心の音

日々感じたこと、思ったことなど、心の中で音を奏でたことや、心に残っている言葉等を書いてみたいと思います。

横峯さくら選手の快挙に心から拍手です。その2

2005-04-23 10:33:47 | Weblog
 先日は初優勝、本当に良かったと思います。その前の週は最終日で逆転されて優勝を逃していただけに、今度こそはという思いも強かったことでしょうが、見事に快挙を成し遂げました。
 勝負の分かれ目は、テレビ等でお父さんがおっしゃっていた通り、17番ホールにあったようです。「ここは堅くパーをねらいにいこうとする」娘に、父は「弱気になるな、攻めよ。バーディーをねらえ」と指示したそうです。そして強気に攻めた結果、見事にバーディーを取り、父はこの瞬間、勝利を確信したそうです。
 「攻撃は最大の防御なり」という言葉を、改めて思いださせてくれるようなエピソードだと思いました。それと今朝の某番組でもやっていましたが、「ハングリー精神」を持ち続けている(お父さんがもたせている)ことが、成長の源であるというような気もしました。
 今週もいいスタートをきれているようです。海外のトーナメントにも出ることが確実だということで、「藍ちゃん」とともに、「さくらちゃん」からも、目が離せませんね。海外体験なども積み、大きくはばたいてくれることを、鹿児島から期待しています。

「北朝鮮に拉致された日本人を救出する会」事務局長平田隆太郎氏の話を聞きました。

2005-04-23 10:16:01 | Weblog
 平田氏は母校の鹿児島県立加治木高等学校の創立108周年記念式典の記念講演会で、後輩たちを前に、熱く色々な思いを語ってくださいました。
 自分が高校時代の時は、「とにかく無駄な時間を作らないように努めたこと」、「いい人間関係を作ることが大切であること」、「横の関係だけではなく、縦の関係を大切にすること」、「高校時代の学習が社会に出て、役立つことが必ずあるということ」などを自分の体験を交えながら話してくださいました。
 早稲田大学時代は、ちょうど安保闘争のさなかで、色々なデモや活動をしていくなかで、多くの人に出会い、数々の思想に触れられたそうです。反体制を唱えていた人達が、4年生になると、スーツを着て就職活動をし、大企業に入っていく姿などに違和感を感じ、「自分はこれでいいという生き方をしたい」と強く思った平田氏は、大学卒業後の1年が、生涯の中で一番本を読んだ時期だったそうです。その後、国際交流活動に携わり、1995年に初めて北朝鮮に行かれたそうです。北朝鮮に大洪水が起こり、食料が不足していたからでした。しかし平田氏は、米など、保存できるものは持って行かなかったそうです。なぜなら米など保存できる食料は、一部の特権階級のものになってしまうからということでした。そこで持っていったものは、保存のきかない「卵とバナナ」だったそうです。それらを持って行き、その場で子ども達に食べさせるのが目的でした。北朝鮮の子ども達は、それは小さく、やせて肌はざらざらで本当に気の毒な状況だったということでした。
 その後、拉致問題の話に移り、拉致の目的や現状などについて、わかりやすく話をしてくださいました。我々はこの問題に関して「本気で怒る」ことが大切だということを力説されましたが、本当にその通りだと思いました。
 日本に帰国した5人は、子供は北朝鮮におり、北からも一時帰国だと言われていたから、北に帰るつもりだったそうですが、故郷の友人たちが本気で怒り、そこで「愛情のある大喧嘩」をして、説得して、本当に勇気をふりしぼって帰らない決意をしたということでした。
 最後に平田氏は「良い友人を作るためには、良い自分を作らねばならない。常に自分を磨かねばならない」というようのことをおっしゃいました。後輩達に熱いメッセージを熱い気持ちで伝えてくださり、感謝の気持ちでいっぱいの講演会でした。本当にありがとうございました。

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語10(最終回)

2005-04-10 11:41:51 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(4月6日)を要約します。
1「とんぼ返り」
 シーズン最終戦でプロ初の1軍を経験し、おぼろげながら未来のビジョンが見え始めていた2001年。高知での秋季キャンプに参加した川崎は、震える足で先輩の前に立っていた。「来年の自主トレにボクも連れていっていただけないでしょうか」。勇気を振り絞った川崎の志願を目の前で聞いていたのは、当時のチームリーダー、小久保だった。
 翌年1月、鹿児島・奄美大島。先輩に必死に食らいつきながらハードメニューをこなす川崎の姿があった。初めて体感した小久保の背中。それは新鮮な驚きに満ちあふれていた。「一流と呼ばれる人の考えを知りたかった。小久保さんは風邪気味だと言いながら、決して手を抜いたりすることもなかった。練習も取り組む姿勢も、ボクにとって本当に勉強になることばかりだった」。
 14日、鹿児島県姶良町の成人式。前夜から1時帰郷の許可をもらっていた川崎は、式後、友人たちとの懇親会に出席するかどうか迷っていた。小久保には式が終わったら帰ると告げている。予定を一泊延期しようかとも思っていたとき、父・正継は諭すように息子に語りかけた。「どうして、小久保さんのもとでやろうと思ったんだ?」。ハッとした川崎はすぐに思いなおして出発の準備に取り掛かったという。
 「その日、奄美から電話で、お父さんやっぱり戻ってよかったよ、と言ってきました。空港まで迎えに来てくれた、夜はみんなでお祝いまでしてもらった。驚いた、うれしかった」と。プロとして、人間として、外から見ているだけでは分からないもの。日々の練習中に感じたことを書きとめておく「日記」をつけ始めたのも、小久保に啓発されたからだった。
2「48年ぶり・・」
 大収穫の自主トレを終えた川崎は、プロ3年目で初めて1軍の春季キャンプに抜擢された。開幕直前にファーム落ちしたものの、6月には1軍昇格。プロ初安打、初盗塁、初タイムリー・・と次々に足跡を刻んでいく過程で、忘れられない試練にも直面した。
 「もう2軍には戻らない」と決意して臨んだ1軍の舞台だったが、結果にとらわれるあまり打率は1割台をウロウロ。そんな時の大失態だった。6月29日の近鉄戦、王監督も首をすくめたチャンスでのバント失敗。三振からの「三重殺」は48年ぶり。屈辱を携え川崎は2軍に逆戻りした。背中に突き刺さったファンの悲鳴とベンチのため息。のしかかる現実を真摯に受け止めて、川崎は日記を読み返してみた。
 当時合宿所の寮長だった河埜敬幸(現2軍コーチ)は、それから後の川崎をこう述懐する。「消灯時間になっても練習場に明かりがついている。誰かと思って見に行くと、川崎だった」。試合があってもなくても、時間さえあれば河埜に「ノックしてください」と、申し出た。遠征に出れば、宿舎の廊下でボールを転がしてもらい捕球練習。野球と出合った幼少時代、自宅の前で壁当てに夢中になっていたころと同じ、ただうまくなりたい思いだけが体を突き動かした。
 試練の夏を超え、やがてダイヤの原石が本物の輝きを放つときがやってきた。8月、秋山幸二(現2軍監督)が引退を表明。時代は新たなスターを欲していた。そんなタイミングを待っていたかのように、21歳の新星は勢いよく飛び出した。
3「聖地で頂点」
 すでにV奪回が絶望となっていた9月。レギュラーの井口が右肩手術で離脱すると、王監督は翌年を見据え真っ先に川崎を呼び寄せた。日記にも書いてあった小久保の教えを忠実に実践して、シーズン終了までの24試合で打率263.コツコツと努力を重ねてきた成果だった。
 「もう3年目ですから。そろそろ1軍に定着しないとヤバい。危機感を持ってやらないといけません」。入団直後の挫折、2軍で流したドロまみれの汗、先輩の教え。すべてが体の中に染み付いているからこそ自然に出てくる言葉だったのだろう。募る危機感はエネルギーとなり、男はついにスターダムの階段を駆け上がった。
 2003年10月、阪神との日本シリーズ。川崎は満員の観衆で膨れあがった甲子園のグラウンドに立っていた。文集に「夢はプロ野球でおもいっきりプレーすること」と記した小学生のころ。高校時代は「聖地・甲子園」に目もくれずプロの夢だけを追い求めた。鹿児島ではテレビ中継のなかった第7戦、電話で「日本一」の一報を受け取った父・正継と母・絹代の目には、次々に涙があふれてきた。
 祖父・正則から一字をもらって授けられた「宗則」という名。「宗」には「天下を取る」との意味が込められているという。「今日がよくても明日は分からないのがプロの世界。そのことを肝に銘じた上で、これから先も謙虚に野球と向き合っていきたい」。果てしなく続く道のりに、さらなる物語が待っている。(山本泰明氏の記事より)

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語9

2005-04-06 22:16:30 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(3月30日)を要約します。
1「故郷で活躍」
 1999年3月、鹿児島工業高校。プロとして初のキャンプを終えた川崎は、卒業式に出席するため一時帰郷した。最後の学生服姿でクラスを代表して受け取った卒業証書。パシャ、パシャとフラッシュが光った瞬間、暗い気分も吹っ飛んだ感じがした。
 ドラフトでホークスに指名されてから3ヶ月あまり。自主トレ、キャンプで痛感した体力差にがく然となり、教え子がかつてない壁にぶつかっていることを担任の田中健司も知っていた。
 壇上で、校長からクラス40人分の証書をまとめて受け取る「総代」。川崎がキャンプでドロまみれになっているころ、仲間達は誰が言い出すでもなく話をまとめていた。「ムネに受け取ってもらおう」。
 挫折を知らない友から口々に「頑張って」と声をかけられ、どこか救われたような気がした卒業式。そんな故郷のぬくもりには、プレーで答えるのが一番だ。7月、鹿児島県阿久根市で行われたウエスタン・リーグ阪神戦。チームでただ一人2安打を放ち、スタンドに駆け付けた約2000人の応援団を熱狂させた。自分のプレーでファンに一喜一憂してもらえる。夢を与えられる。そんな事実を体感できたことがうれしかった。
2「主力と参加」
 キャンプでは貧弱な体を見られたくなくて、入浴は常に最後。部屋に戻れば思いつめたように壁に向かって座っていた。そんな様子を伝え聞いていた両親には、今、目の前ではつらつと動き回っている姿がうれしかった。
 将来のスター候補生。技術的、肉体的、そして精神的な未熟さも踏まえた上で、2軍首脳陣は試合で使い続けた。「まだまだ1軍には遠かった。ただ非力でもバットに当てるセンスはあった。野手の上は越えていかないが、このまま鍛えていけば・・」と。荒削りなプレーには課題も山積していたが、この年、ウエスタン・リーグで打率3割、打撃ランキング5位に入った19歳に、1軍の首脳も熱視線を注いでいた。11月、川崎はチームの主力とともに、高知での秋季キャンプに参加することが決まった。
 精神的なショックもあった1年目、川崎は夏場に肝臓を悪くしていた。そのことを聞いていた1軍内野守備・走塁コーチの森脇浩司はキヤンプに帯同させるかギリギリの判断を迫られたという。が、のんびりしてはいられない。将来のチーム像を考えれば、現われた逸材を黙って放っておくことはできなかった。
3「来季へ希望」
 森脇の組んだメニューはハードだった。不安の残る体調、スタミナ不足も承知の上で、あえて厳しい練習を課した。その中で森脇が感じたことがある。「ただやるだけではない。向かってくる姿勢を感じた」
 怒とうの流れで過ぎていった1年目。プロ入り時に64キロしかなかった体重が、気がつけば4キロも増えていた。2年目、ウエスタン・リーグで29盗塁を記録し「足」も注目を浴び始めたころ、待ちに待ったお呼びがかかった。9月30日のことだった。「明日から1軍だ。神戸に来るように」。昇格を知らせる電話だった。すでにチームは来年のV奪回を見据えた準備に入っている。チャンスを生かさない手はない。10月3日、オリックス戦。この年の最終戦で「2番遊撃」でスタメン出場した川崎は、残念ながらプロ初安打を記録することはできなかった。が、思いはさらに強まった。
 「来年は絶対1軍でやるつもりだから」。試合後、電話で両親に誓った20歳の約束。あどけなさの残る横顔が確かな輝きを放ち始めていた。(山本泰明氏の記事より)

神村学園、初出場初優勝に王手ー春の選抜高校野球(甲子園) 

2005-04-03 17:30:32 | Weblog
 甲子園初出場の神村学園が決勝進出を決めました。エースの野上投手は連投で昨日の直撃を受けた足も心配でしたが、見事に散発4安打で完封。バックも主砲の天王寺谷の3塁打などで援護し、見事に決勝に勝ちあがりました。鹿児島県勢は9年くらい前に鹿児島実業が優勝して以来、久しぶりの快挙です。
 長澤監督は、女子ソフトで全国でも、オリンピックでも名を挙げた人物ですが、高校野球でも夢を追い求めて転進した情熱家です。彼を慕って関西からも入学した生徒達は、1年のころは特に練習をする環境などにも恵まれていなかったようですが、それらの苦労や努力が実った末での快挙に心から拍手です。
 明日は名門愛工大明電高校ですが、思いきり自分達の力を十分に発揮し、昨年の済美高校のように創部3年目での全国制覇を目指して、頑張ってほしいと思います。