東武線 大桑駅
■説明板・・・
●深沙王堂(じんじゃおうどう)・・・蛇王権現堂(じゃおうごんげんどう)
伝説「山菅の蛇橋」にあるように、勝道上人一行が大谷川を渡れないでいる時に、
二匹の蛇を放って一行を助けた「深沙大王」を蛇王権現として祀っている。
深沙大王は「毘沙門天」の化身であり、その昔仏教経典を求めてインドに向かう
玄奘三蔵を危機から救ったといわれる。橋渡しの神という信仰から「縁結び」、
また、蛇信仰から「商売繁盛」の信仰もある。現社殿は、昭和53年の再建。
【参考】ちょっと調べてみました。
勝道上人が日光山を開くとき、両岸が絶壁となって流れる大谷川に道を阻まれた。
そこで、護摩をたいて神仏の加護を求めると、雲の中から深沙王が現れて2匹の蛇を放った。
蛇は大谷川に架かり、やがて蛇の背中から山菅が生えて橋となった。と言い伝えられています。・・・・
東京の深大寺というお寺には、疫病を除き魔事を遠ざける力がある水神・深沙大王が祀られているそうです。
見かけは怖いが、仲を裂かれた恋人たちを、助けて恋を実らせた、誠に粋な縁結びの神様とのことです。
太郎杉をでかく描きすぎた。
↓サボテンの花 いくつ咲くのか監察中
観察中でした
↓ キュウリのQちゃん風に作った漬物
↓ 冷蔵庫で作っている たくあん
非常にうまい
ユーチューブで知りました。
小山芳姫の御堂・・・説明板
南北朝時代に下野の守護であった小山義政は、鎌倉公方であった足利氏満にそむき粕尾城(現粟野町中粕尾:⇒現在は鹿沼市)に籠もったが、戦いに敗れて赤石河原で自害しました。
芳姫はその小山義政の正室で、義政に会うために侍女を一人伴って粕尾城に向かっていましたが、そのとき大事に持っていた乾飯(ほしいい:糒(ほしい),餉(かれい)とも。糒の音はビで備に通じ,急に備える米の意。米を蒸して陰干ししたもの。)の袋を宝の袋とまちがわれ、案内役のものに殺されてしまいました。その後、江戸時代になり村人はこれをあわれんで、寒沢林道(※国土地理院の地図を見ると栃木市星野町から谷倉山599.4mの西側(峠)を通り、鹿沼市下粕尾星宮神社に抜ける林道がある。)の奥に芳姫のお墓を建て供養したということです。芳姫のお墓は、現在、市の指定文化財になっており、この御堂は近年になって小山芳姫の墓保存会の人々によって建てられたものです。
栃木市
鹿沼市 石山 189m
パンフ「北押原のさとめぐり ふるさと史跡めぐり」・・・より
石山の頂上は眺望がよく、男体山・古賀志山・筑波山などを見渡すことができ、ここに高さ約9m、周囲約23mの大石があり、「空海の座石」とか「姥母石」とかいわれています。その由来は、昔、この石山の近くの家に、生まれて間もなく両親を失った赤子が、祖父母に育てられることになりましたが、母乳がなく困り果てていたところ、たまたま通り掛かりの婦人がこの子を哀れに思い、この家に滞在し、姥母としてこの子を育てることになりました。しかしこの子の成長を見届けるや、姥母が突然姿を晦(くら)ましてしまいました。その後、この子が姥母を忘れられず、その厚恩に報いるために、たまたまこの地を訪れた高僧の空海にそのことを話し、石山の頂の石に仏像の彫刻を懇願したところ、空海はその孝心の深さに感じ、その石の周囲に16体の羅漢の仏像を彫刻し、石の上で護摩祈祷を行ったという言い伝えがあります。その他、山麓には日限地蔵尊(首なし地蔵)、虚空蔵、天神宮などがあり、昔から霊場として信仰された所です。石山は千葉省三の童話作品「鷹の巣とり」の舞台にもなっている所です。
「しもつけの民話四十八から」・・・
芦野の南に位置する伊王野にも民話が多く残るが、その代表は「北向き地蔵」であろう。
地蔵へは国道294号線の交差点を伊王野城とは反対に進み、JAの支所が目印となる。
那須町商工会発行
〇芦野宿と伊王野の里ガイドブックには・・・(全文掲載させていただきます。)
伊王野下町巻淵に北向地蔵が建立供養された正徳5年(1715)は、「8代将軍吉宗の享保改革を直後にひかえた、
いわば積年の弊の吹きだまりのような年であった。寛文後期から元禄初期にかけて台頭した新興商人勢力は、
元禄年間はほぼ保合をつづけながら次第に競争激化の様相を示し、
諸政沈滞のうちに正徳・享保の時代に入る」(『元禄時代』・大石慎三郎-岩波新書)。
宝永4年(1707)に富士山が爆発する。同5年に物価統制令、つづいて諸越訴、行政機構の改廃、
特に米価の高騰は庶民生活を極度に荒廃させたであろう。
このような世相をふまえて、北向地蔵の伝説をとらえてみることにする。
寒い冬の日であった。
三蔵川の丸木の橋を、向宿から巻淵へ渡った親子連れがいた。父親と母親と三人の子であった。
父親は月代が乱れ、母親もびん髪が風にあおられていた。子どもは2人が歩き、1人は母の背にいた。
みんなあお白く、垢だけが黒くぶちていた。
「よねざわへいきたい。どういけばよいのか」
父親が、人にきいた。
「よねさわか、よねさわはあっちよ」
と、その人は言った。
「ホラ、すぐそこに山がある。あれはここのお城山よ。そのかげがよねさわよ」
父親の頬にわずかに血が走った。
「アア」
ため息ともつかない声がもれた。
「ついた。よねざわへついた」
父親は、2人の子の手をひき、母親は子を負って走るようにいった。
人は、いぶかしげにそのあとを見送った。
冬の日は早い。那須おろしが風花をさそって、この里に吹いてきた。里家はとざされ、
炉の火だけがすき間から洩れていた。
夜ふけて、風花は雪となっていた。
あくる朝――
よねさわに凍えて死んでいた5人の親子連れを見つけた。きのう、この親子連れにあった人も来た。
「かわいそうに」
みんなで遺骨を負って釈迦堂山に葬ってやった。その人が言った。
「奥の米沢と、よねさわをまちがえたんだ」
せっかく教えてやったことが、あだになるとは思わなかった。親子連れの、
それでもおだやかな死に顔が救いだったと、その人は涙を流しながら葬いのあとについていった。
正徳5年(1715)、伊王野の里人たちは、釈迦堂山へ向けて地蔵を建て、
念仏を唱えて親子連れの霊をなぐさめた。