goo blog サービス終了のお知らせ 

GABIBOの山日記 パピプペポ

歩き登った登山/ハイキング記録

世界文化遺産 熊野古道 小辺路(こへち)を歩く

2014年05月20日 | 登山
世界文化遺産/熊野古道/小辺路(こへち) を歩く

平成26年5月13日(火)から平成26年5月17日(土) 車中泊含め5泊6日



ハイキングクラブ アルコの仲間6人と歩く。


熊野古道とは、
神々の座す国、熊野三山/熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社 へのルートとして1,000年以上歩き継がれて来た路であり、紀伊路、伊勢路、大辺路、中辺路、小辺路、大峰奥駈道などを含め総延長755㎞と言われ周辺遺産とともに2004年に世界文化遺産に登録された。

今回辿る小辺路は、そのうち熊野三山に至る路としては最短距離72㎞で高野山と熊野三山を結ぶ路として歩かれていた。


平成26年5月12日(月)

「はなの舞」にて出発式後、昭島駅南口22:33発→夜行高速(南海)バス→大阪

 5月13日(火)晴れ

6:55着/南海なんば高速タ-ミナル/南海難波駅7:33発→極楽橋→ケーブル→9:15着/高野山→バス→千手院橋バス停→高野山→金剛峯寺→小辺路

9:35小辺路入口→10:00薄(すすき)峠→11:10丁石(昼食)→11:55大滝集落→高野龍神スカイライン→12:55/水ヶ峰入口→132:45東屋→14:25平辻→15:15大股→15:35かわらび荘

 慌ただしく高野山に至り、空海が起こした高野山真言宗総本山 金剛峯寺を見学する。空海の創立なる真言宗も時代とともに分派し、いまや18の真言宗があり、それぞれが総本山を構えていると言うことであり、ここは高野山真言宗総本山ということである。本日は参詣者もすくなく静かな立たずまいである。本来であれば、この高野山の宿坊に一泊して世界遺産高野山全体を見て回りたいところであるが、金剛峯寺だけで去るこことした。

9時35分千手院橋バス停よりいよいよ高野熊野参詣道「小辺路」に入る。熊野三山信仰とは無縁であるが、観光、名所旧跡、登山、ウオ-キングを目的として歩き始めた。

 私達以外に先行する単独行者がいるだけでここはまた静かなスタ-トを切る。しばらくは尾根道を辿る。見晴らしもいい。初めて訪れる地だけにいろいろと好奇心を燃やす。しばらくはほとんど平坦な尾根道が続く。雰囲気が変わったのは薄(すすき)峠に至ってからだ。

 ここから急な下りとなる。なんと谷底に当たる御殿川橋まで下りに下り、谷底から再び登り返す。登り返しが厳しい。小辺路は参詣道である前に生活道としても使用されていた道であるが、現代人である私たちから見るとほとんど登山道そのもので決して楽ではない道である。

 大滝集落を過ぎて、小辺路は一変する。高野龍神スカイラインの車道を歩くことになり、さらに、その先ではタイノ原林道を歩くことになり、いずれも小辺路はそこでは崩壊していてやや味けない思いをする。

 本日の終わりである大股に至り、出迎えを受け、本日の宿「かわらび荘」に入る。まずすることは野迫川(のせがわ)温泉に入り汗を流すことだった。温泉が有り難い。東京から夜行バス、電車に乗り継いで、また歩くということで疲れた身体に温泉が有り難い。かわらび荘の心づくしの「おもてなし」を受け宴会はお酒、お酒で盛り上がる。


 そこの大女将から、「小辺路の道をつぶして高野龍神スカイライン、タイノ原林道が作られたのは世界文化遺産登録の5年前でした。大変残念なことをしました。」ということであった。


 5月14日(水)晴れ
朝食6時/かわらび荘/7:00→7:10大股→8:00萱小屋8:10→9:00桧峠910→10:30伯母子岳10:40→伯母子峠→11:30/上西家跡/12:00→12:55水ヶ元茶屋跡→14:30三田谷橋→15:05農家民宿「やまもと」

