仏教ヨーガ: 自分の心を「宇宙の英知」に結びつける具体的な行法
序
般若心経の空を解説した重松昭春氏の著書の中で、重松昭春氏が推薦されている仏教の全体像を解説した書籍があります。
この本には、物理的に実在して機能している「宇宙の英知 (Universal Intelligence) 」と自分の心を結びつける「仏教ヨーガ」の具体的な行法が書かれていますから、私のブログを読んで下さっておられる方々のために、参考のためにご紹介します。
ただし、釈尊が去られた後では、誰一人、如来になられた方はおられませんので、このような行法によっても、アダムスキー氏の説かれた宇宙意識との一体化、空との同化は無理だと思われます。
出典:
仏陀が説かれた真理 ― 付 才能開発法(仏陀の教説の実生活への活用例)
沢辺悟明 (著), 沢辺恭一 (著)
出版社: 三学出版 (1983/01)
注:
著者の沢辺 悟明氏と 沢辺 恭一氏に関しては、詳しい経歴が書かれておらず、本の前書きによれば、
(a)著者のお二方は親子であり、
(b)東京大学で自然科学を学ばれている長男の方と共同でこの本をまとめられた
ことが分かるだけです。
ネットで検索しても、著者に関しては、これ以上のことはわかりませんでした。
仏陀の説かれた教えの全体像を解説したこの本に関心がおありでしたら、アマゾンで古本で売っていますから、読まれてはいかがでしょうか。
アマゾンのアドレス:
https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8F%E9%99%80%E3%81%8C%E8%AA%AC%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%9C%9F%E7%90%86%E2%80%95%E4%BB%98-%E6%89%8D%E8%83%BD%E9%96%8B%E7%99%BA%E6%B3%95-%E4%BB%8F%E9%99%80%E3%81%AE%E6%95%99%E8%AA%AC%E3%81%AE%E5%AE%9F%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%B4%BB%E7%94%A8%E4%BE%8B-%E6%B2%A2%E8%BE%BA-%E6%82%9F%E6%98%8E/dp/4879061166/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1544484240&sr=8-1&keywords=%E4%BB%8F%E9%99%80%E3%81%8C%E8%AA%AC%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%9C%9F%E7%90%86
補足:
現代科学は、縁起現象相の観察・計測できるものだけを取り扱っていますが、無為の「空」という物理的存在の実在を証明できていません。
科学では、高次元という仮説は立てているようですが、無次元無時間の物理的存在を想定した検討は行われていないと推定しています。
空は、科学ではなく宗教の仏教で説かれていますが、現代仏教は、空は縁起の一時的な相互関係であると解釈し、空というものが物理的に実在しているとは解釈していません。
私の調査では、空は物理的存在として実在しているという結論が得られています。
ブログ記事
「空に関する調査と考察(2015年3月29日改訂)第1部」
http://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/9e844fa18e68ea9ff91a57b50ee1cc4d
「空に関する調査と考察(2015年3月29日改訂)第2部」
http://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/4573068d9898834416f0a3ea79e82833
を参照。
縁起現象相の無数の万物は、本質相では空という一つの物理的存在であり、物質界の縁起現象相と空は二相一体であり、物質であると同時に空であるという二重性を持っています。
空という1つの物理的存在には、縁起現象相の性質は一切なく、時間・空間すらありません。
空という1つの物理的存在が発する(物理的に実在する)無数の言葉が、縁起現象相に無数の現象を生み出しています。
つまり、「1つの空→→無数の言葉→→縁起現象相の無数の万物(時間・空間を含む)」という構図です。
言葉の段階までは、空の性質、即ち、「時間空間がない(無次元無時間)・縁起現象相に現象を生み出す」という物理的性質を持っています。
人間は、肉体と心から構成され、これらは両方とも空の言葉そのものであり、空の言葉により作られ動かされています。
肉体は、各種の臓器、細胞、分子、原子、原子核と電子、陽子、中性子、素粒子から構成されています。
これらは全て本質相では空であり、空は宇宙の英知、万物の創造主そのものです。
その空の生み出す無数の言葉が、素粒子、電子、陽子、中性子、原子核、原子、分子、細胞、各種の臓器となり、現象相の肉体を構成しているのです。
人間の心(転生する実体)も空の性質を持つ物理的存在として存在し、古くなって使えなくなった今の肉体から新しい肉体への転生の際には、どんな遠方の惑星にある新しい肉体であっても瞬時に移動できると考えられます。
人の心は、空という性質を持つ物理的存在であるため、宇宙・森羅万象の本質相である空と物理的に結合し、同化できる能力を持っていると私は推測しています。
本質が同じであるからこそ、このようなことができるのであり、全く異質のものであれば、物理的結合や同化はできるはずもありません。
人に関連する言葉に関しては、
(a)空の発する言葉(宇宙の英知の意志、創造主の意志、主のみ心)、
(b)その人個人が発する言葉(個人の思い・考え)
の2種類がありますが、地球人のほとんどの人は、(a)の存在に気づいていないか、又はそれを無視し、(b)だけで生きています。
その人個人が心の中で思う言葉も、空の発する言葉と同様の能力を持っており、「時間空間がない(無次元無時間)・縁起現象相に現象を生み出す」という物理的性質を持っています。
注
大般若経に説かれている「空=言葉」の詳細は、ブログ記事
大明呪の作動原理: 人の想念は空であり、時間・空間を超越し強力な創造・展開力を持つ(第1部)
http://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/626e11561b517fb0ab2883e5affa2b33
大明呪の作動原理: 人の想念は空であり、時間・空間を超越し強力な創造・展開力を持つ(第2部)
http://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/63ae92ba4e99ed08597e641fb31d8f22
を参照。
1.仏陀という存在
p.49
釈尊が仏陀になられたのは自灯明・法灯明(仏知見)を実践なさったからだ
釈尊が自らが利をともなうものではないと説かれた 「苦行 」 をやめられて、わずかな間 (通説では四十九日間) に仏陀になられたのに対し、 直弟子の方々は数十年間かかっても仏陀になることはできませんでした。
仏滅後の仏弟子はその原因を過去世の善業の差によるものという 「諸法無我」 の真実に反する「宿業説」 をとっています。
「諸法無我」 は、 各人が過去・現在・未来にわたって 一つにつながっている個有の実体(アー卜マ ン=漢訳して我〕 によって輪廻転生して いると考えられていた古代インドの常識思想であるアー卜マンによる見解 (我見という) は、 真実の状態 (一切法空) と異なっていると否定なさった教えですから、過去世の業(カルマ)の差が原因とする考え方は明らかな誤りです。
中阿含経の中の 『度経』でも、
・外道の説く宿命造 (過去世の行為によって現世の運命が定まるという考え方)、
・尊祐の造 (天によって人間の運命が定められているという考え方)、
・無因無縁 (因緑果報を否定する考え方)、
の三つの考え方は真実に反している、
と説かれていますが、 「宿命造」 から離れて真実をみたならば、 仏陀になる唯一の道が 「自灯明・法灯明(仏知見)」であったという重要なる自覚が得られたはずです。
釈尊が示された真理や修行法のすべ ては、「自灯明 (仏知見)」というもっとも難信難解な内容を自覚させんがためのものであり、 自覚することができる内容が説かれているのです。
なぜならば、 釈尊は「自灯明・法灯明 (仏知見)」を自覚なさったことにより、わずかな期間で仏陀になられたからです。
ですから 「聞慧・思慧」 によって仏陀の説かれた真理が信じられるようになったら 「修慧」は自灯明・法灯明 (仏知見) によって求めるようにすることがもっとも仏陀の真意にそった修行法であり、 そうすることによって「仏陀の存在」 となることができるのです。
釈尊が仏弟子のように永年にわたって「八正道」や「六波羅密」を実践なさったという事実はありませんから、 智慧を有する機根の高い人は最初から釈尊と同じように「自灯明・法灯明 (仏知見)」を実践すべきです。
そうすれば釈尊と同じように逆に真理の数々を正しく自覚することができるようになります。
(引用終わり)
p.51
仏陀の存在となるのに宗派は関係ない
仏教でいう自覚とは、 パーリ語の原意 「自ら悟る」、 梵語の原意 「真理に目覚め、 真理を悟る」という意味の原語の漢訳語です。
真理のすべてを自覚しようとしたならば、 『法句経」の一七九・ 一八〇偈で 「仏陀の知見は無辺なり」 と説かれ、 『法華経』 の方便品で「真理のすべては仏陀と仏陀のみが知り尽しており、 仏陀以外のものは知り尽せない」と説かれているように、
「八正道」 「戒定慧の三学」 「六波羅密」 などの修行法では自覚し得ないほど無量に実在しています。
その無量に存在する真理のすべ て (真如) が自らの心の中に実在して いるという自覚が 「自灯明・法灯明(仏知見)」 の自覚であり、その真如と一体化するという最高度のヨーガの実践が 「自灯明・法灯明(仏知見)」 の自覚であり、その真如と一体化するという最高度のヨーガの実践が 「自灯明 (仏知見)」 の実践です。
自らの本質が「真如」に変化するまで、くり返し一度でも多く「真如と一体化する」 という修行をすれば 「仏陀の存在」 となることができるわけです。
真理を他に求めることなく自らの心の中に求めるということは簡単なようで、信じ難く理解し難いことなので、釈尊は「四諦」を説かれ、 「十二因縁」を説かれ、「無相 ・ 空」 等々を説かれたのです。
「法華経」 の方便品では 「難信難解なことであるから信じることによって実践しなさい」 と説かれていますが、 仏陀の説かれた真理の正しい理解が得られたならば、当然のことながら信じられるはずです。
灯明とすベき真如については、 たとえば雑阿含経の中の『尊重経』 では、
”ただ正法のみありて我をして自覚して三藐三仏陀を成ぜしむ。我まさに彼(法=ダルマ)において恭敬し宗重し奉事し供養し、 彼に依りてしかも住すベし。”
と説かれているように 「正法」 あるいは 「法」 と呼ばれていたり、大乗仏教では、「法」「仏性」(涅槃経)、「一法」 「実相」 (無量義経、法華経)、「如来蔵」 (勝鬘経等) などと表現し、 真如を人格化して毘盧遮那仏(ヴァイローチャナ=光明遍照)(華厳経)、「大日如来 (マハーヴァイローチャナ=大光明遍照)」(大日経)などと表現したり、高僧は「阿弥陀仏 (無量寿、 無量光)」「妙法蓮華経」と名づけています。
仏陀を存在せしめる本質(真如)を大乗仏教では人格化して 「本仏」とも呼んでいますが、「南無妙法蓮華経」と唱える妙法五字は一般に考えられている経題という意味のみではなく、高僧が残された文書である「諸法実相鈔」 では、「妙法蓮華経こそ本仏にてはおわしそうらえ」 と説かれているように、「仏陀の本質である正法、 すなわち妙法蓮華経」という考え方で名づけられたものであり、同じく「日女御前御返事」でも「妙法五字の光明に照らされて本有の尊形となる」 と説かれているように諸仏の本質の ことをい います。
ですから宗派にこだわることなく、 名称にとらわれずに、 自らの心の中に実在する 「仏陀の本質」 と一体化する行をくり返し実践すればよいわけです。
本尊を他に求めずに自らの心の中に求めるということが大切であり、自分と仏陀の本質は別の存在であるとしか考えられないならば、 「八正道」 から修行し直した方がよいでしょう。
ただし、 ここでいう心の中とは 「自らの身体から離れた心の状態」のことをいいます。
(引用終わり)
仏教では、生まれ変わりを教えていますから、人には、物質から構成される肉体と生まれ変わる部分の2種類から構成されています。
身近な人が亡くなった場合を思い出してみれば、ついさっきまで生きていた人が、つまり心の活動のあった人が、今は全く動かない人体(原子・分子からなる物質)を残して、心は他の場所にある新しい人体に入って生まれ変わっているのです。
つまり、人は、人体と心の2つから成り立っており、心と人体は別物と考えることができます。
2. 仏教ヨーガの具体的な行法
自らの心の中に実在する 「仏陀の本質」 と一体化する行、すなわち仏教ヨーガの具体的な行法に関連する部分を抜粋してみました。
p.260
「ヨーガ」とは、「結びつける」という原語の意味にあるように、「想念を想念の対象に結びつけ、無相の存在せしめるもの(ブログ著者注: 縁起・現象相を作り出す空)によって全ての存在が一つにつながっているのだという自覚をもって想念の対象に溶け込むようにして一体化し、想念の対象になりきってしまう」ということさえできればよいからです。
(引用終わり)
p.247正定を得るためには正しいヨーガの実践が必要
