ゆるぎない山への思い。
このところ日記を書いていないので、書いてみた。
写真が入らない、文章をだらだらつづる私のブログは人気がない。
他人が読んでも読まなくてもいい、これは日記です。
今年はいくつ山にのぼっているのだろうか。
今年は出足から躓いた。
1月1日 仲間のスーサンと甲斐駒ヶ岳は駒津峰まで登ったが、
そこから先は体力に自信なくあえなく敗退。
1月9日は所属するハイキングクラブ
アルコの仲間と新年山行を行った。
日向和田から三室山、日の出山、御嶽山と歩き、
ある人は御嶽神社に参拝し、全員で長尾平の日だまりで新年会を行った。
1月16日は私がリーダとなり、
アルコの仲間と今倉山から二十六夜山を歩いた。
寒かった。仲間のペットボトルが芯まで凍った。
1月30日はアルコの仲間と愛鷹山の内の越前岳を登った。
2月6日はアルコの仲間と中央線沿線の花咲山に登った。
3月6日この日は私がリーダーでアルコの仲間24名とバスに乗って、
柳沢峠まで行き、黒川山と鶏冠山に登った。雪道を久しぶりに歩いた。
そして3月11日の東北大震災を迎えた。
2時46分、渋谷区の某小学校の警備の仕事をしていて
1年生の下校を見送ったところに、
いままで経験したことのない大揺れに遭遇。
下校した筈の1年生5人が駆け戻ってきた。
すぐに近くの公園に連れて行きしばらく様子をみる。
静まったところで下校させたが、それから学校は大騒ぎであり、
生徒を校庭に全員集める。保護者が次から次へと駆けつける。
結局、集団下校していくが、学校の建物に被害がなく、
周辺にも被害がなく、とりあえずはよかった、よかった。
しかし、電車は完全に止まり、帰宅難民の一人となり、
渋谷区の小田急線某駅から4時間半、夜中、歩いて、
登戸の娘夫婦と孫の所に泊まらせてもらい、
翌朝、ようやく動き出した南武線の電車に乗って昭島駅に帰ったが
もう昼近くであった。
その日はちょうど12日であり、ハイキングクラブ アルコの
「山の写真展」2日目。主催者としては中止の声も聞いたが、
開催した以上は続けるということで、翌13日
アルコの総会の日まで続けてしまつた。
大震災の被害が甚大であり、不謹慎という声もあったが、
山の写真展と総会は開催してしまった。
知れば知るほど被害の大きさにびっくり。
妻の実家はあの南三陸町であり、田畑家財すべて消失してしまい、
生活基盤を失っていた。
親戚も似たりよったりであり、
命だけたすかったが、それ以外のすべてを失っていた。
親戚としてどう対応すべきか、支援するにしても長期戦となるのは必定。
アルコでも義援金の話が持ち上がり6月までの8回の
山 行で参加者各位から500円を集めて日赤などに託すことになり、
直ちに実行することになった。
震災に福島の原子力発電事故が加わり、
日本全国が鬱に入ったようで震撼としてしまった。
アルコでも3月中は山行中止となった。自粛不況とでもいうのか、
町もしずまりかえってしまった。
自粛ムードは浸透し消費は鈍って先行きが懸念された。
4月6日、私がリーダーであるアルコの計画/丹沢/檜洞丸は
なんとなく気分が乗らず中止とした。
その前日4月5日 これはお忍びで個人山行を企てスーサンと海沢の
三ッ釜滝、ねじれ滝、海沢大滝から沢を詰めて大岳山に登る。
ここで悪いことは出来ないもので、なんとアルコの会員ミータン、めんごチャベ、
フルフルの三人と頂上で遭遇、帰りは一緒する。
4月10日奥多摩笹尾根生籐山から登山再会、これには参加。
4月29日 アルコの計画である坪山に多数参加とのことであるが、
私は不参加。
5月08日 アルコの計画である鶴が戸屋山に登るべく、
大月駅よりタクシーにて近坂橋下車、
それから1時間くらい登ったところで体調不良の者1名に
付き添い下山する
5月15日(日)アルコは鹿倉山に17名の参加とのこと、盛況に万歳。
私はなぜかアルコに背を向けて一人、鳩ノ巣から花折戸尾根を歩き、
本仁田山から鋸尾根経由、川苔山に登り、赤杭尾根を降り、
8時間歩き通して古里駅に出る。
なぜかロングコースを歩きたかったのだ。
5月18日 市内A病院に行く。整形外科の診断では右足の親指から
内側7-8センチのところの豆状骨が割れている(骨折)とのこと。
アルコに背を向けて一人ロングコースを歩いた結果の天罰だろう。
痛み止めと湿布をもらう。
以前も同じところが痛みしばらくびっこで山歩きしていた。
そのときは痛風の発症とばかり思っていた。
今回も痛風の発症と思って病院にいったのだが、
レントゲンで骨が割れているのは歴然であり、
尿酸値はそれほどでなく、医師から痛風でなく骨折を宣言される。
痛み止めを飲み湿布をはることで、歩るこうと思えば歩けるのが幸いである。
5月28日-29日は赤岳行が控えている。
一週間あり、なんとかなるだろう。
3月末に入札に破れた結果、学校警備の仕事は終わった。
4月に新しく某市営の競艇場の警備の仕事に就く。
極端な話、酔いどれギャンブラー相手の警備の仕事であり、
そこにいることに疑問を感じてしまい、
4月末に1ヶ月でその仕事を辞める。
登山資金かせぎの勤務であり、学校警備はよかった。
土曜日曜祭日が休めて、さらに夏休み秋休み、冬安ね、
春休みがあり、登山に行けた。
ところが競艇場は土日が稼ぎ時であり、
勤務が不規則であり、
登山の日程が組めない難点もあった。
ここにはない、なにか外にミッションがあるのではないかと思った。
そのミッションを捜すためいろいろと本をよんだり、
ネットで探索したりしている。
5月01日市の広報にアルコの新会員募集の記事が載る。
電話番をする。
70才の女性から最初の電話があった。
アルコは平均年齢62才を理由にお断りする。
72才の男性二人からも電話あるがお断りした。
65才までとして応募を待った。そのあと、
女性からの問い合わせが連続した。
入会案内も送った。
1名からはお試し山 行参加の返事をいただいた。
さらにということで待ち受けているが、いまのところまだ返事はない。
なにかミッションがあるはずであり、これからは、その探索の日々だ。
このところ日記を書いていないので、書いてみた。
写真が入らない、文章をだらだらつづる私のブログは人気がない。
他人が読んでも読まなくてもいい、これは日記です。
今年はいくつ山にのぼっているのだろうか。
今年は出足から躓いた。
1月1日 仲間のスーサンと甲斐駒ヶ岳は駒津峰まで登ったが、
そこから先は体力に自信なくあえなく敗退。
1月9日は所属するハイキングクラブ
アルコの仲間と新年山行を行った。
日向和田から三室山、日の出山、御嶽山と歩き、
ある人は御嶽神社に参拝し、全員で長尾平の日だまりで新年会を行った。
1月16日は私がリーダとなり、
アルコの仲間と今倉山から二十六夜山を歩いた。
寒かった。仲間のペットボトルが芯まで凍った。
1月30日はアルコの仲間と愛鷹山の内の越前岳を登った。
2月6日はアルコの仲間と中央線沿線の花咲山に登った。
3月6日この日は私がリーダーでアルコの仲間24名とバスに乗って、
柳沢峠まで行き、黒川山と鶏冠山に登った。雪道を久しぶりに歩いた。
そして3月11日の東北大震災を迎えた。
2時46分、渋谷区の某小学校の警備の仕事をしていて
1年生の下校を見送ったところに、
いままで経験したことのない大揺れに遭遇。
下校した筈の1年生5人が駆け戻ってきた。
すぐに近くの公園に連れて行きしばらく様子をみる。
静まったところで下校させたが、それから学校は大騒ぎであり、
生徒を校庭に全員集める。保護者が次から次へと駆けつける。
結局、集団下校していくが、学校の建物に被害がなく、
周辺にも被害がなく、とりあえずはよかった、よかった。
しかし、電車は完全に止まり、帰宅難民の一人となり、
渋谷区の小田急線某駅から4時間半、夜中、歩いて、
登戸の娘夫婦と孫の所に泊まらせてもらい、
翌朝、ようやく動き出した南武線の電車に乗って昭島駅に帰ったが
もう昼近くであった。
その日はちょうど12日であり、ハイキングクラブ アルコの
「山の写真展」2日目。主催者としては中止の声も聞いたが、
開催した以上は続けるということで、翌13日
アルコの総会の日まで続けてしまつた。
大震災の被害が甚大であり、不謹慎という声もあったが、
山の写真展と総会は開催してしまった。
知れば知るほど被害の大きさにびっくり。
妻の実家はあの南三陸町であり、田畑家財すべて消失してしまい、
生活基盤を失っていた。
親戚も似たりよったりであり、
命だけたすかったが、それ以外のすべてを失っていた。
親戚としてどう対応すべきか、支援するにしても長期戦となるのは必定。
アルコでも義援金の話が持ち上がり6月までの8回の
山 行で参加者各位から500円を集めて日赤などに託すことになり、
直ちに実行することになった。
震災に福島の原子力発電事故が加わり、
日本全国が鬱に入ったようで震撼としてしまった。
アルコでも3月中は山行中止となった。自粛不況とでもいうのか、
町もしずまりかえってしまった。
自粛ムードは浸透し消費は鈍って先行きが懸念された。
4月6日、私がリーダーであるアルコの計画/丹沢/檜洞丸は
なんとなく気分が乗らず中止とした。
その前日4月5日 これはお忍びで個人山行を企てスーサンと海沢の
三ッ釜滝、ねじれ滝、海沢大滝から沢を詰めて大岳山に登る。
ここで悪いことは出来ないもので、なんとアルコの会員ミータン、めんごチャベ、
フルフルの三人と頂上で遭遇、帰りは一緒する。
4月10日奥多摩笹尾根生籐山から登山再会、これには参加。
4月29日 アルコの計画である坪山に多数参加とのことであるが、
私は不参加。
5月08日 アルコの計画である鶴が戸屋山に登るべく、
大月駅よりタクシーにて近坂橋下車、
それから1時間くらい登ったところで体調不良の者1名に
付き添い下山する
5月15日(日)アルコは鹿倉山に17名の参加とのこと、盛況に万歳。
私はなぜかアルコに背を向けて一人、鳩ノ巣から花折戸尾根を歩き、
本仁田山から鋸尾根経由、川苔山に登り、赤杭尾根を降り、
8時間歩き通して古里駅に出る。
なぜかロングコースを歩きたかったのだ。
5月18日 市内A病院に行く。整形外科の診断では右足の親指から
内側7-8センチのところの豆状骨が割れている(骨折)とのこと。
アルコに背を向けて一人ロングコースを歩いた結果の天罰だろう。
痛み止めと湿布をもらう。
以前も同じところが痛みしばらくびっこで山歩きしていた。
そのときは痛風の発症とばかり思っていた。
今回も痛風の発症と思って病院にいったのだが、
レントゲンで骨が割れているのは歴然であり、
尿酸値はそれほどでなく、医師から痛風でなく骨折を宣言される。
痛み止めを飲み湿布をはることで、歩るこうと思えば歩けるのが幸いである。
5月28日-29日は赤岳行が控えている。
一週間あり、なんとかなるだろう。
3月末に入札に破れた結果、学校警備の仕事は終わった。
4月に新しく某市営の競艇場の警備の仕事に就く。
極端な話、酔いどれギャンブラー相手の警備の仕事であり、
そこにいることに疑問を感じてしまい、
4月末に1ヶ月でその仕事を辞める。
登山資金かせぎの勤務であり、学校警備はよかった。
土曜日曜祭日が休めて、さらに夏休み秋休み、冬安ね、
春休みがあり、登山に行けた。
ところが競艇場は土日が稼ぎ時であり、
勤務が不規則であり、
登山の日程が組めない難点もあった。
ここにはない、なにか外にミッションがあるのではないかと思った。
そのミッションを捜すためいろいろと本をよんだり、
ネットで探索したりしている。
5月01日市の広報にアルコの新会員募集の記事が載る。
電話番をする。
70才の女性から最初の電話があった。
アルコは平均年齢62才を理由にお断りする。
72才の男性二人からも電話あるがお断りした。
65才までとして応募を待った。そのあと、
女性からの問い合わせが連続した。
入会案内も送った。
1名からはお試し山 行参加の返事をいただいた。
さらにということで待ち受けているが、いまのところまだ返事はない。
なにかミッションがあるはずであり、これからは、その探索の日々だ。