 大股から萱小屋跡(現在は避難小屋が建てられいた。)にかけては急登、急登である。登山としてもきついクラスに入る。本日は日本200名山、伯母子岳に登ることも予定している。

 急登りを終えて、自然林に囲まれた尾根路を辿れば、やがて桧峠である。さらに行くといよいよ伯母子山1,344㍍に立つ。360°の展望とはこのことを言う。紀州の重畳たる緑濃い山並みが果てしなく広がる。高山ではないが広いおおきい奥深い山また山だ。十津川の谷を隔てた向こうは大峰山脈、のこぎり状の峰は大峰山奥駈路であろうか。さらに、その先は大台ヶ原だ。なんと広大な眺めだ。密林と山また山だ。

 伯母子峠は自然林、原生林にかこまれた峠であった。ここから今思い出しても鮮やかな彩り濃い思い出となる、緑、新緑、深緑の林であった。そして時折ツツジの紅と赤で心癒される、いつまでもこの森の中を歩き続けたいと思う。それが1時間も2時間も続く。楽しい、来てみて良かったと心より思えた時だ。

 小辺路の宿といわれ往時は盛んであった旅籠「上西家跡」も、深山の中、これほどまで広い台地があろうかと思える広さであった。展望が開けており、こんなところに山小屋を建てても良いなと思う。水田も往時はあったとのこと。

 ここからは 緑とツツジを交えて辿る道には水ヶ元茶屋跡であるとか、侍平屋敷跡とか1時間くらいのところに昔の小辺路の暮らし跡が転々としていた。

 小辺路は緩やかに下り、平家の落ち武者伝説のある五百瀬(いもぜ)の二田谷橋に出て、今日の宿、「農家民宿やまもと」の迎えを受ける。今は車で往来する開かれた土地であるが、昔は陸の孤島でも会ったろうか、静かで穏やかでゆったりとした集落である。

 汗を流し、「やまもと」のご夫婦の「おもてなし」を受け、また宴会、酒浸りである。宿のご主人が十津川村議員であることからいろいろと話もあったが、酒の上 夢うつつであり多くを覚えていない。


 5月15日(木) 曇り
朝食6時/やまもと/6:50→船戸橋→7:40吉村家跡→8:30三十丁の水8:35→9:15三浦峠9:30→9:50/古矢倉跡9:55→10:15/出店跡→11:15/矢倉観音堂/11:45→12:30/西中バス停/14:020→14:45/十津川温泉やまとや

 今日の小辺路は三浦峠1,080㍍越えである。また急登で始まった。夜半 雨が通過していった。霧が山腹を巻いてあがる。ツツジが赤く緑が濃い。急登であり汗が噴き出す。水が欲しいところで。三十丁の水に遭う。昔の旅人も飲んだであろうわき水を飲む。

 今日は3日目であり、多少疲れもあるか、あるいは毎晩の呑みすぎであるのか、五百瀬から標高差700㍍ある三浦峠まで身体が重かった。

 峠からは比較的細い道を下る。ところどころ急なところもあるが、旧跡矢倉観音堂で昼食とする。今日はゆっくりゆったりと行こうと昼食に十分時間を取り、西中のバス停に下る。

 今日は十津川温泉泊りであり、温泉が楽しみである。しかし、西中から小辺路は崩壊していて車道となる。車道を2時間もあるくのでは返って身体に悪いと理由付けして、ここはバスでつなげることとした。バス停の酒店「田の岡」で座敷にあがりくつろぐ。「おもてなし」は小辺路ではどこでも暖かい。

 十津川温泉「やまとや」はお客さん「ほったらかしの宿」であった。しかし温泉は良かった、総桧造りの源泉掛け流しであり、疲れは取れた。ここはここの「おもてなし」があり、都合30畳の大広間は開放感があり、それはそれでくつろげた。

 5月16日(金)
朝食7時/やまとや/7:30→7:45/果無(はてなし)入口→8:20/果無集落→8:55/天水田跡→9:30/観音堂/9:45→10:15/果無峠→11:15/三十丁石→11:30七色集落→12:05/道の駅熊野古道ほんぐう/12:05→14:20/熊野本宮大社/15:20→那智駅→17:40那智美滝荘→那智滝→21:30就寝


 ここも例外なく小辺路は急登で始まり、今日は果無(はてなし)峠1,114㍍を目指す。往時、旅人相手の茶屋があったという果無集落まではきつい石畳の登りであった。石畳の道は滑りやすい、あまり歩きやすい道ではない。石畳の脇を登る。それの方が歩きやすい。

 果無峠は風か強く寒いくらいであった。この果無峠をもつて、小辺路のすべての峠を越えてきた。あとは熊野本宮大社に下るだけである。下りは急であり、石畳道であり、滑りやすい。石組が崩れていて歩きにくい。ところどころ今が盛りの石楠花が群生しているところがあり、目を楽しませる。

 疲れもあり、今日、これから熊野本宮大社に出て15時20分のバスに乗り、熊野那智大社まで行かなければならないため時間的に急ぐ必要もあり、気ぜわしい下りとなる上、危険ですらある石畳が続く。

 結局、ショ-トカットし七色分岐から七色集落のバス停に降り、車道4㎞を熊野本宮大社に急ぐ。
熊野大社途中新道が出来ていて迷い、全く方向違いをいくところであったが、仲間の機転で正しい方向を取り、道の駅にて遅い昼食をとり、さらに平石から再び小辺路に入りようやく熊野本宮大社にたどり着いた。
 
 熊野三山を代表する熊野本宮大社は明治22年の水害に遭って流失する前は熊野川の中州に遭ったと言うことであるが、現在は里山の中腹にあり、荘厳な様式美、形式美をそなえていて自ずから頭が下がる。往時の人は多難な旅を終えてたどり着いた熊野本宮大社に参詣できてどれほど感激したことであろう。


 
 現代の装備と体力を持って小辺路を踏破してみたが大変厳しい道のりであり、往時の参詣人は強い信仰心があって歩ききったと思われる。しかも往復にこの路を利用するとなると多難であり、本当に敬意を表せざるをえない。

 熊野川は荒れ川であり、水害の歴史は半端ではないという。走るバス道路のはるか上まで、洪水があふれ水没して機能不全に陥って廃業に追い込まれた会社も多数あると言う。川は広いが川から立ち上がる断崖は急であり、いくつもの滝がかかる。布引の滝とか、裏見のたきとか走る車窓から豪快な滝がかかっていた。


 本宮大社からバスにて那智駅経由、熊野那智大社の近くの宿「美滝山荘」に入る。
その夜、名瀑那智の滝133㍍がライトアップされめったにない光景を目にすることが出来たのは幸運であった。


 5月17日(土)晴れ
 5時起床 熊野那智大社→那智山青岸渡寺→那智飛龍神社→那智の滝→朝食7:00/美滝山荘/8:10→大門坂9:16→勝浦駅10:00→新宮駅→10:45熊野速玉神社11:00→新宮駅→南紀ワイドビュ-→名古屋駅→東京駅→昭島駅

 熊野三山巡りの内、これまで熊野本宮大社、熊野那智大社を訪れることが出来た。熊野三山の内、残る熊野速玉大社は残念ながらパスせざるをえないかと思っていたが、朝5時起床し熊野那智大社、青岸渡寺と那智飛龍神社と那智の滝を巡ってしまい時間的に余裕があることから、バスの運転手の教えに従い新宮から熊野速玉大社にいくことが出来た。
 
 熊野信仰は古来 修験道の修行の地として始まり、やがて平安時代後期ともなると3社それぞれの神が共通の祭神とされるようになり、さらに神仏習合へとすすみ熊野本宮大社の主祭神 家都御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来、熊野速玉神社の熊野速玉男神は薬師如来、熊野那智大社の熊野牟須美神は先手観音とされ絶大な信仰を得た。平安時代には歴代の上皇の参詣が多数回行われたといわれる。

 小辺路は熊野三山参りが目的で開かれた庶民のための道であるが、なんと私たちも熊野三山をすべて訪問することが出来た。ある人は敬けんな祈りをささげ、ある人は歴史の一面を見て往時をしのび、ある人は登山と観光を堪能した5日間であった。

  参加した仲間に感謝、天気に恵まれ感謝、感謝!!!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玉山と雪山

2013年12月12日 | 登山
 今年2013年10月23日に台湾の玉山3,952㍍に登頂し、25日に雪山3、886㍍に登頂した。

現地女性ガイド(登山指導員)付きで登った。よく整備された登山道であり、富士山より高い山であっ

たが、快晴にもめぐまれ快適な登山を行うことが出来た。

玉山と雪山の登頂証明書をいただいた。

            

            


以下はWikipediaによる。

玉山(ぎょくざん、ユイシャン、ピンイン:Yù Shān、ウェード式:Yü Shan)

、旧称新高山(にいたかやま)・モリソン山(Mt Morrison)は、台湾のほぼ中央部に位置する山。標高は3,952mと台湾で最も標高が高い。周囲は台湾自然生態保護区となっている。また1985年4月6日には玉山を中心とした約10万haの範囲が玉山国家公園に指定されている。


歴史[編集]
台湾原住民のツォウ族の言語では「パットンカン(pattonkan、石英のこと)」 と呼ぶ。清代初期の文書によれば「八通関山(パットンカンの音訳)」、「雪山」と呼んでいた。欧米では、商船主・モリソン(W. Morrison)が報告したことから「モリソン山」と呼ばれた。日本統治時代には明治天皇により富士山よりも高い「新しい日本最高峰」の意味で新高山と名づけられた。しかし皮肉にも台湾で最も遅くまで日本に抵抗したのは新高山の周囲に住むブヌン族の「郡蕃」と呼ばれる一群であり、新高山南面の荖濃渓上流部は1933年になってようやく日本の実質統治下に入ったが、1932年には南方の大関山駐在所が襲撃され、日本人警察官3名が殺害された(大関山事件)。1934年には東方のラクラク渓上流部で日本人警察官が殺害された(玉里事件)。また1941年にははるか南方の北糸䰗渓畔の駐在所が襲われ、日本人警察官ら3名が殺害された「内本鹿事件」が発生するなど、新高山周辺では終戦にいたるまで日本人側からは「蕃害」と呼ばれたブヌン族による抵抗運動が多発した。

富士山の標高3,776mよりも高いことから、日本の台湾領有期には日本一標高の高い山として知られ、日本の学校でも「日本一の山」として教えられていた。また1937年には新高阿里山国立公園として日本の国立公園に指定されていた。


玉山を題材にした水墨画。那須雅城『新高』、1929年1941年12月2日に発令された日米開戦の日時を告げる海軍の暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」のニイタカヤマとは当山のことである。

第二次世界大戦に日本が敗戦し、台湾の領有権が中華民国に移る際に現在の名前に戻された。その後は重要な軍事拠点とされ入山には政府当局の許可が必要であった。なお民主化以降も一部の観光地を除いた地区の入山には許可が必要である。しかしこれは自然保護の観点からであり、事前に申請を行えば民主化以前に比べれば容易に入山する事ができ、観光ツアーもある。

初登頂[編集]日本の人類学者、鳥居龍蔵は1900年4月11日、台湾調査の傍ら、この山の登頂に成功した。異説はあるものの、記録上これが玉山初登頂となっている。

標高[編集]標高は公式には3,952mとされるが、1995年と1999年の衛星測量では、ともに3,978mと計測されている。また、日本統治時代は3,950mとされていた。3,997mと計測されたこともある(1957年、アメリカ遠東陸軍製図局による計測)。

アクセス[編集]かつて玉山へつながる道は、清代に作られた八通関古道、日本統治時代に理蕃政策の一環として作られた八通関越横断道路などの細い山道しかなかったが、1991年に台湾中南部を玉山国家公園内を横断する新中部横貫公路が開通すると、交通の便は飛躍的に向上した。



雪山
標高 3,886 m 所在地 台湾 苗栗県・台中市 位置 北緯24度23分00秒
東経121度13分48秒座標: 北緯24度23分00秒 東経121度13分48秒
山系 雪山山脈
初登頂 沼井鐡太郎 1928年

拼音: XuěShān
注音符号: ㄒㄩㄝˇㄕㄢ
発音: シュエシャン
テンプレートを表示

雪山(せつざん)は台湾の山。雪山山脈にある台湾で2番目に高い山。標高は3,886m。旧称次高山(つぎたかやま)・シルビア山。

歴史[編集]漢民族により「玉山」・「雪翁山」・「雪山」、台湾原住民により「マハマヤン」、西洋人により「シルビヤ山」などと呼ばれていたが、日本統治時代の1923年、台湾に滞在中の摂政・裕仁親王より、台湾領有当時の「日本最高峰」新高山の次に高い山の意味で次高山と命名された。

第二次世界大戦に日本が敗戦したあと、中国大陸から移ってきた中国国民党政府によって現在の名称である雪山に戻された。

初登頂[編集]日本の登山家・沼井鐡太郎が、1928年にこの山の登頂に成功した。しかし、一部では1927年に瀬古喜三郎が初登頂したといわれている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八が岳 朝映えする阿弥陀岳

2012年10月31日 | 登山


10月20日-21日
久しく遠ざかっていた赤岳に登ってきました。
文三郎尾根を登る途中、阿弥陀岳が朝映えしていました。、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三国峠から大源太山

2011年10月28日 | 登山

所属するハイキングクラブ アルコの仲間15名にメンバ-の一員として加わり、大源太山を登ってきた。


山行日 平成23年10月23日(日)曇り

三国トンネル9時15分-三国峠9時57分-三国山11時15分-三角山13時-大源太山14時
-三角山14時20分-淺貝16時15分 所要時間 ゆっくりペ-ス7時間



三国街道三国トンネルの新潟側の出口から三国峠に向かう。
もうこの辺りは紅葉がおわっているのか、
ところどころ紅葉が散見されるだけである。




程なく三国権現であるのか、御坂神社のある三国峠に至る。
越後と関東を結ぶ三国街道の難所であったという三国峠は今は全く静かである。

往時、ここを通過したであろう人々の名前が刻まれた石碑があった。
参勤交替の大名、幕末動乱の時の人々。
僧侶、歌人などなどの名が列挙されていて興味深い。




三国峠から三国山にかけては木造の階段を登る。
急な登りである。
今日は曇り空であり、展望が利かない。
黙々と登る。





三国山山頂にてしばし休憩である。
今日はリ-ダ-でなくメンバ-として参加する。
気楽であり、最近、志をきめた山の写真撮りを試す。
バチバチ撮ることにする。
最後を歩くサブリ-ダ-にとっては迷惑であったろう。

三国山から三角山までは尾根歩きとなり、アップダウンを繰り返す。
紅葉の時期だと言うのに汗がしたたる。
すこしも寒さを感じない。
この気温では紅葉もすすまないのか、山全体はくすぶった紅葉であり、
メリハリがない。

三角山にて大源太山の全容を見る。
丸いおだやかな山容である。

三角山から大源太山を往復する。

岳樺だろうか、群生していて、それなりに見せる。

小一時間で三角山に戻り、淺貝めがけて急斜面を下る。


所々の紅葉が目を引く。
シャツタ-を幾度も押す。






下に下れば下るほどめを引く紅葉が増えてきて楽しい。



淺貝に下るとすでに4時過ぎであり、温泉にも入らず帰路を急ぐ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恵那山 2,191㍍

2011年10月10日 | 登山
馬籠 妻籠観光と昼神温泉と恵那山

所属するハイキングクラブ アルコの仲間13名とと恵那山に行ってきました。
体力があれば夜行日帰りが可能であるが、途中 馬籠津籠観光を入れて、昼神温泉で一泊し、
恵那山を登ってきた。


10月8日(土)晴れ
神坂PAから馬籠宿を通り妻籠宿への9㎞ハイキング

誰かの発案で中央高速神坂PAにてマイクロバスを下車、脇の扉を開けて1
1㎞先の馬籠宿へ行く。

いろいろと宣伝されていてよく知られた馬籠宿であるが、中々の賑わいであり人、人である。
坂道の石畳の両側には往時をしのばせる旅篭が並び本陣、脇本字なども復活していて、昔の木曽路を彷彿とさせる。
ゆっくりと見て歩くも1時間とかからない。
すぐに宿の外れの展望台に至る。ここから明日登る恵那山2191㍍が大きく見える。迫力がある。

ただ馬籠宿を歩いただけではただの観光であるが、アルコの山行であり、
馬籠峠を越えて妻籠宿へ向かう。中仙道のうち木曽路では11宿あったとのことであるが、
そのうちの馬籠から妻籠間は8㎞であり、
むかしの足腰の弱い人にとっては難儀な道であったろう。

今日の私たちは気楽に歩く。時折、休憩所になっているところから木曽節が流れてくる。
途中で入ったそば屋でも亭主が客席に出てきて木曽節を謡う。
ビ-ルで酔っていたので手拍子をうつ。やはりここは木曽路だ。

妻籠宿も人、人だ。江戸時代に戻って9㎞を歩ききり、マイクロバスに乗った。

今回は温泉もテ-マであり、昼神温泉に向かう。
中京圏では知られた、大きな温泉街に着く。
久しぶりにゆっくりと温泉に入る。
くつろぐ間に日本酒一升瓶が空になる。
今回は尾張旭市の保養センタ-にお世話になったが、食事もよく、満足して就寝。

10月9日(日)晴れ
恵那山広河原コース
 
 長野県側のコースであり、最短コースということもあって、
登山口駐車場は車で満杯状態であり、9日も駐車場及び道路脇に数十台駐車していた。

5時半出発。登山口の駐車場から6時15分歩き出す。
30分林道を歩いて6時45分本谷橋をわたり、尾根末端の急登を行く。
ここは通常なら大汗とともにバテル所であるが、今日は寒いくらいであり、
汗もかかずに登る。1時間半でようやくゆるやかな尾根道となり、
労苦から解放されてゆったりと登る。

樹林帯を出て明るい尾根を歩く。


岳樺の白が目立つ


やがて展望が開け南アルプスの3,000㍍峰がずらりと並び壮観だ。
仙丈岳、北岳、間の岳、濃鳥岳、すこし離れて塩見岳、荒川岳、赤石岳、聖岳とよく確認できた。

うしろを振り返れば中央アルプスの山々も見えた。
登るほどに上部は紅葉も始まっていて目を楽しませてくれる。
10時すぎに約4時間で山頂にたどり着く。
山頂周囲は紅葉で華やかである。が、

頂上の紅葉



頂上展望台より北岳を撮る


展望台に上っても山頂からの展望がないのが恵那山の唯一の難点だが、
樹林のわずかな隙間から南アルプスの北岳が撮れる。
また深い樹林で保護された山頂の雰囲気はいい。
11時前に往路を復路として下山する。午後2時前には全員無事に下山し、
また再び尾張旭苑にて入浴し、帰路についたのは4時頃であった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成り行きで登ってきた日本百名山

2011年10月03日 | 登山
成り行きで登ってきた日本百名山

南アルプス悪沢岳(荒川東岳)3,141㍍に2011年9月27日登った。
これで百名山すべてを消化した。

百名山を意識はしていたが、それ一本で来たわけではない。
本当にその時々の成り行きで登ってきた結果であって、
最初から百名山に的を絞っていたわけではない。

百名山だけにこだわって登っていたら、2年から3年あれば
遅くとも10年あれば百名山は登れるでしょう。

1953年、中学3年生の正月、雲取山に登っていたし、
高校1年の夏、北岳に登り、以降、岩登りに目覚めて、
八ヶ岳、谷川岳、奥穂高、剣岳の岩場を登っていた。

その後、深田久弥の「日本百名山」が1964年新潮社より出版されている。
そのころは読んだこともない。しかし、百名山はしずかにブームになりつつあった。

そして中高年が確かな目標として百名山を目指し始めたのは、
94年から95年にかけてNHK衛星第二テレビで百名山が取り上げられたころからだろう。
そしてさらにNHKの教育テレビで趣味悠々で百名山が再び大きく取り上げられた頃から
山好きな中高年の格好な目標として百名山がブームとなった。