「サマーディ(定(じょう)あるいは三昧)」とは、「ヨーガを実践することによって一時的に十二縁(五陰(五蘊(色受想行識)))の影響から脱け出た心の状態」のことをいいますが、そのサマーディの中でも、「心が解脱した状態になるサマーディ」のことを「八正道」では「正定(サンミャク・サマーディ)」と呼んでいます。
(引用終わり)
p.248
「正定」を得るためには「正しいヨーガの実践方法」を知らなければなりません。
「ヨーガ」は仏教誕生以前から「断食行などの苦行を中心」として実践されていましたが、釈尊は「苦行は利をともなわぬもの(パーリ律、大品(マハーワッカ)、1.6等)として「苦行中心の従来のヨーガ」を斥けられ、新しく中道(よりよい方向へもっとも効率的に変化させることができる手段)として「八正道」という「ヨーガの方法」を説かれています。
ですから、「仏教ヨーガ」と「一般的なヨーガ」は異質なものとなっています。
(引用終わり)
p.252
「ヨーガ・スートラ」でいう「読誦」とは、真実の言葉を誦唱することをいいます。
言葉の力は、自らの心を変化させる縁になるものですから、仏教でも読誦行を実践しますが、ただし、唱える言葉の意味をまったく理解していない読誦行では効果が得られません。
(引用終わり)
インドの一般的なヨーガでは、「オーム」という聖音を唱える行法を教えますが、それは仏教の行法とは異なっています。
一般的なヨーガのオームに関する解説は、この本のp.252-253に解説がありますが、仏教とは異なっており、仏教では正統なものとはみなされませんから省略します。関心がおありでしたら、この本をご覧下さい。
この本では仏教ヨーガの実行方法に関しては、次のように書かれています。
p.253
仏教でも「仏陀」あるいは「仏陀を存在せしめる本質」を聖音化(たとえば南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経)して、反復誦唱し、仏陀を心に思い浮かべるように念想するという方法がとられており、その方法によって三昧の状態を得るという「ヨーガ」の実践をしています。
ただしこの方法のみで三昧が得られる人はごく一部の人々です。
しかし、「一切法空の真実」を自覚し、「自らの心の中に自らの拠り所とすべき仏陀・仏陀を存在せしめる本質を見出した人」は、仏陀あるいは仏陀を存在せしめる本質に帰依する言葉を聖音化し、「聖音を反復誦唱する」という「ヨーガ」を実践すると、はやく三昧の境地を得ることができます。
この方法は、心に生じてくる雑念と戦いながら黙して座禅しているより、初心者にとってははるかに効果的に「サンミャク・サマーディ」が得られますから実践してください。
(引用終わり)
ここで空の物理的性質について私なりにまとめてみます。
「一切法空の真実」とは、人の体と心を含む全宇宙・全時間の現象相の全てのものは、本質相(無為、アサンスクリタ)では空という一つの物理的存在であるという真実のことです。
本質相の空という物理的存在には、大きさ、距離、空間、位置(座標)、次元、時間がありません。
縁起現象相では一人の人間の人体は小さなもので、万物を含む宇宙は無限に大きいものですから、縁起現象相では、宇宙の万物がちっぽけな一人の人間の中に存在することは不可能です。
例えば、月や太陽は、非常に巨大ですから、一人の人間の人体の中には納まりません。
しかし一方、本質相の空では全宇宙の万物には大きさがありませんから、空では一人の人の中に全宇宙の万物が空として存在できるのです。
また、空には時間がありませんから、過去現在未来は一つの空として存在し、空では一人の人の中に全時間・全宇宙の万物が空として存在しているのです。
現実に存在する空という物理的存在の持つ物理的性質から考えると、
「空では一人の人の中に全時間・全宇宙の万物が空として存在している」
というのは当たり前であり、単なる哲学、理念、観念的な妄想や狂気ではなく、単なる物理的な性質であるため、特別な信仰心は必要ないのです。
現象相の万物・知識・智慧・エネルギーなどのありとあらゆるもの、大慈、大智、大悲、幸福、喜び、豊かさ、楽しさなどは、本質相では空(真如、言葉)として存在し、それは一人一人の人の心身の中にあるのです。
本質相(無為、アサンスクリタ)では、自分の心は空であり、自分の心は空では全宇宙の万物と一体であり、空から離れて存在できるものは全宇宙の中には何一つないのです。
そして、自分の心身の中に空があり、空の中に自分の心身が存在し、自分の心身は空そのものであるという物理的性質が現実にあるのです。
これは、特別な人だけに備わっている性質ではなく、全ての人に自然の法則として備わっている性質です。
『無量に存在する真理のすべ て (空、真如) が自らの心の中に実在して いるという自覚が 「自灯明・法灯明(仏知見)」 の自覚である』と沢辺氏は書かれていますが、空という物理的存在の物理的性質から考えると、これは当たり前ことなのであり、特別な宗教的な信仰心は必要ないのです。
そして、空と同化された偉大な覚者が仏陀ですから、空と同化された仏陀が自分の心身の中におられるのは、「一切法空の真実」によれば当たりまえのことです。
「自らの拠り所とすべき仏陀」としては、例えば、観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来のような如来の方々が当てはまります。
「仏陀に帰依する言葉の聖音化」とは、例えば、広く知られているものでは「南無観世音菩薩、南無阿弥陀仏、オンアビラウンケン(大日如来への帰依)、オンアロリキャソワカ(観世音菩薩への帰依)」などがあります。
南無とは、帰依を意味する言葉であり「信じ、敬い、その意思に従います」という意味になります。
「仏陀を存在せしめる本質」とは、仏教用語では空、真如であり、これは別の言葉では、宇宙の英知(宇宙英知)、万物の創造主(創造主)、天の父、宇宙意識、という言葉で表すことができます。
このため、「仏陀を存在せしめる本質に帰依する言葉を聖音化する」とは、例えば、南無空、南無真如、南無宇宙英知、南無創造主、南無宇宙意識になります。
また、仏教では、「仏陀を存在せしめる本質」である「真如」を人格化して「毘盧遮那仏(ヴァイローチャナ=光明遍照)(華厳経)」、「大日如来 (マハーヴァイローチャナ=大光明遍照)」(大日経)などと表現したり、高僧は「阿弥陀仏 (無量寿、 無量光)」と呼んでいます。
このため、「仏陀を存在せしめる本質に帰依する言葉を聖音化する」とは、例えば、南無毘盧遮那仏、南無大日如来(オンアビラウンケン)、南無阿弥陀仏になります。
このような言葉を唱え続けること(つまり呪文を唱え続けること)が、「サンミャク・サマーディ」つまり、「八正道」で「正定(サンミャク・サマーディ)」と呼んでいる「心が解脱した状態になるサマーディ(ヨーガを実践することによって一時的に十二縁(五陰(五蘊(色受想行識)))の影響から脱け出た心の状態)」を得る方法であるとこの本では説かれています。
要は、「仏陀を存在せしめる本質に帰依する言葉を聖音化」した言葉である「南無空、南無真如、南無宇宙英知、南無創造主、南無宇宙意識、南無毘盧遮那仏、南無大日如来(オンアビラウンケン)、南無阿弥陀仏」を唱え続ければ(自分の好きな表現をどれか一つ選んで唱え続ける)、物理的に実在する「空、真如、宇宙の英知(宇宙英知)、万物の創造主(創造主)、天の父、宇宙意識」と自分の心を物理的に結びつけることができるとこの本では説いていることになります。
この他に、p.262-263には、予備的な実習方法として、2つの方法が書かれています。
(1)初歩の修行段階においては、「星空を心の中に思い浮かべ、宇宙と自らの心が一つにつながっていることを信じて想念を星空に一筋に伸ばしていき、星空すなわち自らの心、自らの心すなわち星空というサマーディの境地を得る」ことを行なえば、「自らの身体から心を解き放す」という状態を得るための方法として有効です。
(2)「水想観」と呼ばれる方法があり、「水すなわち自らの心、自らの心すなわち水」という状態になって諸欲から離れ、自らの心を身体の影響から解き放すという方法もあります。
また、p.263には、高度な行法「般舟三昧(はんじゅうざんまい、諸仏現前三昧)」も書かれています:
『それより高度な行法になると、「般舟三昧(はんじゅうざんまい、諸仏現前三昧)」という方法があり、「阿弥陀仏を心中に思い浮かべることに想念を統一し、阿弥陀仏の姿を眼前に見る」という方法があります。
この「般舟三昧」は7日あるいは21日間続けて行いますが、実現可能な方法であることは実際に実践してみれば判ります。
「仏教ヨーガ」に熟達すれば、永い間行じなくても諸仏を眼前にみることができるようになり、仏陀と一体化することによって解脱に必要な修慧を得ることができるようになるのです。』
(引用終わり)
このような行法の実行により、物理的に実在する空、すなわち宇宙の英知に自分の心を結合させることができると思われます。
それは、例えてみれば、1台のパソコンを光ケーブルのコネクタでインターネットという巨大な情報ネットワークにつなげるようなものです。
この行法は、大明呪と併用すれば、より効果的に空、すなわち宇宙の英知に自分の心を接近させて、より良い結果を生み出すことができると思われます。
空、すなわち宇宙の英知は、単なる理念や哲学(人間の好き勝手な考え)ではなく、物理的に実際に存在するものであり、宇宙の万物を作り動かしている物理的な智慧と力を持つ物理的存在です。
ですから、これは本来、宗教ではなく、空の物理学、自然科学として扱うべきものです。
残念ながら、地球の自然科学は未発達ですから、この分野を科学として扱うことはできておらず、空という物理的存在を証明出来ていません。偉大な覚者であられる釈尊により伝えられた宗教として教えられているのが現状です。
ただし、釈尊が去られた後では、誰一人、如来になられた方はおられませんので、このような行法によっても、アダムスキー氏の説かれた宇宙意識との一体化、空との同化は無理だと思われます。
3.般若心経の大明呪を仏教ヨーガへ応用する方法に関する考察
既にまとめたように、仏教ヨーガでは、
「仏陀を存在せしめる本質に帰依する言葉を聖音化」した言葉である「南無空、南無真如、南無宇宙英知、南無創造主、南無宇宙意識、南無毘盧遮那仏、南無大日如来(オンアビラウンケン)、南無阿弥陀仏」を唱え続ければ(自分の好きな表現をどれか一つ選んで唱え続ける)、物理的に実在する空、(真如、宇宙の英知(宇宙英知)、万物の創造主(創造主)、天の父、宇宙意識)と自分の心を結びつけることができる
と説いています。
一方、既に私の調査で報告したように、般若心経には、般若波羅蜜多prajñāpāramitā「彼岸に渡るための智慧(叡智)」は、般若心経・大般若経で『大明呪、大神呪、無上呪無、無等等呪』などと呼ばれ、これより勝るものはない如来の智慧(宇宙の叡智)の呪文であり、サンスクリットから『渡った、渡った、彼岸に渡った、彼岸に完全に渡った、めでたし』と翻訳できることが説かれています。
沢辺悟明、沢辺恭一 (著)の『仏陀が説かれた真理 ― 付 才能開発法(仏陀の教説の実生活への活用例) : 三学出版 (1983/01)』には、般若心経の大明呪に関する記載は全くありませんので、大明呪の仏教ヨーガへの応用に関しては、自分で考えてみる必要があります。
大明呪の実行方法を教えている般若心経の後半部分には、次のように説かれています(漢訳より日本語訳)。
『菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙無し、罣礙無きが故に、恐怖有ること無し、一切の顛倒夢想を遠離して、究竟涅槃す。
三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たもう。
故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり、是れ大明呪なり、是れ無上呪なり、是れ無等等呪なり。
能く一切の苦を除く。真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。
即ち、呪を説いて曰く、 掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝、菩提僧莎訶』
この部分は次のように解釈できます:
『菩薩(真理・悟りの探求者)は、般若波羅蜜多(大明呪)を実行しているから(大明呪を唱え続けているから)、心にとらわれが無い、心にとらわれが無いため、恐怖するものはない、あらゆる間違った考えから離れて真理(悟り)を得ている。
過去・現在・未来の全ての如来も、般若波羅蜜多(大明呪)を実行しているから(大明呪を唱え続けているから)、素晴らしい無常正等正覚(最高の悟り)を得ておられる。
それ故、般若波羅蜜多prajñāpāramitā「彼岸に渡るための智慧(叡智)」は、大明呪(偉大な宇宙の叡智の呪文)、大神呪(偉大な神とも言うべき呪文)、無上呪(これより力のあるものはない呪文)、無等等呪(他にこれに匹敵するものはない呪文)であることが分かる。
全ての苦しみを取り除く能力を持つ。これは真実であって嘘ではない。それ故、般若波羅蜜多の呪を説くのである。具体的には次のように呪を唱えるのである:
「渡った、渡った、彼岸に渡った、彼岸に完全に渡った、めでたし」』
注意:
般若心経の記載「能く一切の苦を除く」が、現実には有効率80~90%であることに関しては、
ブログ記事「能除一切苦: サンスクリットからの翻訳と能除一切苦の現実」
http://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/e7d142a03d373b2f1b097b715c416fbe
を参照。
この偉大な力を持つと説かれている大明呪を仏教ヨーガに応用して、自分の心を宇宙の英知(主のみ心)に結合させるのは良い方法であるのは、誰の目にも明らかです。
では、仏教ヨーガにおいて、大明呪をどのように使えば良いのでしょうか?
自分の心を宇宙の英知に結びつけて、心と宇宙の英知が一つのものになった状態を作ることが目的ですから、例えば、次のような大明呪の唱え方が考えられます:
「一体だ、一体だ、宇宙の英知と一体だ、宇宙の英知と完全に一体だ」
「一体になった、一体になった、宇宙の英知と一体になった、宇宙の英知と完全に一体になった」
「一体化した、一体化した、宇宙の英知と一体化した、宇宙の英知と完全に一体化した」
「一体化、一体化、宇宙の英知と一体化、宇宙の英知と完全に一体化」
「一つだ、一つだ、宇宙の英知と一つだ」
もっと簡略化して、「宇宙の英知と一体だ」「宇宙の英知と一つだ」「宇宙の英知よ」と唱え続けるのも良い方法だと思います。
あるいは、自分が縁起現象相だけにいるという考え自体が錯覚・誤った考え(顛倒夢想)であり、本当は同時に空にもいる二重性が真実であるから、
縁起現象相から空に渡ったとみなして、
「渡った、渡った、空に渡った、空に完全に渡った」
本当は、縁起現象相と空は二相一体であるため、実は既に最初から空に渡っているのだから、自分は空であるとみなして、
「空だ、空だ、空だった、私は空だった」
縁起現象相の万物は、本質相では空という一つのものであり、空が発する無数の言葉が、縁起現象相に無数の現象を生み出しています。
言葉の段階までは、空の性質、即ち、「時間空間がない(無次元無時間)・縁起現象相に現象を生み出す」という物理的性質を持っています。
人も万物の一種であり、「人即是空、空即是人」「人は空である、空は人である」という真実がありますから、人と空は一体不可分であり、人は空から離れて存在できず、空は常に人と一体です。
人である私の場合にも、「私即是空、空即是私」「私は空だ、空は私だ」と言うことも可能です。
これは人の心身の両面に当てはまります。
ですから、人が空(宇宙の英知)と一体であり、両者の間に分離が無いのは、実は当たり前のことなのです。
アダムスキー氏の解説によれば、地球人の場合には、愚かな人間がその真実に気づいていないことと、空の意思(言葉)を自分の心身を通じて表現する術を身につけていないことが問題になっているそうです。
アダムスキー氏が指摘されているこの問題の解決のためには、人の心を宇宙の英知(空)に結びつける仏教ヨーガの実践(修行)が必要であるとということに理論的にはなります。
ただし、釈尊が去られた後では、誰一人、如来になられた方はおられませんので、このような行法によっても、アダムスキー氏の説かれた宇宙意識との一体化、空との同化は無理だと思われます。
注意:
「空」「宇宙の英知」という言葉を使用する場合、これらの言葉が具体的に何を意味しているのか、明確な認識を持った上で行じなければ効果はありません。
何か分からないものと、自分の心を結びつけることはできないのです。
私の理解では、「空」「宇宙の英知」とは、人間を含む宇宙の万物、森羅万象を創造し動かしている物理的存在であり、それは非人格的・非個人的・非局在的(普遍的)な存在です。
つまり、多神教で見られるような人格的・個人的な人格神は完全な誤りであり、古来から「神」と呼ばれているもののほとんどは、神と自称しているだけの生身の人間のことを意味しているのだと思います。
また、イエス・キリストや仏陀は、あくまで「宇宙の英知」により創造された人間であり、「宇宙の英知」と心を結びつけて真理を説かれた偉大な覚者の方々であると私は思っています。
「空」「宇宙の英知」は、別名は、「万物の創造主」(ただし人格神ではない非個人的・非人格的・非局在的(普遍的)な物理的存在)と呼ぶことが可能です。
補足1. 人間の構成
人間は、簡単に言えば、肉体と心から構成されています。
肉体は、各種の臓器、細胞、分子、原子、原子核と電子、陽子、中性子、素粒子から構成されており、これらは全て本質相では空であり、宇宙の英知、万物の創造主そのものです。
同時に、人間の心、これは表面に出ている顕在意識と深層の潜在意識(その人が気づいていない無意識)があると言われていますが、自分の心も本質相では空であり、宇宙の英知、万物の創造主そのものと直結しています。
空=真如=宇宙の英知=万物の創造主であり、肉体も心も、空=真如=宇宙の英知=万物の創造主に直結しているのです。
まず、自分という存在に関して、このような認識と理解を明確に持っておく必要があります。
自分に関して、このような認識を持ったならば、自分の外界にあるもの全て、他人、自然、人工物の全てが空=真如=宇宙の英知=万物の創造主に直結しているということも覚えておく必要があります。
空と直結していないもの、空との二重性を持っていないものは、宇宙には存在できないのです。
なぜなら、色即是空、空即是色(万物は空である、空は万物である)であり、万物を生み出したのは空であり、空は万物として存在しているのです。
空=言葉であると釈尊は説かれています。
空(真如)が言葉を発して縁起・現象相に万物を生み出し動かしています。
釈尊の教説では、空は一つですが、空が生み出す言葉は無数にあり、その無数の言葉までは空の性質(無次元・無時間・縁起現象相に現象を創造する能力)を持つと教えています。
空が発する無数の言葉は、縁起現象相に無数の現象を生み出します。
人の人体も心も、空の発する言葉により生み出されたものです。
そして、人間が考え思う言葉も、空の性質を持つ言葉であると釈尊は説かれており、人間は言葉を使った創造ができるのです。
その際、人はどのような性質の言葉を発するか、選択権を持っているようであり、それをアダムスキー氏はその人の自由意志と呼ばれています。
アダムスキー氏によると、宇宙の英知が人間を創造した目的は、宇宙の英知の意思(言葉)を縁起現象相に実現させることだそうですから、宇宙の英知は常に一人一人の人に向かって語りかけていると考えられます。
人は、空の言葉をそのまま現象相に表すこともできるはずです。
空の言葉は、各種の宗教で「神の意思」と呼ばれてきたものであると思われますから、人は空の言葉に従えば、空の意思に従う生き方ができるようになるはずです。
しかし、現実の地球には、大慈、大悲、大智ではなく、悪魔的な戦争や残虐行為が満ちあふれています。
これは、地球人が言葉(思い、考え)を誤用・悪用して生み出した地獄(インフェルノ)であり、自然界を創造・展開している空の意思(言葉)ではないのです。
その主犯格の存在を、アダムスキー氏はサイレンスグループと呼ばれ、作り上げている社会体制を悪魔帝国バビロンと呼ばれています。
そのような社会が存在する原因は、アダムスキー氏によれば、5000年以上前に地球を軍事占領していた同盟惑星軍(火星・水星・木星)が地球に持ち込んだ戦争と悪魔教の「双子の悪魔」が原因であると言われています。
仏陀(如来)とは、空(宇宙の英知)という物理的存在により創造され命を与えられた人が進歩し、空と同化された偉大な人だと思われます。
空は、全宇宙・全生物を創造し動かし、もちろん太陽系や地球も空が創造し動かしているものですが、必要な時期が来れば地球や太陽系をリサイクルするために崩壊させたり、地震や津波のような自然災害と我々が呼んでいる現象も起こします。
しかし、大慈、大智、大悲という性質を身につけられた仏陀は、このような自然災害を起こすのではないと私は思います。
つまり、空と如来は、性質に差があるように思われます。
補足2. イエス・キリストの説かれた「心を宇宙の英知(天の父)に結びつける方法(ヨーガ)」
今回まとめた
仏陀が説かれた真理―付 才能開発法(仏陀の教説の実生活への活用例) (沢辺悟明 (著), 沢辺恭一 (著))
の要点は次の通りです。
「仏陀を存在せしめる本質に帰依する言葉を聖音化」した言葉である「南無空、南無真如、南無宇宙英知、南無創造主、南無宇宙意識、南無毘盧遮那仏、南無大日如来(オンアビラウンケン)、南無阿弥陀仏」を唱え続ければ(自分の好きな表現をどれか一つ選んで唱え続ける)、「空、真如、宇宙の英知(宇宙英知)、万物の創造主(創造主)、天の父、宇宙意識」と自分の心を結びつけることができる。
アダムスキー氏の著作から類似したものを探してみると、「UFO Contactee 129、p.40、アダムスキー氏サンフランシスコ講演」には次のように書かれています:
『イエスはまた、我々は「二つの心」ではなく「一つの心」を持たねばならないと語っています。その「一つの心」とは「意識」と一体化した心のことです』
ここでアダムスキー氏の言われる「意識」とは、宇宙意識、宇宙の心Cosmic mindのことです(地球の心理学の言っている意識、即ち顕在意識、心ではありません)。
イエス・キリストは、我々人間の心を「宇宙意識、宇宙の心Cosmic mind」に結びつけて一つにした「一つの心」を持つ必要があることを述べられています。
二つの心を一つ結びつけるためにイエス・キリストが述べられた方法と思われるものは、1936年に出版されたアダムスキー氏の初期の著書「Wisdom of the Masters of the Far East」(邦題「ロイヤル・オーダー」, 1984, たま出版)の
p.86 「[55] 瞑想する時間をつくるべきですか」
で次のように書かれています:
『イエス・キリストはいいました。「祈れ、絶えず祈れ」と。
祈りや瞑想は一つの目的、すなわち自分自身を無限なる者に同調させて、神の導きを完全に意識するようになるためにあります。
このような意識の状態は、ときたま定められた期間に限らず、常に保たれるべきです。』
イエス・キリストの「祈れ、絶えず祈れ」という教えは、約2000年前のイスラエル(パレスチナ)に暮らしていた農民、漁民、羊飼い、商人などの平凡な一般庶民(その多くは文字を読めない人達)のために説かれた具体的な実行方法であり、その気になりさえすれば誰でも実行できる簡単なものです。
ただし、長期間に渡り継続しようとすると、かなり努力が必要になると思われます。
普段の生活で、心=顕在意識のレベルで生きている我々地球人は、約2000年前のイスラエルの人々と同じようなレベルの心ですので、イエス・キリストの「祈れ、絶えず祈れ」という教え(具体的な実行方法)は、今も非常に重要な教えであると私は思います。
祈り続けることにより人の心=顕在意識を、神=天の父=宇宙意識=宇宙の心に結びつけ、その導きを受けることができることをイエス・キリストが教えられているのですから、我々がそれを実行する価値は大きいと思われます。
例えば、「マタイによる福音書6章9節」には次のように書かれています:
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。』
イエス・キリストのこの方法では、「宇宙の英知」のことを「神」または「天の父」と呼んで、その名前を唱え続ける方法は、釈尊の説かれた仏教ヨーガと本質的に同じものです。
イエス・キリストも釈尊も、宇宙・万物・人間を創造・展開する真理を教えておられるので、真理を身につける方法が本質的に同じであることは、当然と言えば当然です。
また、キリスト教の祈りで
『主は我らの羊飼い、主は我らの導き手、主のみ心が行われますように』
という意味の祈りがあります。
ここで言う「主」とは、万物の創造主であり宇宙の英知のことです。
この祈りの「主は私の羊飼い」は、宇宙の英知が、自分の人生と生活の面倒を見てくれることを明確に認めています。
「主は私の導き手」は、宇宙の英知の知識・智慧・考え・意志・判断が、自分の人生と生活を導くことを明確に認識しています。
「主のみ心が行われますように」は、自分の狭い知識・情報・認識力・判断力ではなく、自分よりもはるかに偉大な能力を持つ万物の創造主=宇宙の英知の、自分に比べれば無限と言ってもいいほどの知識・情報・認識力・判断力に基づく意志が実行される、そしてその意志を自らも実行しようとすることを示しています。
つまり、この祈りは、「自分の心を宇宙の英知(天の父)に結びつけて、その導きを求め、宇宙の英知の意志を実行されること」を示しています。
よって、この祈りも、仏教ヨーガと同じことと考えられます。
補足3. 織田隆弘大僧正の真言密教の加持の方法も仏教ヨーガと同じ方法
大明呪、真言密教、キリスト教の比較
https://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/b3ff67420b7d71078a60f8c24e7facb4?fm=entry_awp
を参照
(a)大日如来への祈り「オン アビラウンケン」
全て公開されている顕教の大乗仏教とは異なり、密教は師から弟子へ伝授する「秘密教」であり、その内容が一般大衆には秘密にされ、教団内部の僧侶だけに伝授されてきました。
このため、その内容や価値に関しては、我々のような密教の僧侶でない一般市民が詳しく研究することは非常に難しく、関わりにくいものがあります。
織田隆弘大僧正の加持の方法に関しては、著書に一部が公開され、
『難病を救う真言密教―密教の哲理と加持力の実証』p.123に
『いま病気に悩む者のために、これを救うにアビラウンケンの念誦の中に慈悲心を湧かし、救病に努め観想すれば利生は速疾に現れる』
と書かれています。
p.227からの解説では、大僧正は1回の行で「オン アビラウンケン」を30分~2時間唱えるように書かれています。
本に公開されている情報だけから推測すると、織田隆弘大僧正の加持の方法は、「仏陀を存在せしめる本質」である「真如」を人格化した大日如来が病人の病気を治して下さると僧侶が心から信じて「オン アビラウンケン」(南無大日如来)を唱え続けて依頼者の病気を治す方法であると推定されます。
この場合、呪文(真言)「オン アビラウンケン」(南無大日如来)の持つ意味は、「真如」を人格化した大日如来を信じ・敬い・帰依し、そのご意思がなされますようにと祈ることです。
これは即ち、「真如」=「宇宙の英知、万物の創造主」を信じ・敬い・帰依し、そのご意思がなされますようにと祈ることです。
ただし、密教は一般には秘密にされているものですから、この本には書かれていない秘密の方法がある可能性もあります。
それは、密教の僧侶にならないと分かりませんので、一般市民は研究できず、密教は不可解な部分が残りますので困っていますがどうしようもありません。
(b)阿弥陀如来への祈り「南無阿弥陀仏」
織田隆弘大僧正の著書『同体大悲』のp.114には、「終戦後前後の1年間は、阿弥陀様の世界を大日如来と同じ世界と感じて、南無阿弥陀仏と唱えて病人を全て治した」と書かれています。
大日如来の真言「オン アビラウンケン」だけではなく、「南無阿弥陀仏」と唱えても同じ効果があることを織田隆弘大僧正が経験され、僧侶の自力ではなく、如来の絶対他力による治病・願望成就が加持の真の姿であると書かれています。
この場合は、「南無阿弥陀仏」と唱えることは、「真如」を人格化した阿弥陀如来を信じ・敬い・帰依し、そのご意思がなされますようにと祈ることです。
これは即ち、「真如」=「宇宙の英知、万物の創造主」を信じ・敬い・帰依し、そのご意思がなされますようにと祈ることです。
(c) 織田隆弘大僧正の真言密教の加持の行法は、仏教ヨーガと同じ方法
織田隆弘大僧正の真言密教の行法は、大日如来の真言「オン アビラウンケン」と「南無阿弥陀仏」を唱え続けることです。
それは、仏教ヨーガで実行している
『仏陀を存在せしめる本質(真如)を大乗仏教で人格化して 「本仏」と呼ばれている「大日如来 (マハーヴァイローチャナ=大光明遍照)」「阿弥陀仏 (無量寿、 無量光)」と行者の心を結びつけるために、「オン アビラウンケン」「南無阿弥陀仏」と唱え続けること』
と同じ方法ですから、織田隆弘大僧正の真言密教の行法は、仏教ヨーガの行法そのものです。
これは即ち、「真如」=「宇宙の英知、万物の創造主」を信じ・敬い・帰依し、そのご意思がなされますようにと祈ることです。
恐らく、これが真言密教の心髄であり、仏陀を存在せしめる本質(真如、宇宙の英知、万物の創造主)の意思が実現されて、願いがかなうと考えられます。
そして、この方法が現実に有効で、数多くの人の苦しみを救っている事実は、織田隆弘大僧正とその一門の方々により証明されています。
補足4. アダムスキー氏の「意識的意識の意識的知覚」
アダムスキー氏は、非常に抽象的で誰も理解できない表現として「意識的意識の意識的知覚」という表現を多く使われていました。
多くの人の解説によると、「意識的意識」とは、アダムスキー氏の使われた別の言葉では宇宙意識、宇宙の英知だそうです。
後半の「意識的知覚」とは、意識による知覚です。知覚とは簡単に言えば「知る」ことです。
アダムスキー氏が意識という言葉を使われる場合には、人間の心ではなく宇宙意識を意味すると多くの人は解説しています。
しかし、そのように解釈してみると、「意識的意識の意識的知覚」とは、「宇宙意識を宇宙意識により知る」という解釈になり、全く意味不明になってしまいます。
しかし、意識的知覚の意識を通常の意味である人間の心によると解釈すれば、この部分は、「人の心により知る」ことになります。
すると、「意識的意識の意識的知覚」とは、「宇宙意識を人の心により知る」という意味になり、意味が通るようになりますので、こちらの解釈が正しいと私は考えています。
しかし、残念ながら、アダムスキー氏は、その具体的方法に関しては、何も書かれていませんから、誰も何もできていません。
しかし、沢辺氏の本では、
『「仏陀を存在せしめる本質(空)に帰依する言葉を聖音化」した言葉である
「南無空、南無真如、南無宇宙英知、南無創造主、南無宇宙意識」を唱え続ければ(自分の好きな表現をどれか一つ選んで唱え続ける)、「空、真如、宇宙の英知(宇宙英知)、万物の創造主(創造主)、天の父、宇宙意識」と自分の心を結びつけることができる』
と書かれています。
この方法は「宇宙意識を人の心に結びつけて、人の心により知る」ことを意味しており、アダムスキー氏の言われる「宇宙意識を人の心により知る」と同じことを意味しているように思われます。
ただし、釈尊が去られた後では、誰一人、如来になられた方はおられませんので、このような行法によっても、アダムスキー氏の説かれた宇宙意識との一体化、空との同化はできないと思われます。
何らかの情報、思い、印象のようなものが、得られれば良いだろうという程度ではないでしょうか。
補足5: 現世利益の否定は、宇宙の英知の意思に反していると考えられる
仏教学者や僧侶の中には、現世利益を完全に否定する人も多いのが現実です。
特に、浄土系の浄土宗や浄土真宗は現世利益を完全に否定し、現世利益を完全に肯定する真言宗とは犬猿の仲と言われています。
しかし、
・巽直道先生の般若心経の大明呪を唱えることによる現世利益、
・真言密教の織田大僧正のオンアビラウンケン・南無阿弥陀仏を唱えることによる現世利益、
・観音経の現世利益、
・阿弥陀如来の現世利益の発願、
・イエス・キリストの現世利益の教え、
では、明らかに現世利益が肯定的に書かれています。
また、空=宇宙の英知は、言葉を用いて、現実にこの物質世界を動かし、豊かな自然、作物の実り、各種の科学法則・科学技術などを生み出しており、宇宙の英知そのものが、我々人間を含む生物に現世利益を与えています。
この事実を無視することはできません。
仏教ヨーガにより、人の心と真如(宇宙の英知)を結びつけ、様々な知識、智慧、情報、具体的な問題・課題の解決法を真如から入手し、現実の生活に役立てたり、様々な研究・開発に応用することは、我々の生活や人間社会の進歩向上に結びつきます。
真如の知識・情報・意志を人が役立てることは、宇宙の英知の意志を縁起現象相に表すことになり、宇宙の英知の意志を実現することになりますから、むしろ好ましいことだと私には思われます。
従って、現世利益の否定という考え方は、自然界の事実を無視した偏狭な誤ったものであると思われ、むしろ積極的に現世利益に応用すべきだと思われます。
アダムスキー氏によれば、金星・土星のような進歩した惑星、つまり仏教の浄土・キリスト教の天国では、人々は自分の心を宇宙の英知(真如)と結びつけて、宇宙の英知から様々な知識、智慧、情報、具体的な問題・課題の解決法を入手し、現実の生活に役立てたり、様々な研究・開発に応用して生活や人間社会の進歩向上を行っているそうです。
これらは、宇宙の英知と心を結びつけることにより得られる現世利益そのものですから、進歩した惑星では現世利益を肯定しています。
仏教界の僧侶や学者の現世利益否定の考え方が、何を根拠にしているか分かりませんが、それは根本的に誤っていると私は考えています。
補足6: 仏の御名を唱えるのならば、いずれの御名を唱えても同じだと思います
空と同化された全宇宙の無数の如来の方々は、大慈・大悲に徹しておられる偉大な存在です。
また、空においては諸法無我である(個別性はない)ため、空と同化されている全宇宙の無数の如来の方々には個別性や区別はありません。
なぜならば、空は1つの存在であり、空の中には個別性、区別はないからです。
無数の如来の方々には区別・個別性はありませんから、空では、
阿弥陀如来=観世音菩薩(正法明如来)=釈迦牟尼仏=薬師如来=大日如来=全宇宙の無数の如来=空=真如=宇宙の英知=万物の創造主=天の父
です。
このため、南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、南無釈迦牟尼仏、南無薬師如来などのいずれの御名を唱えても、全ての如来の御名を唱えることと同じですから、どの御名を唱えても同じように神通力による加持で救っていただけ、同じように極楽往生、浄土往生させていただけると私は信じています。
皆様が信仰されている宗派の教えに従い、聖なる御名を唱え続ければ良いだけだと思います。
補足7; 祈り方『主は我らの羊飼い、主は我らの導き手、主のみ心が行われますように』
人の祈り方の問題点としては、
一人の人の能力、現状把握能力、問題・課題解決能力、未来予測能力は、かなり限られたものであり、
その人の持っている具体的な願いが、本当に正しいものかどうか、最も良いかどうかは、
その人には分からないという点があります。
しかし、宇宙意識(空、宇宙の英知、真如、法、ダルマ、天の父、万物の創造主)は、全てを把握し、問題・課題を解決し、未来を予測する能力もありますから、正しい判断ができると思われます。
ただし、縁起・現象相の存在物には限界(制限)がありますから、例えば2018年の日本という国の中のAという地方ならば、その時代とAという地方の制限がかかった状態で、最適な答えになるはずです。
現実に存在できないことや、荒唐無稽なことは、祈っても実現はできません。
例えば、今の日本で火星旅行を願っても技術的に不可能ですし、100年前の時代にパソコンやインターネットを祈っても技術的に不可能です。
普通の人には、死者を生き返らせることや、死なない肉体を手に入れることもできません。覚者であられるお釈迦様の肉体も80歳で機能を停止しました。
自分の持っている具体的・個別的な願いを祈るのも一つの方法ですが、別の方法として、宇宙意識(空、宇宙の英知、真如、法、ダルマ、天の父、万物の創造主)の判断に任せるような形の祈りもあります。
このような方法の祈り方としては、キリスト教の祈りで
『主は我らの羊飼い、主は我らの導き手、主のみ心が行われますように』
という意味の祈りがあります。
ここで言う「主」とは、万物の創造主であり宇宙の英知のことです。
この祈りの「主は私の羊飼い」は、宇宙の英知が、自分の人生と生活の面倒を見てくれることを明確に認めています。
「主は私の導き手」は、宇宙の英知の知識・智慧・考え・意志・判断が、自分の人生と生活を導くことを明確に認識しています。
「主のみ心が行われますように」は、自分の狭い知識・情報・認識力・判断力ではなく、自分よりもはるかに偉大な能力を持つ万物の創造主=宇宙の英知の、自分に比べれば無限と言ってもいいほどの知識・情報・認識力・判断力に基づく意志が実行される、そしてその意志を自らも実行しようとすることを示しています。
つまり、この祈りは、「自分の心を宇宙の英知(天の父)に結びつけて、その導きを求め、宇宙の英知の意志が実行されること」を求めています。
よって、この祈りも、仏教ヨーガと同じことと考えられます。
これは、自分の願いを棚に上げて、全てを宇宙の英知の判断と働きにゆだねて、
『主は我らの羊飼い、主は我らの導き手、主のみ心が行われますように』
と祈り続けることになります。
注意:
ここで議論している『主のみ心が行われますように』という祈りに関しては、人の意識と祈りに関して研究されているアメリカの医師のラリー・ドッシー博士の著書に、祈りの研究機関スピンドリフトの実験データに基づいて議論されていますので、関心がおありでしたらご参照ください。
魂の再発見―聖なる科学をめざして (ヒーリング・ライブラリー)
ラリー ドッシー (著), Larry Dossey (原著), 上野 圭一 (翻訳), 井上 哲彰 (翻訳)
出版社: 春秋社 (1992/12)
癒しのことば―よみがえる「祈り」の力 (ヒーリング・ライブラリー)
ラリー ドッシー (著), Larry Dossey (原著), 森内 薫 (翻訳)
出版社: 春秋社 (1995/11)
祈る心は、治る力
ラリー ドッシー (著), Larry Dossey (原著), 大塚 晃志郎 (翻訳)
出版社: 日本教文社 (2003/03)
序
般若心経の空を解説した重松昭春氏の著書の中で、重松昭春氏が推薦されている仏教の全体像を解説した書籍があります。
この本には、物理的に実在して機能している「宇宙の英知 (Universal Intelligence) 」と自分の心を結びつける「仏教ヨーガ」の具体的な行法が書かれていますから、私のブログを読んで下さっておられる方々のために、参考のためにご紹介します。
ただし、釈尊が去られた後では、誰一人、如来になられた方はおられませんので、このような行法によっても、アダムスキー氏の説かれた宇宙意識との一体化、空との同化は無理だと思われます。
出典:
仏陀が説かれた真理 ― 付 才能開発法(仏陀の教説の実生活への活用例)
沢辺悟明 (著), 沢辺恭一 (著)
出版社: 三学出版 (1983/01)
注:
著者の沢辺 悟明氏と 沢辺 恭一氏に関しては、詳しい経歴が書かれておらず、本の前書きによれば、
(a)著者のお二方は親子であり、
(b)東京大学で自然科学を学ばれている長男の方と共同でこの本をまとめられた
ことが分かるだけです。
ネットで検索しても、著者に関しては、これ以上のことはわかりませんでした。
仏陀の説かれた教えの全体像を解説したこの本に関心がおありでしたら、アマゾンで古本で売っていますから、読まれてはいかがでしょうか。
アマゾンのアドレス:
https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8F%E9%99%80%E3%81%8C%E8%AA%AC%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%9C%9F%E7%90%86%E2%80%95%E4%BB%98-%E6%89%8D%E8%83%BD%E9%96%8B%E7%99%BA%E6%B3%95-%E4%BB%8F%E9%99%80%E3%81%AE%E6%95%99%E8%AA%AC%E3%81%AE%E5%AE%9F%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%B4%BB%E7%94%A8%E4%BE%8B-%E6%B2%A2%E8%BE%BA-%E6%82%9F%E6%98%8E/dp/4879061166/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1544484240&sr=8-1&keywords=%E4%BB%8F%E9%99%80%E3%81%8C%E8%AA%AC%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%9C%9F%E7%90%86
補足:
現代科学は、縁起現象相の観察・計測できるものだけを取り扱っていますが、無為の「空」という物理的存在の実在を証明できていません。
科学では、高次元という仮説は立てているようですが、無次元無時間の物理的存在を想定した検討は行われていないと推定しています。
空は、科学ではなく宗教の仏教で説かれていますが、現代仏教は、空は縁起の一時的な相互関係であると解釈し、空というものが物理的に実在しているとは解釈していません。
私の調査では、空は物理的存在として実在しているという結論が得られています。
ブログ記事
「空に関する調査と考察(2015年3月29日改訂)第1部」
http://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/9e844fa18e68ea9ff91a57b50ee1cc4d
「空に関する調査と考察(2015年3月29日改訂)第2部」
http://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/4573068d9898834416f0a3ea79e82833
を参照。
縁起現象相の無数の万物は、本質相では空という一つの物理的存在であり、物質界の縁起現象相と空は二相一体であり、物質であると同時に空であるという二重性を持っています。
空という1つの物理的存在には、縁起現象相の性質は一切なく、時間・空間すらありません。
空という1つの物理的存在が発する(物理的に実在する)無数の言葉が、縁起現象相に無数の現象を生み出しています。
つまり、「1つの空→→無数の言葉→→縁起現象相の無数の万物(時間・空間を含む)」という構図です。
言葉の段階までは、空の性質、即ち、「時間空間がない(無次元無時間)・縁起現象相に現象を生み出す」という物理的性質を持っています。
人間は、肉体と心から構成され、これらは両方とも空の言葉そのものであり、空の言葉により作られ動かされています。
肉体は、各種の臓器、細胞、分子、原子、原子核と電子、陽子、中性子、素粒子から構成されています。
これらは全て本質相では空であり、空は宇宙の英知、万物の創造主そのものです。
その空の生み出す無数の言葉が、素粒子、電子、陽子、中性子、原子核、原子、分子、細胞、各種の臓器となり、現象相の肉体を構成しているのです。
人間の心(転生する実体)も空の性質を持つ物理的存在として存在し、古くなって使えなくなった今の肉体から新しい肉体への転生の際には、どんな遠方の惑星にある新しい肉体であっても瞬時に移動できると考えられます。
人の心は、空という性質を持つ物理的存在であるため、宇宙・森羅万象の本質相である空と物理的に結合し、同化できる能力を持っていると私は推測しています。
本質が同じであるからこそ、このようなことができるのであり、全く異質のものであれば、物理的結合や同化はできるはずもありません。
人に関連する言葉に関しては、
(a)空の発する言葉(宇宙の英知の意志、創造主の意志、主のみ心)、
(b)その人個人が発する言葉(個人の思い・考え)
の2種類がありますが、地球人のほとんどの人は、(a)の存在に気づいていないか、又はそれを無視し、(b)だけで生きています。
その人個人が心の中で思う言葉も、空の発する言葉と同様の能力を持っており、「時間空間がない(無次元無時間)・縁起現象相に現象を生み出す」という物理的性質を持っています。
注
大般若経に説かれている「空=言葉」の詳細は、ブログ記事
大明呪の作動原理: 人の想念は空であり、時間・空間を超越し強力な創造・展開力を持つ(第1部)
http://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/626e11561b517fb0ab2883e5affa2b33
大明呪の作動原理: 人の想念は空であり、時間・空間を超越し強力な創造・展開力を持つ(第2部)
http://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/63ae92ba4e99ed08597e641fb31d8f22
を参照。
1.仏陀という存在
p.49
釈尊が仏陀になられたのは自灯明・法灯明(仏知見)を実践なさったからだ
釈尊が自らが利をともなうものではないと説かれた 「苦行 」 をやめられて、わずかな間 (通説では四十九日間) に仏陀になられたのに対し、 直弟子の方々は数十年間かかっても仏陀になることはできませんでした。
仏滅後の仏弟子はその原因を過去世の善業の差によるものという 「諸法無我」 の真実に反する「宿業説」 をとっています。
「諸法無我」 は、 各人が過去・現在・未来にわたって 一つにつながっている個有の実体(アー卜マ ン=漢訳して我〕 によって輪廻転生して いると考えられていた古代インドの常識思想であるアー卜マンによる見解 (我見という) は、 真実の状態 (一切法空) と異なっていると否定なさった教えですから、過去世の業(カルマ)の差が原因とする考え方は明らかな誤りです。
中阿含経の中の 『度経』でも、
・外道の説く宿命造 (過去世の行為によって現世の運命が定まるという考え方)、
・尊祐の造 (天によって人間の運命が定められているという考え方)、
・無因無縁 (因緑果報を否定する考え方)、
の三つの考え方は真実に反している、
と説かれていますが、 「宿命造」 から離れて真実をみたならば、 仏陀になる唯一の道が 「自灯明・法灯明(仏知見)」であったという重要なる自覚が得られたはずです。
釈尊が示された真理や修行法のすべ ては、「自灯明 (仏知見)」というもっとも難信難解な内容を自覚させんがためのものであり、 自覚することができる内容が説かれているのです。
なぜならば、 釈尊は「自灯明・法灯明 (仏知見)」を自覚なさったことにより、わずかな期間で仏陀になられたからです。
ですから 「聞慧・思慧」 によって仏陀の説かれた真理が信じられるようになったら 「修慧」は自灯明・法灯明 (仏知見) によって求めるようにすることがもっとも仏陀の真意にそった修行法であり、 そうすることによって「仏陀の存在」 となることができるのです。
釈尊が仏弟子のように永年にわたって「八正道」や「六波羅密」を実践なさったという事実はありませんから、 智慧を有する機根の高い人は最初から釈尊と同じように「自灯明・法灯明 (仏知見)」を実践すべきです。
そうすれば釈尊と同じように逆に真理の数々を正しく自覚することができるようになります。
(引用終わり)
p.51
仏陀の存在となるのに宗派は関係ない
仏教でいう自覚とは、 パーリ語の原意 「自ら悟る」、 梵語の原意 「真理に目覚め、 真理を悟る」という意味の原語の漢訳語です。
真理のすべてを自覚しようとしたならば、 『法句経」の一七九・ 一八〇偈で 「仏陀の知見は無辺なり」 と説かれ、 『法華経』 の方便品で「真理のすべては仏陀と仏陀のみが知り尽しており、 仏陀以外のものは知り尽せない」と説かれているように、
「八正道」 「戒定慧の三学」 「六波羅密」 などの修行法では自覚し得ないほど無量に実在しています。
その無量に存在する真理のすべ て (真如) が自らの心の中に実在して いるという自覚が 「自灯明・法灯明(仏知見)」 の自覚であり、その真如と一体化するという最高度のヨーガの実践が 「自灯明・法灯明(仏知見)」 の自覚であり、その真如と一体化するという最高度のヨーガの実践が 「自灯明 (仏知見)」 の実践です。
自らの本質が「真如」に変化するまで、くり返し一度でも多く「真如と一体化する」 という修行をすれば 「仏陀の存在」 となることができるわけです。
真理を他に求めることなく自らの心の中に求めるということは簡単なようで、信じ難く理解し難いことなので、釈尊は「四諦」を説かれ、 「十二因縁」を説かれ、「無相 ・ 空」 等々を説かれたのです。
「法華経」 の方便品では 「難信難解なことであるから信じることによって実践しなさい」 と説かれていますが、 仏陀の説かれた真理の正しい理解が得られたならば、当然のことながら信じられるはずです。
灯明とすベき真如については、 たとえば雑阿含経の中の『尊重経』 では、
”ただ正法のみありて我をして自覚して三藐三仏陀を成ぜしむ。我まさに彼(法=ダルマ)において恭敬し宗重し奉事し供養し、 彼に依りてしかも住すベし。”
と説かれているように 「正法」 あるいは 「法」 と呼ばれていたり、大乗仏教では、「法」「仏性」(涅槃経)、「一法」 「実相」 (無量義経、法華経)、「如来蔵」 (勝鬘経等) などと表現し、 真如を人格化して毘盧遮那仏(ヴァイローチャナ=光明遍照)(華厳経)、「大日如来 (マハーヴァイローチャナ=大光明遍照)」(大日経)などと表現したり、高僧は「阿弥陀仏 (無量寿、 無量光)」「妙法蓮華経」と名づけています。
仏陀を存在せしめる本質(真如)を大乗仏教では人格化して 「本仏」とも呼んでいますが、「南無妙法蓮華経」と唱える妙法五字は一般に考えられている経題という意味のみではなく、高僧が残された文書である「諸法実相鈔」 では、「妙法蓮華経こそ本仏にてはおわしそうらえ」 と説かれているように、「仏陀の本質である正法、 すなわち妙法蓮華経」という考え方で名づけられたものであり、同じく「日女御前御返事」でも「妙法五字の光明に照らされて本有の尊形となる」 と説かれているように諸仏の本質の ことをい います。
ですから宗派にこだわることなく、 名称にとらわれずに、 自らの心の中に実在する 「仏陀の本質」 と一体化する行をくり返し実践すればよいわけです。
本尊を他に求めずに自らの心の中に求めるということが大切であり、自分と仏陀の本質は別の存在であるとしか考えられないならば、 「八正道」 から修行し直した方がよいでしょう。
ただし、 ここでいう心の中とは 「自らの身体から離れた心の状態」のことをいいます。
(引用終わり)
仏教では、生まれ変わりを教えていますから、人には、物質から構成される肉体と生まれ変わる部分の2種類から構成されています。
身近な人が亡くなった場合を思い出してみれば、ついさっきまで生きていた人が、つまり心の活動のあった人が、今は全く動かない人体(原子・分子からなる物質)を残して、心は他の場所にある新しい人体に入って生まれ変わっているのです。
つまり、人は、人体と心の2つから成り立っており、心と人体は別物と考えることができます。
2. 仏教ヨーガの具体的な行法
自らの心の中に実在する 「仏陀の本質」 と一体化する行、すなわち仏教ヨーガの具体的な行法に関連する部分を抜粋してみました。
p.260
「ヨーガ」とは、「結びつける」という原語の意味にあるように、「想念を想念の対象に結びつけ、無相の存在せしめるもの(ブログ著者注: 縁起・現象相を作り出す空)によって全ての存在が一つにつながっているのだという自覚をもって想念の対象に溶け込むようにして一体化し、想念の対象になりきってしまう」ということさえできればよいからです。
(引用終わり)
p.247正定を得るためには正しいヨーガの実践が必要
「サマーディ(定(じょう)あるいは三昧)」とは、「ヨーガを実践することによって一時的に十二縁(五陰(五蘊(色受想行識)))の影響から脱け出た心の状態」のことをいいますが、そのサマーディの中でも、「心が解脱した状態になるサマーディ」のことを「八正道」では「正定(サンミャク・サマーディ)」と呼んでいます。
(引用終わり)
p.248
「正定」を得るためには「正しいヨーガの実践方法」を知らなければなりません。
「ヨーガ」は仏教誕生以前から「断食行などの苦行を中心」として実践されていましたが、釈尊は「苦行は利をともなわぬもの(パーリ律、大品(マハーワッカ)、1.6等)として「苦行中心の従来のヨーガ」を斥けられ、新しく中道(よりよい方向へもっとも効率的に変化させることができる手段)として「八正道」という「ヨーガの方法」を説かれています。
ですから、「仏教ヨーガ」と「一般的なヨーガ」は異質なものとなっています。
(引用終わり)
p.252
「ヨーガ・スートラ」でいう「読誦」とは、真実の言葉を誦唱することをいいます。
言葉の力は、自らの心を変化させる縁になるものですから、仏教でも読誦行を実践しますが、ただし、唱える言葉の意味をまったく理解していない読誦行では効果が得られません。
(引用終わり)
インドの一般的なヨーガでは、「オーム」という聖音を唱える行法を教えますが、それは仏教の行法とは異なっています。
一般的なヨーガのオームに関する解説は、この本のp.252-253に解説がありますが、仏教とは異なっており、仏教では正統なものとはみなされませんから省略します。関心がおありでしたら、この本をご覧下さい。
この本では仏教ヨーガの実行方法に関しては、次のように書かれています。
p.253
仏教でも「仏陀」あるいは「仏陀を存在せしめる本質」を聖音化(たとえば南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経)して、反復誦唱し、仏陀を心に思い浮かべるように念想するという方法がとられており、その方法によって三昧の状態を得るという「ヨーガ」の実践をしています。
ただしこの方法のみで三昧が得られる人はごく一部の人々です。
しかし、「一切法空の真実」を自覚し、「自らの心の中に自らの拠り所とすべき仏陀・仏陀を存在せしめる本質を見出した人」は、仏陀あるいは仏陀を存在せしめる本質に帰依する言葉を聖音化し、「聖音を反復誦唱する」という「ヨーガ」を実践すると、はやく三昧の境地を得ることができます。
この方法は、心に生じてくる雑念と戦いながら黙して座禅しているより、初心者にとってははるかに効果的に「サンミャク・サマーディ」が得られますから実践してください。
(引用終わり)
ここで空の物理的性質について私なりにまとめてみます。
「一切法空の真実」とは、人の体と心を含む全宇宙・全時間の現象相の全てのものは、本質相(無為、アサンスクリタ)では空という一つの物理的存在であるという真実のことです。
本質相の空という物理的存在には、大きさ、距離、空間、位置(座標)、次元、時間がありません。
縁起現象相では一人の人間の人体は小さなもので、万物を含む宇宙は無限に大きいものですから、縁起現象相では、宇宙の万物がちっぽけな一人の人間の中に存在することは不可能です。
例えば、月や太陽は、非常に巨大ですから、一人の人間の人体の中には納まりません。
しかし一方、本質相の空では全宇宙の万物には大きさがありませんから、空では一人の人の中に全宇宙の万物が空として存在できるのです。
また、空には時間がありませんから、過去現在未来は一つの空として存在し、空では一人の人の中に全時間・全宇宙の万物が空として存在しているのです。
現実に存在する空という物理的存在の持つ物理的性質から考えると、
「空では一人の人の中に全時間・全宇宙の万物が空として存在している」
というのは当たり前であり、単なる哲学、理念、観念的な妄想や狂気ではなく、単なる物理的な性質であるため、特別な信仰心は必要ないのです。
現象相の万物・知識・智慧・エネルギーなどのありとあらゆるもの、大慈、大智、大悲、幸福、喜び、豊かさ、楽しさなどは、本質相では空(真如、言葉)として存在し、それは一人一人の人の心身の中にあるのです。
本質相(無為、アサンスクリタ)では、自分の心は空であり、自分の心は空では全宇宙の万物と一体であり、空から離れて存在できるものは全宇宙の中には何一つないのです。
そして、自分の心身の中に空があり、空の中に自分の心身が存在し、自分の心身は空そのものであるという物理的性質が現実にあるのです。
これは、特別な人だけに備わっている性質ではなく、全ての人に自然の法則として備わっている性質です。
『無量に存在する真理のすべ て (空、真如) が自らの心の中に実在して いるという自覚が 「自灯明・法灯明(仏知見)」 の自覚である』と沢辺氏は書かれていますが、空という物理的存在の物理的性質から考えると、これは当たり前ことなのであり、特別な宗教的な信仰心は必要ないのです。
そして、空と同化された偉大な覚者が仏陀ですから、空と同化された仏陀が自分の心身の中におられるのは、「一切法空の真実」によれば当たりまえのことです。
「自らの拠り所とすべき仏陀」としては、例えば、観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来のような如来の方々が当てはまります。
「仏陀に帰依する言葉の聖音化」とは、例えば、広く知られているものでは「南無観世音菩薩、南無阿弥陀仏、オンアビラウンケン(大日如来への帰依)、オンアロリキャソワカ(観世音菩薩への帰依)」などがあります。
南無とは、帰依を意味する言葉であり「信じ、敬い、その意思に従います」という意味になります。
「仏陀を存在せしめる本質」とは、仏教用語では空、真如であり、これは別の言葉では、宇宙の英知(宇宙英知)、万物の創造主(創造主)、天の父、宇宙意識、という言葉で表すことができます。
このため、「仏陀を存在せしめる本質に帰依する言葉を聖音化する」とは、例えば、南無空、南無真如、南無宇宙英知、南無創造主、南無宇宙意識になります。
また、仏教では、「仏陀を存在せしめる本質」である「真如」を人格化して「毘盧遮那仏(ヴァイローチャナ=光明遍照)(華厳経)」、「大日如来 (マハーヴァイローチャナ=大光明遍照)」(大日経)などと表現したり、高僧は「阿弥陀仏 (無量寿、 無量光)」と呼んでいます。
このため、「仏陀を存在せしめる本質に帰依する言葉を聖音化する」とは、例えば、南無毘盧遮那仏、南無大日如来(オンアビラウンケン)、南無阿弥陀仏になります。
このような言葉を唱え続けること(つまり呪文を唱え続けること)が、「サンミャク・サマーディ」つまり、「八正道」で「正定(サンミャク・サマーディ)」と呼んでいる「心が解脱した状態になるサマーディ(ヨーガを実践することによって一時的に十二縁(五陰(五蘊(色受想行識)))の影響から脱け出た心の状態)」を得る方法であるとこの本では説かれています。
要は、「仏陀を存在せしめる本質に帰依する言葉を聖音化」した言葉である「南無空、南無真如、南無宇宙英知、南無創造主、南無宇宙意識、南無毘盧遮那仏、南無大日如来(オンアビラウンケン)、南無阿弥陀仏」を唱え続ければ(自分の好きな表現をどれか一つ選んで唱え続ける)、物理的に実在する「空、真如、宇宙の英知(宇宙英知)、万物の創造主(創造主)、天の父、宇宙意識」と自分の心を物理的に結びつけることができるとこの本では説いていることになります。
この他に、p.262-263には、予備的な実習方法として、2つの方法が書かれています。
(1)初歩の修行段階においては、「星空を心の中に思い浮かべ、宇宙と自らの心が一つにつながっていることを信じて想念を星空に一筋に伸ばしていき、星空すなわち自らの心、自らの心すなわち星空というサマーディの境地を得る」ことを行なえば、「自らの身体から心を解き放す」という状態を得るための方法として有効です。
(2)「水想観」と呼ばれる方法があり、「水すなわち自らの心、自らの心すなわち水」という状態になって諸欲から離れ、自らの心を身体の影響から解き放すという方法もあります。
また、p.263には、高度な行法「般舟三昧(はんじゅうざんまい、諸仏現前三昧)」も書かれています:
『それより高度な行法になると、「般舟三昧(はんじゅうざんまい、諸仏現前三昧)」という方法があり、「阿弥陀仏を心中に思い浮かべることに想念を統一し、阿弥陀仏の姿を眼前に見る」という方法があります。
この「般舟三昧」は7日あるいは21日間続けて行いますが、実現可能な方法であることは実際に実践してみれば判ります。
「仏教ヨーガ」に熟達すれば、永い間行じなくても諸仏を眼前にみることができるようになり、仏陀と一体化することによって解脱に必要な修慧を得ることができるようになるのです。』
(引用終わり)
このような行法の実行により、物理的に実在する空、すなわち宇宙の英知に自分の心を結合させることができると思われます。
それは、例えてみれば、1台のパソコンを光ケーブルのコネクタでインターネットという巨大な情報ネットワークにつなげるようなものです。
この行法は、大明呪と併用すれば、より効果的に空、すなわち宇宙の英知に自分の心を接近させて、より良い結果を生み出すことができると思われます。
空、すなわち宇宙の英知は、単なる理念や哲学(人間の好き勝手な考え)ではなく、物理的に実際に存在するものであり、宇宙の万物を作り動かしている物理的な智慧と力を持つ物理的存在です。
ですから、これは本来、宗教ではなく、空の物理学、自然科学として扱うべきものです。
残念ながら、地球の自然科学は未発達ですから、この分野を科学として扱うことはできておらず、空という物理的存在を証明出来ていません。偉大な覚者であられる釈尊により伝えられた宗教として教えられているのが現状です。
ただし、釈尊が去られた後では、誰一人、如来になられた方はおられませんので、このような行法によっても、アダムスキー氏の説かれた宇宙意識との一体化、空との同化は無理だと思われます。
3.般若心経の大明呪を仏教ヨーガへ応用する方法に関する考察
既にまとめたように、仏教ヨーガでは、
「仏陀を存在せしめる本質に帰依する言葉を聖音化」した言葉である「南無空、南無真如、南無宇宙英知、南無創造主、南無宇宙意識、南無毘盧遮那仏、南無大日如来(オンアビラウンケン)、南無阿弥陀仏」を唱え続ければ(自分の好きな表現をどれか一つ選んで唱え続ける)、物理的に実在する空、(真如、宇宙の英知(宇宙英知)、万物の創造主(創造主)、天の父、宇宙意識)と自分の心を結びつけることができる
と説いています。
一方、既に私の調査で報告したように、般若心経には、般若波羅蜜多prajñāpāramitā「彼岸に渡るための智慧(叡智)」は、般若心経・大般若経で『大明呪、大神呪、無上呪無、無等等呪』などと呼ばれ、これより勝るものはない如来の智慧(宇宙の叡智)の呪文であり、サンスクリットから『渡った、渡った、彼岸に渡った、彼岸に完全に渡った、めでたし』と翻訳できることが説かれています。
沢辺悟明、沢辺恭一 (著)の『仏陀が説かれた真理 ― 付 才能開発法(仏陀の教説の実生活への活用例) : 三学出版 (1983/01)』には、般若心経の大明呪に関する記載は全くありませんので、大明呪の仏教ヨーガへの応用に関しては、自分で考えてみる必要があります。
大明呪の実行方法を教えている般若心経の後半部分には、次のように説かれています(漢訳より日本語訳)。
『菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙無し、罣礙無きが故に、恐怖有ること無し、一切の顛倒夢想を遠離して、究竟涅槃す。
三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たもう。
故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり、是れ大明呪なり、是れ無上呪なり、是れ無等等呪なり。
能く一切の苦を除く。真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。
即ち、呪を説いて曰く、 掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝、菩提僧莎訶』
この部分は次のように解釈できます:
『菩薩(真理・悟りの探求者)は、般若波羅蜜多(大明呪)を実行しているから(大明呪を唱え続けているから)、心にとらわれが無い、心にとらわれが無いため、恐怖するものはない、あらゆる間違った考えから離れて真理(悟り)を得ている。
過去・現在・未来の全ての如来も、般若波羅蜜多(大明呪)を実行しているから(大明呪を唱え続けているから)、素晴らしい無常正等正覚(最高の悟り)を得ておられる。
それ故、般若波羅蜜多prajñāpāramitā「彼岸に渡るための智慧(叡智)」は、大明呪(偉大な宇宙の叡智の呪文)、大神呪(偉大な神とも言うべき呪文)、無上呪(これより力のあるものはない呪文)、無等等呪(他にこれに匹敵するものはない呪文)であることが分かる。
全ての苦しみを取り除く能力を持つ。これは真実であって嘘ではない。それ故、般若波羅蜜多の呪を説くのである。具体的には次のように呪を唱えるのである:
「渡った、渡った、彼岸に渡った、彼岸に完全に渡った、めでたし」』
注意:
般若心経の記載「能く一切の苦を除く」が、現実には有効率80~90%であることに関しては、
ブログ記事「能除一切苦: サンスクリットからの翻訳と能除一切苦の現実」
http://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/e7d142a03d373b2f1b097b715c416fbe
を参照。
この偉大な力を持つと説かれている大明呪を仏教ヨーガに応用して、自分の心を宇宙の英知(主のみ心)に結合させるのは良い方法であるのは、誰の目にも明らかです。
では、仏教ヨーガにおいて、大明呪をどのように使えば良いのでしょうか?
