宿題が残っていたので
早めの出発を目論んでいたが、
女房の野暮用(送迎)で我が家の出発が大幅にずれ込み
登山口発が13:30分となった。
↑【石の祠直下から激坂の登路を振り返る】
跡ケ瀬坂探しは今回で3回目のチャレンジとなったが
一回目(1/31日)の時は、ススキの大藪に閉ざされ仕方なく断念する始末・・・
二回目(3/9日)の野焼き見学の時は野焼き開始時間が判らず、
野焼き隊の人影も見えず、仕方なく下山・・・
野焼き後の今回は、漆黒の原野に様変わりし遮る物は何も無い・・・
行きたい所に縦横無尽の歩きが出来るので冒険心を誘う。
↑【小尾根に露出する巨岩の列】
列の突端には整然とした石が座す・・・
果して何であろう か ?
↑【石の祠が祀られていた】
↑【登路側から見る側面】
↑【刻まれている文字】
判読出来たのは<子・石>、
年号は刻まれていないようである。
↑【祠の裏面】
↑【正面】
裏側から回り込み慎重に足場を確保して撮影
足元は切れ落ちた狭い岩の突端・・・
石祠の中は、何も無くご神体は見掛けなかった。
同じ様な構造の石祠は古城ガ鼻でも見掛けたが
その時(2009.4.3)は中に牛馬観音が祀られていたのであるが・・・
↑【石祠沿いのキスミレ】
キスミレの群生は疎らであったが
花の形は大きくて艶のある見頃の花が咲き誇っていた。
石祠から離れ、ここからは草の道(跡ケ瀬坂) 探し ↓
尾根筋沿いの踏み跡をあちらこちらと歩き廻ったが
牛馬が通るような道筋は見当たら無い・・・
一旦、牧野道に降りて前回目星を付けていた
道標らしき矢印の朽木板から取付く。
↑【登路から阿蘇谷と五岳を振り返る】
↑【草の道らしき山道を辿る】
牛馬が通るような道幅が外輪山山頂部方向に延びている・・・
未知のル-トを辿るには時間の余裕が無い。
今回はここで打ち止めとして前回野焼き見学をした
「石ノ前川」砂防ダム付近のキスミレを散策することとした。
↑【復路での登路沿いのキスミレ】
↑【しま模様の「牛道」】
放牧牛馬の踏み跡が野焼きの後に現れる景観。
この写真では良く見えていないが
牛道が織り成す山斜面の面白い模様・・・
↑【丸葉菫(マルバスミレ) ?】
もしかすると
シロバナタチツボスミレ (白花立坪菫)かも知れない。
↑【立坪菫(タチツボスミレ) 】
↑【石ノ前川砂防ダム付近のキスミレ】
↑【ミツマタ】
偶然にも出会った「三つ又」の群落
下山路の車窓から杉檜林の中に咲く黄色い花に気づき、
思わぬ三つ又観賞タイムを楽しんだ。
登山を終えて
跡ケ瀬坂探しは今回で3回目のチャレンジとなったが、
外輪山山頂部への踏破には至らなかった。
未知のル-トを辿るには時間不足となるため断念。
巨石の上に祀られた「石の祠」である。
野焼きがもたらした新しい発見であった。
(2025.04.13 加筆)
(4/15追記) 女房送迎の待ち時間に黒川河畔を散歩・・・
↑ 【宗 不旱(そう ふかん)の歌碑】
内之牧 朝やみ出でて 湯に通ふ 道のべに聞く 田蛙のこゑ
<宗 不旱の概略>
熊本市の済々黌を退学し、長崎の鎮西学院を卒業する。
1902年(明治35年)熊本医学校に入学するが、中退
放浪の歌人。昭和17年5月内牧の達磨旅館を発って
鞍岳越えで故郷(鹿本町来民)に帰る際、道に迷い行方不明となる。
同年9月に北外輪、鞍岳の山麓の水辺で遺体が発見される。享年五十九歳
<鞍岳の歌碑>
山に居れば 遠方野辺の もえ草を 心にとめて 高きより見る
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます