栃木の木々 

栃木県の風景。

とちぎの民話 那須町 北向き地蔵

2024-06-01 | 栃木県の紅葉

「しもつけの民話四十八から」・・・

芦野の南に位置する伊王野にも民話が多く残るが、その代表は「北向き地蔵」であろう。

地蔵へは国道294号線の交差点を伊王野城とは反対に進み、JAの支所が目印となる。

 

 

那須町商工会発行

〇芦野宿と伊王野の里ガイドブックには・・・(全文掲載させていただきます。)


伊王野下町巻淵に北向地蔵が建立供養された正徳5年(1715)は、「8代将軍吉宗の享保改革を直後にひかえた、
いわば積年の弊の吹きだまりのような年であった。寛文後期から元禄初期にかけて台頭した新興商人勢力は、
元禄年間はほぼ保合をつづけながら次第に競争激化の様相を示し、
諸政沈滞のうちに正徳・享保の時代に入る」(『元禄時代』・大石慎三郎-岩波新書)。

 宝永4年(1707)に富士山が爆発する。同5年に物価統制令、つづいて諸越訴、行政機構の改廃、
特に米価の高騰は庶民生活を極度に荒廃させたであろう。
 このような世相をふまえて、北向地蔵の伝説をとらえてみることにする。

 寒い冬の日であった。
 三蔵川の丸木の橋を、向宿から巻淵へ渡った親子連れがいた。父親と母親と三人の子であった。
父親は月代が乱れ、母親もびん髪が風にあおられていた。子どもは2人が歩き、1人は母の背にいた。
みんなあお白く、垢だけが黒くぶちていた。
 「よねざわへいきたい。どういけばよいのか」
 父親が、人にきいた。
 「よねさわか、よねさわはあっちよ」
 と、その人は言った。
 「ホラ、すぐそこに山がある。あれはここのお城山よ。そのかげがよねさわよ」
 父親の頬にわずかに血が走った。
 「アア」
 ため息ともつかない声がもれた。
 「ついた。よねざわへついた」
 父親は、2人の子の手をひき、母親は子を負って走るようにいった。
 人は、いぶかしげにそのあとを見送った。
 冬の日は早い。那須おろしが風花をさそって、この里に吹いてきた。里家はとざされ、
炉の火だけがすき間から洩れていた。
 夜ふけて、風花は雪となっていた。
 あくる朝――
 よねさわに凍えて死んでいた5人の親子連れを見つけた。きのう、この親子連れにあった人も来た。
 「かわいそうに」
 みんなで遺骨を負って釈迦堂山に葬ってやった。その人が言った。
 「奥の米沢と、よねさわをまちがえたんだ」
 せっかく教えてやったことが、あだになるとは思わなかった。親子連れの、
それでもおだやかな死に顔が救いだったと、その人は涙を流しながら葬いのあとについていった。
 正徳5年(1715)、伊王野の里人たちは、釈迦堂山へ向けて地蔵を建て、
念仏を唱えて親子連れの霊をなぐさめた。

 

 

 

 

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