母が子ども時代過ごした実家は、外で薪をくべてお風呂を沸かします。
「湯加減はどうですか~?」
「もう少し温かいほうがいい」と、薪を足してブォーってなことでしょう。
いい湯加減、適当な温度は、良い加減を図って対処するから得られるもので
イイカゲン、確認もせずテキトーにしていては、その人にあったお湯にはなりません。
言わずもがな ですが、
もしや、そんな差など気にならなくなっている人も多いのでは?
それは悪影響が当然のごとく関わるようになったから。
悪影響とは、自然法則に無いことが起きる ということ。
本来、
合理的にやって出る結果は予測しうる範囲内におさまる。
しかし、そこに悪影響(悪側の操作)がからめば、
予測から外れ 悪側の意図にしかならない。
せっかく綿密に正確にやっても何らかのことで、他人評価や自己反映につながらない
いいかげんにやってたほうがマシだった…
ってことになる場面が増えてくる…
悪側がやることは、
人目に隠されることと、人目にさらすこと、人目をごまかすこと
に強烈に起こるという共通性があるけど、
人に同じく起こるわけではないから、単純に当てはめることができず、あらぬ憶測を生む。
もっとちゃんと現実をそのまま洗っていったり、
本来の人間像や各種動機を親身にとらえていれば 憶測ではなく推測が成り立ち
良い加減の判断を探しうるけど、
結果にされることの印象だけで「済ます」と、イイカゲンで通ってしまうわけ。
昔は、ボタン1つで済まされてしまうことには気をつけよう
なんて言われたし、そのボタン操作も、人の感触で操作性の確実さが判断できるように反発力も緻密に計算されてたくらいなのが、どうよ。
今じゃそんなことすっかり忘れ去られ、
同じ物(タッチパネル等)で同じ条件で同じ事やっても、ぜんぜん違ってたし、人によっても操作性が変わってしまう😱
自分が思う以上に結果が得られるようなことに何の疑問も持たない人に、他人の判断なんて不可能なのに、そんな人には、悪側は憶測やらせるようにもっていくのです。
昔から、(悪側に利用されやすい)警戒すべきこととして、
私利私欲でものを考えること、軽薄さ(ことの重みを意に介さない)、
狭量や井の中の蛙大海を知らず 的なことがあります。
職業の業は、業(ごう)を意味します。
とりあえず回っていくことだけを優先したり、分業の分業などで責任感狭め、人間の基本にたちかえることを忘れていく傾向に、多かれ少なかれ 誰もが陥りやすいのです。
じっさいには、ちゃんとやれる人は、常に基本を大事にする人なのですが、業務がその人にかたよってくることにつながり、忙しくなっては業務負担でいっぱいになってしまったり、悪から評価が伴わないように運ばれてしまう。
そうこうしてる間に、やたら勝敗や格好のみにこだわる劣悪な価値観が蔓延…
(人間の)業(ごう) は、人間の重いリスク。
平成3年(1991年)頃までは、私のいた会社には かなり考慮された影の公平評価がある程度存在しましたが、その後 次第に、そしてみるみる失われていくことになります。
あの会社でそうなら、ほかの会社をや というのと、業務的な責務のタイミング、自分なりの経験こだわりや慎重さ、年齢、各種異常状況は、その時そのときの自らの意思の動きを 奪われていたというのが、私の就業当時のあり様でした。
今じゃ転職あたりまえになっていますが、昔はそれはそれで逆評価になりかねないリスクもあったのです⋯私より数年若い なぜか封建化返り層が存在。
まあ、今だって結局、似たようなこと、動きを制限されまくりですか😅
業業で なかなかgogoできない。。。。オヤジギャグスギル
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