南、北アルプスを中心に山登りを続け約50山消化したころ
99年10月ハイキング クラブ アルコを立ち上げていた。

その1年後、定年を迎え、目標としていたヒマラヤ登山に出かけた。
百名山よりヒマラヤ登山を早くから考えていた。
国内の山である百名山はいつでも出来る。しかし、ヒマラヤとなると
いつでもできるという訳にはいかない。

まず、ロープワークという技術に加えて冬山経験など総合力を試される
ヒマラヤ登山は出来るだけ早くに行っておかなければならないという思いがあった。

エベレスト街道を歩き、壮大なヒマラヤの高峰に触れ、
世界第1の高峰エベレストと世界第3位のロ-ツェに率直に感動し、
ロ-ツェの巨大な岩壁を見ながらシェルパとともに
アイランドピーク6,189㍍(現地名 イムジャ ツェ)に登った。

以降、アルコの活動が主となり、百名山はほとんど行けなかった。
アルコの活動で百名山にいけないところを
若き岳友NAKAJIが個人山行で彼の車に便乗させてくれ、
20山ほど消化し、またアルコの例会山行でも10山ほど消化するにつれて、
勢いがついてきて、BE-CHANとペアを組み東北地方など10山消化し、
ようやく90山となり、今夏、北海道9山、最後は悪沢岳を残すのみとなり、
これも9月27日消化して100山を終えた。

悪沢岳が最後となってしまったのは南アルプス主脈縦走で
北岳から光岳まで8泊9日の4日目に小河内岳にて濃霧で道迷いをしてしまい、
体力消耗し、荒川中岳から悪沢岳の往復が出来なくなってしまい、
荒川小屋に向かってしまったことから一つだけ残してしまった。

この顛末は紀行文として某業界の協会報99年11月号に掲載される幸運もあり、
忘れられない出来事でした。

ということで、これまではアルコの例会が主であり、百名山は従であったが、
それでも何とか百名山を終えたが、中学3年の雲取山から数えたら
50年以上かかっていることになる。

結局、百名山をすべて終了することになったが、
百名山だけに集中すれば早くて2ないし3年、
遅くとも10年あれば消化できるところを成り行きまかせにした
結果50年以上かかったことであり、誉められたことではない。

ただ、百名山を登っての感想としては、
山登りしながら、日本全国、南は屋久島から北は利尻島までの
地方の風土にふれ、
個性ある山に登れたことは意義のあることだったと思います。

しかし、百名山の大半は一期一会の山であり、
自身のロケ-ションから考えたら、北、南アルプスとか、八が岳とか、
奥武蔵、奥多摩などの
山々を深く、密度濃く訪れることは必定であり、
また、再びなじみの山をどんどん歩きたいと思う。

もう200名山とか、300名山とかを意識して追わない。
名山というブランドにこだわるのではなく、
本当に登りたい山に登ることに徹していきたい。

山を本当に楽しむには行きたい山に登るに限る。

そして山岳写真の一枚も撮れたらいいかなと思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪沢岳 3,141㍍

2011年09月30日 | 登山

           日本百名山をすべて今年中に終わらせようと、8月は北海道内 日本百名山9山を消化し、
          9月27日は百名山最後の南アルプスの悪沢岳(荒川東岳)に登り、100名山をすべて消化した。
          