自分の心を宇宙の英知に結びつけて、心と宇宙の英知が一つのものになった状態を作ることが目的ですから、例えば、次のような大明呪の唱え方が考えられます:
「一体だ、一体だ、宇宙の英知と一体だ、宇宙の英知と完全に一体だ」
「一体になった、一体になった、宇宙の英知と一体になった、宇宙の英知と完全に一体になった」
「一体化した、一体化した、宇宙の英知と一体化した、宇宙の英知と完全に一体化した」
「一体化、一体化、宇宙の英知と一体化、宇宙の英知と完全に一体化」
「一つだ、一つだ、宇宙の英知と一つだ」
もっと簡略化して、「宇宙の英知と一体だ」「宇宙の英知と一つだ」「宇宙の英知よ」と唱え続けるのも良い方法だと思います。
あるいは、自分が縁起現象相だけにいるという考え自体が錯覚・誤った考え(顛倒夢想)であり、本当は同時に空にもいる二重性が真実であるから、
縁起現象相から空に渡ったとみなして、
「渡った、渡った、空に渡った、空に完全に渡った」
本当は、縁起現象相と空は二相一体であるため、実は既に最初から空に渡っているのだから、自分は空であるとみなして、
「空だ、空だ、空だった、私は空だった」
縁起現象相の万物は、本質相では空という一つのものであり、空が発する無数の言葉が、縁起現象相に無数の現象を生み出しています。
言葉の段階までは、空の性質、即ち、「時間空間がない(無次元無時間)・縁起現象相に現象を生み出す」という物理的性質を持っています。
人も万物の一種であり、「人即是空、空即是人」「人は空である、空は人である」という真実がありますから、人と空は一体不可分であり、人は空から離れて存在できず、空は常に人と一体です。
人である私の場合にも、「私即是空、空即是私」「私は空だ、空は私だ」と言うことも可能です。
これは人の心身の両面に当てはまります。
ですから、人が空(宇宙の英知)と一体であり、両者の間に分離が無いのは、実は当たり前のことなのです。
アダムスキー氏の解説によれば、地球人の場合には、愚かな人間がその真実に気づいていないことと、空の意思(言葉)を自分の心身を通じて表現する術を身につけていないことが問題になっているそうです。
アダムスキー氏が指摘されているこの問題の解決のためには、人の心を宇宙の英知(空)に結びつける仏教ヨーガの実践(修行)が必要であるとということに理論的にはなります。
ただし、釈尊が去られた後では、誰一人、如来になられた方はおられませんので、このような行法によっても、アダムスキー氏の説かれた宇宙意識との一体化、空との同化は無理だと思われます。
注意:
「空」「宇宙の英知」という言葉を使用する場合、これらの言葉が具体的に何を意味しているのか、明確な認識を持った上で行じなければ効果はありません。
何か分からないものと、自分の心を結びつけることはできないのです。
私の理解では、「空」「宇宙の英知」とは、人間を含む宇宙の万物、森羅万象を創造し動かしている物理的存在であり、それは非人格的・非個人的・非局在的(普遍的)な存在です。
つまり、多神教で見られるような人格的・個人的な人格神は完全な誤りであり、古来から「神」と呼ばれているもののほとんどは、神と自称しているだけの生身の人間のことを意味しているのだと思います。
また、イエス・キリストや仏陀は、あくまで「宇宙の英知」により創造された人間であり、「宇宙の英知」と心を結びつけて真理を説かれた偉大な覚者の方々であると私は思っています。
「空」「宇宙の英知」は、別名は、「万物の創造主」(ただし人格神ではない非個人的・非人格的・非局在的(普遍的)な物理的存在)と呼ぶことが可能です。
補足1. 人間の構成
人間は、簡単に言えば、肉体と心から構成されています。
肉体は、各種の臓器、細胞、分子、原子、原子核と電子、陽子、中性子、素粒子から構成されており、これらは全て本質相では空であり、宇宙の英知、万物の創造主そのものです。
同時に、人間の心、これは表面に出ている顕在意識と深層の潜在意識(その人が気づいていない無意識)があると言われていますが、自分の心も本質相では空であり、宇宙の英知、万物の創造主そのものと直結しています。
空=真如=宇宙の英知=万物の創造主であり、肉体も心も、空=真如=宇宙の英知=万物の創造主に直結しているのです。
まず、自分という存在に関して、このような認識と理解を明確に持っておく必要があります。
自分に関して、このような認識を持ったならば、自分の外界にあるもの全て、他人、自然、人工物の全てが空=真如=宇宙の英知=万物の創造主に直結しているということも覚えておく必要があります。
空と直結していないもの、空との二重性を持っていないものは、宇宙には存在できないのです。
なぜなら、色即是空、空即是色(万物は空である、空は万物である)であり、万物を生み出したのは空であり、空は万物として存在しているのです。
空=言葉であると釈尊は説かれています。
空(真如)が言葉を発して縁起・現象相に万物を生み出し動かしています。
釈尊の教説では、空は一つですが、空が生み出す言葉は無数にあり、その無数の言葉までは空の性質(無次元・無時間・縁起現象相に現象を創造する能力)を持つと教えています。
空が発する無数の言葉は、縁起現象相に無数の現象を生み出します。
人の人体も心も、空の発する言葉により生み出されたものです。
そして、人間が考え思う言葉も、空の性質を持つ言葉であると釈尊は説かれており、人間は言葉を使った創造ができるのです。
その際、人はどのような性質の言葉を発するか、選択権を持っているようであり、それをアダムスキー氏はその人の自由意志と呼ばれています。
アダムスキー氏によると、宇宙の英知が人間を創造した目的は、宇宙の英知の意思(言葉)を縁起現象相に実現させることだそうですから、宇宙の英知は常に一人一人の人に向かって語りかけていると考えられます。
人は、空の言葉をそのまま現象相に表すこともできるはずです。
空の言葉は、各種の宗教で「神の意思」と呼ばれてきたものであると思われますから、人は空の言葉に従えば、空の意思に従う生き方ができるようになるはずです。
しかし、現実の地球には、大慈、大悲、大智ではなく、悪魔的な戦争や残虐行為が満ちあふれています。
これは、地球人が言葉(思い、考え)を誤用・悪用して生み出した地獄(インフェルノ)であり、自然界を創造・展開している空の意思(言葉)ではないのです。
その主犯格の存在を、アダムスキー氏はサイレンスグループと呼ばれ、作り上げている社会体制を悪魔帝国バビロンと呼ばれています。
そのような社会が存在する原因は、アダムスキー氏によれば、5000年以上前に地球を軍事占領していた同盟惑星軍(火星・水星・木星)が地球に持ち込んだ戦争と悪魔教の「双子の悪魔」が原因であると言われています。
仏陀(如来)とは、空(宇宙の英知)という物理的存在により創造され命を与えられた人が進歩し、空と同化された偉大な人だと思われます。
空は、全宇宙・全生物を創造し動かし、もちろん太陽系や地球も空が創造し動かしているものですが、必要な時期が来れば地球や太陽系をリサイクルするために崩壊させたり、地震や津波のような自然災害と我々が呼んでいる現象も起こします。
しかし、大慈、大智、大悲という性質を身につけられた仏陀は、このような自然災害を起こすのではないと私は思います。
つまり、空と如来は、性質に差があるように思われます。
補足2. イエス・キリストの説かれた「心を宇宙の英知(天の父)に結びつける方法(ヨーガ)」
今回まとめた
仏陀が説かれた真理―付 才能開発法(仏陀の教説の実生活への活用例) (沢辺悟明 (著), 沢辺恭一 (著))
の要点は次の通りです。
「仏陀を存在せしめる本質に帰依する言葉を聖音化」した言葉である「南無空、南無真如、南無宇宙英知、南無創造主、南無宇宙意識、南無毘盧遮那仏、南無大日如来(オンアビラウンケン)、南無阿弥陀仏」を唱え続ければ(自分の好きな表現をどれか一つ選んで唱え続ける)、「空、真如、宇宙の英知(宇宙英知)、万物の創造主(創造主)、天の父、宇宙意識」と自分の心を結びつけることができる。
アダムスキー氏の著作から類似したものを探してみると、「UFO Contactee 129、p.40、アダムスキー氏サンフランシスコ講演」には次のように書かれています:
『イエスはまた、我々は「二つの心」ではなく「一つの心」を持たねばならないと語っています。その「一つの心」とは「意識」と一体化した心のことです』
ここでアダムスキー氏の言われる「意識」とは、宇宙意識、宇宙の心Cosmic mindのことです(地球の心理学の言っている意識、即ち顕在意識、心ではありません)。
イエス・キリストは、我々人間の心を「宇宙意識、宇宙の心Cosmic mind」に結びつけて一つにした「一つの心」を持つ必要があることを述べられています。
二つの心を一つ結びつけるためにイエス・キリストが述べられた方法と思われるものは、1936年に出版されたアダムスキー氏の初期の著書「Wisdom of the Masters of the Far East」(邦題「ロイヤル・オーダー」, 1984, たま出版)の
p.86 「[55] 瞑想する時間をつくるべきですか」
で次のように書かれています:
『イエス・キリストはいいました。「祈れ、絶えず祈れ」と。
祈りや瞑想は一つの目的、すなわち自分自身を無限なる者に同調させて、神の導きを完全に意識するようになるためにあります。
このような意識の状態は、ときたま定められた期間に限らず、常に保たれるべきです。』
イエス・キリストの「祈れ、絶えず祈れ」という教えは、約2000年前のイスラエル(パレスチナ)に暮らしていた農民、漁民、羊飼い、商人などの平凡な一般庶民(その多くは文字を読めない人達)のために説かれた具体的な実行方法であり、その気になりさえすれば誰でも実行できる簡単なものです。
ただし、長期間に渡り継続しようとすると、かなり努力が必要になると思われます。
普段の生活で、心=顕在意識のレベルで生きている我々地球人は、約2000年前のイスラエルの人々と同じようなレベルの心ですので、イエス・キリストの「祈れ、絶えず祈れ」という教え(具体的な実行方法)は、今も非常に重要な教えであると私は思います。
祈り続けることにより人の心=顕在意識を、神=天の父=宇宙意識=宇宙の心に結びつけ、その導きを受けることができることをイエス・キリストが教えられているのですから、我々がそれを実行する価値は大きいと思われます。
例えば、「マタイによる福音書6章9節」には次のように書かれています:
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。』
イエス・キリストのこの方法では、「宇宙の英知」のことを「神」または「天の父」と呼んで、その名前を唱え続ける方法は、釈尊の説かれた仏教ヨーガと本質的に同じものです。
イエス・キリストも釈尊も、宇宙・万物・人間を創造・展開する真理を教えておられるので、真理を身につける方法が本質的に同じであることは、当然と言えば当然です。
また、キリスト教の祈りで
『主は我らの羊飼い、主は我らの導き手、主のみ心が行われますように』
という意味の祈りがあります。
ここで言う「主」とは、万物の創造主であり宇宙の英知のことです。
この祈りの「主は私の羊飼い」は、宇宙の英知が、自分の人生と生活の面倒を見てくれることを明確に認めています。
「主は私の導き手」は、宇宙の英知の知識・智慧・考え・意志・判断が、自分の人生と生活を導くことを明確に認識しています。
「主のみ心が行われますように」は、自分の狭い知識・情報・認識力・判断力ではなく、自分よりもはるかに偉大な能力を持つ万物の創造主=宇宙の英知の、自分に比べれば無限と言ってもいいほどの知識・情報・認識力・判断力に基づく意志が実行される、そしてその意志を自らも実行しようとすることを示しています。
つまり、この祈りは、「自分の心を宇宙の英知(天の父)に結びつけて、その導きを求め、宇宙の英知の意志を実行されること」を示しています。
よって、この祈りも、仏教ヨーガと同じことと考えられます。
補足3. 織田隆弘大僧正の真言密教の加持の方法も仏教ヨーガと同じ方法
大明呪、真言密教、キリスト教の比較
https://blog.goo.ne.jp/gadamski/e/b3ff67420b7d71078a60f8c24e7facb4?fm=entry_awp
を参照
(a)大日如来への祈り「オン アビラウンケン」
全て公開されている顕教の大乗仏教とは異なり、密教は師から弟子へ伝授する「秘密教」であり、その内容が一般大衆には秘密にされ、教団内部の僧侶だけに伝授されてきました。
このため、その内容や価値に関しては、我々のような密教の僧侶でない一般市民が詳しく研究することは非常に難しく、関わりにくいものがあります。
織田隆弘大僧正の加持の方法に関しては、著書に一部が公開され、
『難病を救う真言密教―密教の哲理と加持力の実証』p.123に
『いま病気に悩む者のために、これを救うにアビラウンケンの念誦の中に慈悲心を湧かし、救病に努め観想すれば利生は速疾に現れる』
と書かれています。
p.227からの解説では、大僧正は1回の行で「オン アビラウンケン」を30分~2時間唱えるように書かれています。
本に公開されている情報だけから推測すると、織田隆弘大僧正の加持の方法は、「仏陀を存在せしめる本質」である「真如」を人格化した大日如来が病人の病気を治して下さると僧侶が心から信じて「オン アビラウンケン」(南無大日如来)を唱え続けて依頼者の病気を治す方法であると推定されます。
この場合、呪文(真言)「オン アビラウンケン」(南無大日如来)の持つ意味は、「真如」を人格化した大日如来を信じ・敬い・帰依し、そのご意思がなされますようにと祈ることです。
これは即ち、「真如」=「宇宙の英知、万物の創造主」を信じ・敬い・帰依し、そのご意思がなされますようにと祈ることです。
ただし、密教は一般には秘密にされているものですから、この本には書かれていない秘密の方法がある可能性もあります。
それは、密教の僧侶にならないと分かりませんので、一般市民は研究できず、密教は不可解な部分が残りますので困っていますがどうしようもありません。
(b)阿弥陀如来への祈り「南無阿弥陀仏」
織田隆弘大僧正の著書『同体大悲』のp.114には、「終戦後前後の1年間は、阿弥陀様の世界を大日如来と同じ世界と感じて、南無阿弥陀仏と唱えて病人を全て治した」と書かれています。
大日如来の真言「オン アビラウンケン」だけではなく、「南無阿弥陀仏」と唱えても同じ効果があることを織田隆弘大僧正が経験され、僧侶の自力ではなく、如来の絶対他力による治病・願望成就が加持の真の姿であると書かれています。
この場合は、「南無阿弥陀仏」と唱えることは、「真如」を人格化した阿弥陀如来を信じ・敬い・帰依し、そのご意思がなされますようにと祈ることです。
これは即ち、「真如」=「宇宙の英知、万物の創造主」を信じ・敬い・帰依し、そのご意思がなされますようにと祈ることです。
(c) 織田隆弘大僧正の真言密教の加持の行法は、仏教ヨーガと同じ方法
織田隆弘大僧正の真言密教の行法は、大日如来の真言「オン アビラウンケン」と「南無阿弥陀仏」を唱え続けることです。
それは、仏教ヨーガで実行している
『仏陀を存在せしめる本質(真如)を大乗仏教で人格化して 「本仏」と呼ばれている「大日如来 (マハーヴァイローチャナ=大光明遍照)」「阿弥陀仏 (無量寿、 無量光)」と行者の心を結びつけるために、「オン アビラウンケン」「南無阿弥陀仏」と唱え続けること』
と同じ方法ですから、織田隆弘大僧正の真言密教の行法は、仏教ヨーガの行法そのものです。
これは即ち、「真如」=「宇宙の英知、万物の創造主」を信じ・敬い・帰依し、そのご意思がなされますようにと祈ることです。
恐らく、これが真言密教の心髄であり、仏陀を存在せしめる本質(真如、宇宙の英知、万物の創造主)の意思が実現されて、願いがかなうと考えられます。
そして、この方法が現実に有効で、数多くの人の苦しみを救っている事実は、織田隆弘大僧正とその一門の方々により証明されています。
補足4. アダムスキー氏の「意識的意識の意識的知覚」
アダムスキー氏は、非常に抽象的で誰も理解できない表現として「意識的意識の意識的知覚」という表現を多く使われていました。
多くの人の解説によると、「意識的意識」とは、アダムスキー氏の使われた別の言葉では宇宙意識、宇宙の英知だそうです。
後半の「意識的知覚」とは、意識による知覚です。知覚とは簡単に言えば「知る」ことです。
アダムスキー氏が意識という言葉を使われる場合には、人間の心ではなく宇宙意識を意味すると多くの人は解説しています。
しかし、そのように解釈してみると、「意識的意識の意識的知覚」とは、「宇宙意識を宇宙意識により知る」という解釈になり、全く意味不明になってしまいます。
しかし、意識的知覚の意識を通常の意味である人間の心によると解釈すれば、この部分は、「人の心により知る」ことになります。
すると、「意識的意識の意識的知覚」とは、「宇宙意識を人の心により知る」という意味になり、意味が通るようになりますので、こちらの解釈が正しいと私は考えています。
しかし、残念ながら、アダムスキー氏は、その具体的方法に関しては、何も書かれていませんから、誰も何もできていません。
しかし、沢辺氏の本では、
『「仏陀を存在せしめる本質(空)に帰依する言葉を聖音化」した言葉である
「南無空、南無真如、南無宇宙英知、南無創造主、南無宇宙意識」を唱え続ければ(自分の好きな表現をどれか一つ選んで唱え続ける)、「空、真如、宇宙の英知(宇宙英知)、万物の創造主(創造主)、天の父、宇宙意識」と自分の心を結びつけることができる』
と書かれています。
この方法は「宇宙意識を人の心に結びつけて、人の心により知る」ことを意味しており、アダムスキー氏の言われる「宇宙意識を人の心により知る」と同じことを意味しているように思われます。
ただし、釈尊が去られた後では、誰一人、如来になられた方はおられませんので、このような行法によっても、アダムスキー氏の説かれた宇宙意識との一体化、空との同化はできないと思われます。
何らかの情報、思い、印象のようなものが、得られれば良いだろうという程度ではないでしょうか。
補足5: 現世利益の否定は、宇宙の英知の意思に反していると考えられる
仏教学者や僧侶の中には、現世利益を完全に否定する人も多いのが現実です。
特に、浄土系の浄土宗や浄土真宗は現世利益を完全に否定し、現世利益を完全に肯定する真言宗とは犬猿の仲と言われています。
しかし、
・巽直道先生の般若心経の大明呪を唱えることによる現世利益、
・真言密教の織田大僧正のオンアビラウンケン・南無阿弥陀仏を唱えることによる現世利益、
・観音経の現世利益、
・阿弥陀如来の現世利益の発願、
・イエス・キリストの現世利益の教え、
では、明らかに現世利益が肯定的に書かれています。
また、空=宇宙の英知は、言葉を用いて、現実にこの物質世界を動かし、豊かな自然、作物の実り、各種の科学法則・科学技術などを生み出しており、宇宙の英知そのものが、我々人間を含む生物に現世利益を与えています。
この事実を無視することはできません。
仏教ヨーガにより、人の心と真如(宇宙の英知)を結びつけ、様々な知識、智慧、情報、具体的な問題・課題の解決法を真如から入手し、現実の生活に役立てたり、様々な研究・開発に応用することは、我々の生活や人間社会の進歩向上に結びつきます。
真如の知識・情報・意志を人が役立てることは、宇宙の英知の意志を縁起現象相に表すことになり、宇宙の英知の意志を実現することになりますから、むしろ好ましいことだと私には思われます。
従って、現世利益の否定という考え方は、自然界の事実を無視した偏狭な誤ったものであると思われ、むしろ積極的に現世利益に応用すべきだと思われます。
アダムスキー氏によれば、金星・土星のような進歩した惑星、つまり仏教の浄土・キリスト教の天国では、人々は自分の心を宇宙の英知(真如)と結びつけて、宇宙の英知から様々な知識、智慧、情報、具体的な問題・課題の解決法を入手し、現実の生活に役立てたり、様々な研究・開発に応用して生活や人間社会の進歩向上を行っているそうです。
これらは、宇宙の英知と心を結びつけることにより得られる現世利益そのものですから、進歩した惑星では現世利益を肯定しています。
仏教界の僧侶や学者の現世利益否定の考え方が、何を根拠にしているか分かりませんが、それは根本的に誤っていると私は考えています。
補足6: 仏の御名を唱えるのならば、いずれの御名を唱えても同じだと思います
空と同化された全宇宙の無数の如来の方々は、大慈・大悲に徹しておられる偉大な存在です。
また、空においては諸法無我である(個別性はない)ため、空と同化されている全宇宙の無数の如来の方々には個別性や区別はありません。
なぜならば、空は1つの存在であり、空の中には個別性、区別はないからです。
無数の如来の方々には区別・個別性はありませんから、空では、
阿弥陀如来=観世音菩薩(正法明如来)=釈迦牟尼仏=薬師如来=大日如来=全宇宙の無数の如来=空=真如=宇宙の英知=万物の創造主=天の父
です。
このため、南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、南無釈迦牟尼仏、南無薬師如来などのいずれの御名を唱えても、全ての如来の御名を唱えることと同じですから、どの御名を唱えても同じように神通力による加持で救っていただけ、同じように極楽往生、浄土往生させていただけると私は信じています。
皆様が信仰されている宗派の教えに従い、聖なる御名を唱え続ければ良いだけだと思います。
補足7; 祈り方『主は我らの羊飼い、主は我らの導き手、主のみ心が行われますように』
人の祈り方の問題点としては、
一人の人の能力、現状把握能力、問題・課題解決能力、未来予測能力は、かなり限られたものであり、
その人の持っている具体的な願いが、本当に正しいものかどうか、最も良いかどうかは、
その人には分からないという点があります。
しかし、宇宙意識(空、宇宙の英知、真如、法、ダルマ、天の父、万物の創造主)は、全てを把握し、問題・課題を解決し、未来を予測する能力もありますから、正しい判断ができると思われます。
ただし、縁起・現象相の存在物には限界(制限)がありますから、例えば2018年の日本という国の中のAという地方ならば、その時代とAという地方の制限がかかった状態で、最適な答えになるはずです。
現実に存在できないことや、荒唐無稽なことは、祈っても実現はできません。
例えば、今の日本で火星旅行を願っても技術的に不可能ですし、100年前の時代にパソコンやインターネットを祈っても技術的に不可能です。
普通の人には、死者を生き返らせることや、死なない肉体を手に入れることもできません。覚者であられるお釈迦様の肉体も80歳で機能を停止しました。
自分の持っている具体的・個別的な願いを祈るのも一つの方法ですが、別の方法として、宇宙意識(空、宇宙の英知、真如、法、ダルマ、天の父、万物の創造主)の判断に任せるような形の祈りもあります。
このような方法の祈り方としては、キリスト教の祈りで
『主は我らの羊飼い、主は我らの導き手、主のみ心が行われますように』
という意味の祈りがあります。
ここで言う「主」とは、万物の創造主であり宇宙の英知のことです。
この祈りの「主は私の羊飼い」は、宇宙の英知が、自分の人生と生活の面倒を見てくれることを明確に認めています。
「主は私の導き手」は、宇宙の英知の知識・智慧・考え・意志・判断が、自分の人生と生活を導くことを明確に認識しています。
「主のみ心が行われますように」は、自分の狭い知識・情報・認識力・判断力ではなく、自分よりもはるかに偉大な能力を持つ万物の創造主=宇宙の英知の、自分に比べれば無限と言ってもいいほどの知識・情報・認識力・判断力に基づく意志が実行される、そしてその意志を自らも実行しようとすることを示しています。
つまり、この祈りは、「自分の心を宇宙の英知(天の父)に結びつけて、その導きを求め、宇宙の英知の意志が実行されること」を求めています。
よって、この祈りも、仏教ヨーガと同じことと考えられます。
これは、自分の願いを棚に上げて、全てを宇宙の英知の判断と働きにゆだねて、
『主は我らの羊飼い、主は我らの導き手、主のみ心が行われますように』
と祈り続けることになります。
注意:
ここで議論している『主のみ心が行われますように』という祈りに関しては、人の意識と祈りに関して研究されているアメリカの医師のラリー・ドッシー博士の著書に、祈りの研究機関スピンドリフトの実験データに基づいて議論されていますので、関心がおありでしたらご参照ください。
魂の再発見―聖なる科学をめざして (ヒーリング・ライブラリー)
ラリー ドッシー (著), Larry Dossey (原著), 上野 圭一 (翻訳), 井上 哲彰 (翻訳)
出版社: 春秋社 (1992/12)
癒しのことば―よみがえる「祈り」の力 (ヒーリング・ライブラリー)
ラリー ドッシー (著), Larry Dossey (原著), 森内 薫 (翻訳)
出版社: 春秋社 (1995/11)
祈る心は、治る力
ラリー ドッシー (著), Larry Dossey (原著), 大塚 晃志郎 (翻訳)
出版社: 日本教文社 (2003/03)