          天気は登るほどに好天し、頂上では360度の展望が得られて幸運だった。              


           赤石岳
           

           悪沢岳(荒川東岳)山頂にて100名山終了
           


           荒川岳 中岳 3,083㍍           
           


           赤石岳と、その裏は 聖岳3,013㍍
           


           塩見岳3,047㍍と、その裏は仙丈ヶ岳
           


           甲斐駒ヶ岳2,967㍍と間ノ岳3,189㍍
           
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

越後三山 八海山 1,776㍍

2011年09月20日 | 登山
所属するハイキングクラブ アルコの仲間と越後三山 八海山に行ってきました。
八海山ロープウェイに乗ったのが9時40分、歩き出したのが10時ではあまりに遅すぎた。
頂稜の八つ峰は一部の仲間が地蔵岳に登っただけである。
八つ峰は好天をねらって、少人数で、ロープウェイの一番に乗り、
余裕をもって登りたいものである。


9月18日(日) 越後三山 八海山1,778㍍

参加者

1班 L GABIBO  SL寺チャント
ミ-タン、キョンキョン ココシャテル、すみちゃん のんこ 

2班 Lヤベッチ SL としちゃん
めんごチャペ   ユ-ミン
NORICHAN ふるふる 柚子 

3班 L BEA SL GO
グッチN す-ま-  ペコチャン
O-KEI クラウド&ナグ 

以上22名

台風15号が秋雨前線を刺激し、日本海の佐渡島に大雨警報が出ている。
佐渡島と同じ新潟県にある八海山の天気は微妙である。秋雨前線が南下すれば大雨となる。
予報は前日の正午、曇り後雨であった。
実施すべきか、止めるべきか、決断するのにためらう。
しかし、決断しなければならない。
予報どおりだと午後は雨天山行となるかもしれないが、決行することにした。

18日午前1時ころの予報をネットでみると、
なんと晴れのち曇りとなっていて、好転していた。
ホッとする。
しかし、予報は外れることもある。油断しないでおくことにして寝付く。

18日朝、6時5分起床する。
しまった寝坊してしまった。
大慌てで家を出る。
リ-ダ-が遅れてはさまにならない。
6時25分に駅に出て、昼食をコンビで買い、
バスにのったのは出発直前であった。

車窓に広がる関東地方の天気はよい。
信越の天気はどうだろうか、予報通りであれば期待できる。
しかし、関越トンネルを出ないとわからない。
トンネルを抜けると晴れの空が広がっていた。
巻機山がはっきりと確認出来る。端正な姿だ。
そして八海山が見えてくる。
なんとか天気き持ちそうだ。
22名を雨天山行に巻き込まなくてよかった。感謝、感謝!!

9時40分発のロープウェイに乗る。
10時歩き出す。
フェーン現象なのか、猛烈な暑さである。
汗が吹き出る。この異常な暑さは体力を消耗させる。

女人堂から薬師岳への登りは岩場混じりとなり、
長い鎖場もあり、これが初級コ-スなの?という声もあるが、
悪場をこなして薬師岳の山頂に立つ。
すばらしい展望が広がる。
豪雪でなる越後駒ヶ岳2,002㍍が
気品ある姿で立つのに見ほれる。見飽きない。

八海山9合目とする千本檜小屋からは
八つ峰の最初の一峰、地蔵岳がそびえていて格好いい。
アルコの8名は地蔵岳に登る。

午後1時半、千本檜小屋を後にする。
女人堂にて体調悪かった2名をピックアップし、
下りのロープウェイに乗ったのは3時40分発であった。
八海山は黒い雲に覆われていて、たぶん千本檜小屋あたりは大雨だろう。
なんとか雨を回避できたのは好運であった。

五十沢温泉の「さくり温泉健康館」にて入浴し、
関越を走り出発駅についたのは9時20分頃であった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北海道  百名山登山 その13 羊蹄山 1,893㍍

2011年09月04日 | 登山
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北海道  百名山登山 その12 雌阿寒岳 1,499㍍

2011年09月04日 | 登山
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北海道 百名山登山 その11 羅臼岳 1,660㍍

2011年09月04日 | 登山
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北海道  百名山登山 その10 斜里岳 1,545㍍

2011年09月04日 | 登山
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北海道  百名山登山 その9 宗谷岬

2011年09月04日 | 登山
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北海道  百名山登山 その8 利尻岳 1,714㍍

2011年09月04日 | 登山
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北海道 百名山9山登山  その7 十勝岳

2011年09月04日 | 登山
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする