心の音

日々感じたこと、思ったことなど、心の中で音を奏でたことや、心に残っている言葉等を書いてみたいと思います。

プロ野球パ・リーグ開幕戦の日本ハム戦をヤフードームで見ました

2005-03-28 22:31:48 | Weblog
 待ちに待った開幕戦。妻がチケット発売日の2月25日の10時に、近くのローソンでやっとのことでチケットを買いました。あっという間に完売したというチケットを手に、家族4人で福岡へ。
 朝6時半に鹿児島の家を出て、高速道路を走ること約3時間で、今日の宿泊先、福岡ガーデンパレスに到着。車と荷物を置き、地下鉄でヤフードームへ向かいました。唐人町で下車して、すぐ曲がると、先にヤフードームが見えてきました。歩いている途中に多くのダフ屋がいて、「チケットのあまり買うよ」という言い方などが面白いと小5の娘が言っていました。着いたのは10時45分ごろでしたが、すでに多くの人が来ていました。まず本日もらえるグッズをもらいに行きました。大きな黄色いビックリハンドと、暗いところで黄色に光る応援ブレスレットなどがもらえました。さらに小2の息子と妻はメガホンなどを買い、いよいよ入場。S席の三塁側です。1塁側は4席手に入らず、やむなく3塁側を買いましたが、1塁側のベンチの中がよく見えて、かえって良かったです。
 12時半から、開幕セレモニーが始まりました。駆け付けたのは、オスカー美女軍団の5人。菊川怜は、ヤフードームに今年から名称が変わったのに、福岡ドームと言ってしまって困っていました。
 最初に挨拶をした後、いったん引っ込み、今度は藤井フミヤが登場です。公式応援ソング「勝利の空へ」の歌を歌いました。「若鷹軍団」とは違い、しっとりとしたバラードですが、後半は力強い勝利を称える感じのなかなかいい曲でした。バックスクリーンにソフトバンクの選手の試合シーンなどが流れ、妻は聞きながらそれを見て、感激して泣いていました。
 始球式は上戸綾。バッターは新庄。何とバッターボックスに手ぶらで向かいます。そして後ろのポケットから取り出したのは、何とオロナミンCのビンでした。ボールは大きくはずれましたが、新庄は空振り。サインボールなどを5人にプレゼントして、いよいよ試合開始です。
先発は開幕投手初めての和田。新庄への初球はスライダー。打ち上げて1アウト。その後も好調なピッチング。一方相手の先発ミラバルもストレートに力があり、なかなか両チーム点が入りません。試合が動いたのは7回、日本ハムの4番セギノールにソロホームラン。しかしホークスはその裏、柴原の起死回生の3ランホームランで逆転。投手は岡本につなぎ、最後は三瀬。9回は満塁で新庄を迎え、ピンチでしたが三振でゲームセット。見事に新生ソフトバンクホークスの初戦を白星で飾りました。
 勝利の花火の後、ルーフオープンがあり、屋根が全部開きました。空はやや暗くなっていましたが、藤井フミヤの「勝利の空へ」を、気持ちよく聞くことができて、本当に良かったです。

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語8

2005-03-24 18:46:16 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(3月23日)を要約します。
1「放つオーラ」
 今や球界を代表する人気選手に成長した川崎は、高校時代からきらめくようなオーラを放っていた。プロ入り直前、鹿児島工業高校3年の体育祭。仲間の大声援を受けて「科」対抗リレーに登場した川崎は、歯を食いしばり、腕を振り、鬼のような形相でトラックを駆け抜けていった。
 「先頭とは30メートルぐらいだったでしょうか。宗の追い上げで、最後は3人が並走するような感じでゴールに飛び込みました。優勝が決まった後には、‘ムネノリコール‘の大合唱ですよ」と高校時代の担任の田中健司先生。
 2年の時の同じ体育祭の「科」対抗リレー。すでに百メートル走の校内記録もマークするなど注目されていた川崎は、当然のようにエースランナーとして登場した。期待を一身に集めて臨んだ本番で、張り切りすぎてまさかの転倒。そのことがよほど悔しかったのか、文集にも「ボクがこけてしまったせいで・・・」と、自らを責めるような言葉を並べ立てたという。
 本気でプロを目指し、ひたすら練習に取り組んでいたことをクラスメートも知っていた。だからあえて学級委員長などにも選ばなかった。気配りのできる人気者。田中の目にそう映っていたスター候補生は、周囲のサポートも感じながらひたむきに夢を追いかけていた。
2「3回戦敗退」
 高校最後の夏。鹿児島工業高校史上初の甲子園切符をかけた戦いは、川崎にとっても重要な意味を持つものだった。強豪校との練習試合を重ねるうちに、相手を視察に来ていたはずのスカウトも無名のプレイヤーの野球センスに注目するようになり、そんなスカウト陣がネット裏から目を光らせる中で、県大会はスタートした。
 初戦。7回コールドで下したこの試合で、川崎は猛打爆発の火付け役となる。2回に俊足を生かしたランイング本塁打。もともと甲子園には大きな興味のなかった川崎にとって、この大会はアピールの絶好機。すぐそこでプロのスカウトに見られていることでが、純粋な18歳を刺激した。
 大会そのものは3回戦で敗退。だがプロ入りが現実味を帯びてきた川崎に、もう別の道は考えられなかった。3年になった直後、大手電力会社からの就職の誘いを「プロになるために大学に行きたい」と固辞。鉄のような意志で両親を驚かせた川崎は、今度は関東の強豪大学の誘いも断った。ドラフトで指名がかかるかどうかはあくまでも微妙。それでも、可能性がある以上はそこにかけてみたかった。
3「お返し応援」
 ほとんど学校を休まなかった川崎が、3年間で1日だけ「ズル休み」したことがある。休んだのはサッカー部の大会があったからだった。「夏の県大会で応援に来てもらった。だからどうしてもボクも行って応援してあげたい」と、学校に‘病欠‘の連絡をしてくれるよう、父・正継に直訴。後になってその事実を知った田中も、もう何も本人には言わなかった。
 仲間とのきずなの大切さを学び、プロになることだけを夢見て追いかけた3年間。その集大成が、日本一のホークスに4位で指名を受けたドラフトだった。
 ダイエー初優勝の余韻も冷めやらない1999年11月19日。午後5時近くになり監督室で一報を聞いた上原は、満面の笑顔の川崎と抱き合って喜びをかみしめた。だれよりも努力し、だれよりも深く野球を愛しチームを引っ張ったことを知っている。だから上原も自然と涙が出てきた。
4「休まずトレ」
 その夜、念願かなった川崎家ではにぎやかなお祝いが催された。これまでの道のりを知る大勢の人たちが一堂に会したこんな日でも、決して浮かれたりはしなかった。乾杯もそこそこに足を運んだのは、夏に両親に8万円で買ってもらったウエートトレーニングの器具が置いてある倉庫だ。そこで川崎は重いバーベルを持ち上げていた。
 「今日は休んでもいいんじゃない?・・と声をかけると、ボクはプロで活躍したい。そのためにも今から体をつくっていかないといけないんだ」と言うんです。体の細さを補うように、まっすぐ貫いた鋼のような心。いつも泣いていたあの小さな子が、自分を信じて道を切り開いた。今日からはプロ。いつのまにか大人びた息子の横顔を、母も目を潤ませながら見守っていた。(山本泰明氏の記事より)

映画「シャークテイル」を見ました

2005-03-21 10:41:21 | Weblog
 日曜日に家族で映画「シャークテイル」を見ました。「シュレック」のドリームワークスの作品ということで、相変わらず面白くできあがっていると思いました。
 海の底に広がる大都会にはびっくり。そこはまるで東京やニューヨ-クのような風情で、交通渋滞はあるは、高級マンションやテレビはあるはで、さながら現代の人間社会といっしょです。登場する魚も人間のように感情や欲望をもっています。
 クジラの洗車場「ホエール・ウオッシュ」で働くオスカーは、いつかはリーフシティーのトップになることを夢見る小さな魚(ホンソメワケベラ)。人気者だがお調子者でいつもトラブルばかり。人間世界にもよくいるタイプです。彼に好意を寄せるアンジー(エンジェルフイッシュ)はいつもハラハラさせられます。
 一方大ボスざめドン・リノの息子レニーは優しくて正直者。さめのくせにベジタリアン。ドン・リノや乱暴者の兄フランキーにいつもハッパをかけられています。
 オスカーは「ホエール・ウオッシュ」の社長であるサイクス(ハリセンボン)の借金が返せずに、彼の手下アーニーとバーニー(電気クラゲ)に海の底に連れていかれます。さめのフランキーに追いかけられますが、フランキーは大きなイカリに刺さって死んでしまいます。その次第を見たアーニーとバーニーは、オスカーがさめをやっつけたと勘違い。それをいいことに、オスカーは「サメ・キラーのオスカー」と名乗り始めます。
 有名になったオスカーには魔性の美女ローラ(ミノカサゴ)などが近づきますが、最後には自分のうそを認め、アンジーの愛にも気づいてハッピーエンドです。ドン・リノもありのままのレニーを最後には認めてくれます。という感じで、非常に人間臭い海の中での話でした。
 

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語7

2005-03-17 18:40:51 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(3月16日)を要約します。
1「試験前夜徹夜」
 薩摩半島を海沿いに伸びるJR日豊線。眼下に大海を望んで走るこの電車が、高校生になった少年の「勉強部屋」だった。自宅の最寄りの姶良駅から、西鹿児島駅までおよそ25分。
 「入学する前に、寮に入ることもできるぞ、と言ったんです。しかしあの子は、寮に入ったら夜、練習ができないからといって、通学を選んだんです」。
 川崎の中学時代から勧誘に動き、自らが監督を務める野球部に預かることになった上原義孝は、その強い意志を宿した目に驚かされたという。入寮を拒んだのは、少しでも多くの練習時間を確保するため。「時間というのは誰にでも平等に流れるもの。その中で、どういう使い方をするかなんです。」プロ第一線に踊り出た今でもそう口にする川崎は、高校時代からその考えを実践していた。部の練習が終われば、中学時代に父・正継に買ってもらったネットに向かって深夜までティー打撃。通学中には電車の中でカバンの中から書物をピックアップ。野球に関する書物はいつも携帯し、頭の中からも鍛えていた。
 「野球をやるからといって、勉強をおろそかにしたくない。テストで悪い点数を取ると嫌な思いをする。頑張れば結果はついてくる」。卒業するまで3年間担任だった田中健司にそう告げたこともある川崎は、学業のほうでも常にトップクラスの成績をマーク。テスト前になると徹夜で机に向かっていたこともあった。
2「振り子打法」
 電気工事店を営む正継に第2種電気工事士の国家試験を受けたいと申し出たのは2年の時。「厳しいぞ」と言う父親に、息子は「分かっている」と鋭い言葉を返して答えた。試験は筆記と、30分以内に配線を完成させる技能の2つ。自宅で開かれたマンツーマンの講座に、川崎は必死で食らいついてきたという。そして試験終了。クラスの半分もクリアできなかった難関を、川崎は1回で合格。幼い頃、努力で野球人としての道を切り開いた喜びと同じ感覚がそこにあった。
 電車の中という「勉強部屋」で読んでいた本がどんなものかとある時、上原が聞いたことがある。「それは野球を力学的に分析したものでした。打撃の際に、どうやればボールに力が伝わるのか、そういったところを自分なりに研究していたみたいです」
 かつてのイチローをほうふつとさせる「振り子打法」は、当時、川崎が自分なりの視点で編み出したもの。決してまねだけではないこの打撃フォームで、高校時代は常にチームの中心にいた。打つばかりではなく、投げては「たまに打撃投手をやると、誰も打てなかった」と上原も脱帽。ただし甲子園出場ゼロの鹿児島工業高校では注目度も低く、プロへの道のりはまだまだ険しかった。
3「家族が応援」
 3年の春。生徒達が本格的に進路を考え始める頃、川崎は両親と真剣な顔で向き合っていた。「ボクは将来プロになりたい。そのために大学に行かせてください。4年間で体をつくって、プロテストを受ける。それでダメならあきらめもつくし、その時は家を継ぐつもりです」
 父・正継は「やるだけやらせてみたらいいんじゃないか」と容認。もちろん母・絹代も考えは同じだった。全国的な建築不況がニュースになった当時、電気業界にもその余波が直撃。川崎家も例外ではなかったが、絹代は必死の行動に出た。
 比較的余裕のある午前中に5時間、近所の精肉店にパートとして通い始めた。もちろん川崎を大学に送り出すための費用を捻出するためだ。息子が自ら選んだ本気の目標だから、本気で受け止める必要があった。正継は「好きなゴルフも控えめにする」と、二人三脚でサポート。すべては夢の実現のためだった。
 周囲の後押しを受けて走り出した川崎の目には、もうプロしか映っていなかった。無名のプレイヤーをスカウトが追いかけ始めたのも、ちょうどそのころのことだった。(山本泰明氏の記事より)

胃カメラをしました

2005-03-11 21:52:42 | Weblog
 職場の胃検診で異常があり、今日は胃カメラをすることになりました。血液の病気を持っており、出血しやすい状況にいる私は、医師にもそのことを告げましたが、やや不安がありました。
 今日は知り合いの医師の病院に行き、いよいよ検査。まず肩に痛い注射をされました。次にいよいよ胃カメラです。麻酔をしますと言い、口にスプレーのようなものをした後、カメラが挿入されました。まだ麻酔もきいていなくて、とても苦痛で、何回か吐きそうになりました。以前ほかの病院でした時は、麻酔がもう少し強く、痛みもなかった記憶があったのですが、今回は夜の今でも、まだのどに痛みが残っています。つばを飲み込んでも痛みがあります。病院によって(医師によって)、こんなに違いがあるのかと思いました。かなり胃があれているということで、胃炎と診断されました。ピロリ菌の影響かもしれないということで、ピロリ菌の検査もしました。その結果は2週間後にわかるということでした。
 血液の病気の時も、違う方法でピロリ菌の検査をしたのですが、その時は発見されなかったので、今回も違うと思います。だから胃があれた原因は何かよくわかりません。とりあえず薬を飲み、よくなればと思います。

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語6

2005-03-09 22:33:07 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(3月9日)を要約します。
1「先輩殴った」
 左打ちに転向していた中3の秋、川崎は決断のときを迎えていた。
 「はっきり言って、あの子にとって甲子園はどうでもよかったみたいですね。私たちは連れていってもらえるかな・・なんて思ったりしていたんですけど(笑)」。息子がレギュラーとして活躍するようになり、父・正継も楽しみにしていた高校野球の聖地。両親がひそかな期待を抱いていたころ、川崎は野球部の幼なじみ、村原に打ち明けていた。「おれ、甲子園に興味はない。それより将来プロになるために野球をやりたい」
 細身の体から、あふれんばかりのエネルギーを発していた。「左」で躍動し始めた中3の春、身長はレギュラーの中で2番目に低い162センチ。しかし果敢な姿勢は周囲も驚くほどだった。村原は「もう時効でしょうから」と前置きしたうえで当時の記憶をたどった。
 「基本的に真面目なんですけど、やんちゃな一面もあるんですよ。ああ見えてケンカっぱやいところがあって・・」。中2のある日、ちょっとしたことからサッカー部のキャプテンと「いざこざ」に発展した川崎は、そのまま殴り合いにもつれ込んだという。2人の身長差は10センチ以上。川崎には分が悪いと思われたが、何と勝者はその川崎だった。決して弱いものいじめのケンカではない。だからこそ、底知れぬパワーがますます周囲を引きつけていった。
 信じた道をまっすぐに進むということ。情に深く、友人付き合いも大切にした一方で、フラフラと流されることはまずなかった。家業で電気工事店を営む正継には、そんな息子の姿が頼もしく映っていた。「今でもそうなんですが、いい意味で頑固なところを持っているんですよ。あの時もそんな感じでした」
2「計画曲げぬ」
 学校が終わり、そろそろ川崎も家に戻ってくる時間。その日、重富中は試験期間中で部活動も休みと聞いていた。自宅に併設した事務所にトントン・・と階段を上がる音が届き、息子が帰宅したことを耳で確認。同級生の友達2人が訪ねてきたのは、それから間もなくしてのことだった。
 「呼んでも呼んでも返事がない。どこかに出かけたと思って、仕方なくその子達を帰したんです。すると・・」。直後2階から降りてきた川崎は、いぶかしがる正継に向かってこう返答した。「もう今日は遊ばないって言ってるんだから」。学校で遊ぼうと誘われていたが、その日は最初から勉強すると決めていた。そのプランを理由もなく崩すことはできない。それが川崎の答えだった。
 誰が何と言おうと将来はプロ。挑戦もせずにあきらめるつもりなどサラサラない川崎は、高校生活もその「通過点」と考えていた。俊足好打でならした「金の卵」には県内のいくつかの有力校から誘いもあったが、川崎の眼中にはなし。代わりに選んだのは、甲子園出場経験ゼロの鹿児島工業高校だった。
3「もっと上を」
 進路決定が迫っていた1月中旬。鹿児島工業野球部監督の上原と会った。「甲子園に行きたいのかと聞くと、それもいいけど・・と首を横に振る。じゃあ、どうしたいのか?と聞くと、自分はもっと上を目指している」と。もっと上とは、もちろんプロ。その時15歳の心意気を初めて知った上原はさらに続けた。「どうしてウチでやりたいんだ?と聞くと、ここは伸び伸びさせてくれると聞いたから、と言うんです。ああそうかと思いました。それがプロを目指すあの子の考え方だったんです1」。
 後に川崎はこんなことを上原に漏らしたという。「ボクは高校まで野球を伸び伸びとやりたい。それから社会人や大学に行って、プロで通用する体をつくる。甲子園もいいけど、そのためだけに野球をやることはできない」
 卒業式の日。寂しさの中で村原と交わした笑顔のエール。「甲子園に行けたらいいね。お互いに頑張ろう。オレも将来プロになれるように頑張る」。がっちり握った手のひらに、揺らぐことのない信念が詰まっていた。(山本泰明氏の記事より)


福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語5

2005-03-03 09:38:09 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(3月2日)を要約します。
1「高校に見学」
 1994年、中学生になった川崎は、現れた天才イチローの活躍を食い入るようなまなざしで見つめていた。小3で本格的に野球を始めた川崎は、重富中に入学後も当然のように野球部を選択。
 どんな環境に置かれてもどん欲だった。重富少年野球時代、監督にあらゆる基本を徹底的にたたきこまれた川崎だが、中学校の野球部の顧問は残念ながら素人。県大会でさえ、ほとんど出場経験のない弱小校では仕方のないことだった。が視線の先にプロを見据えていた少年にのんびり構えている時間はない。小学校からの仲間が大部分を占めたナインと一つの「作戦」に打ってでた。
 「学習塾の先生に頼みこんで、あちこちの高校を見て回ったんです。うまくなるにはどんな練習をやったらいいのだろうか」と、同級生の村原貞芳は語る。鹿児島実、樟南など、もともと鹿児島は全国的にも野球のレベルの高い土地。指導者が分からないなら、自分たちで探せというわけで、数人で先生の車に乗りこんで、フェンス越しに練習方法をチェックしたのだという。村原が思い出すのは、その時の川崎の真剣な目だ。人一倍の吸収欲を映していた。
 小柄で細身の体がハンディとなったのか、レギュラーにはなれなかった2年間。努力を怠ることはなかったものの、何かしらの刺激がなければ前に進むのも難しくなっていたころだった。そんな時だ。イチローが鹿児島にやってきた。あこがれの人が、鴨池球場に舞い降りた。
2「自宅で黙々」
 95年5月。全国でフィーバーを巻き起こしていたイチローは、鹿児島でも当然のように主役だった。「オープン戦を見に行ったんです。その時イチローがホームランを打って。そりゃもう、すごい、すごいって興奮しっぱなしでした」。村原も観戦したゲーム中、隣では川崎が感激しながら白球の行方を追っていた。あこがれのイチローが目の前で打っている。まるで探していた人に会えたかのような喜びの中で、あることがひらめいた。
 イチローと「対面」した翌年、中3に進級したばかりの春のこと。ある日川崎はキャプテンでもある村原のもとに寄ってきた。「あのさ、左で打つことにしたから」。体が小さくても、やれる自信はある。特に走ることは誰にも負けない。足を生かすには左打ちがいい。
 イチローにあこがれた左打ち。目指す頂がはっきりしているから、時間をかける努力は惜しまない。父から自宅にネットを用意してもらった。ティー打撃で黙々と打ちこんだ。それは幼い頃、家の前で飽きもせず、ひたすら壁当てを繰り返した時と同じ、純粋な野球少年の姿だった。「よく遅くまでやってました。そりゃ、左打ちにして失敗したくないから本人も必死だったでしょう」と父。
 3「楽器も器用」
 中3の文化祭でバンドをやろうという話になった。野球部の仲間と共に、川崎はベース。練習を始めたのは9月末。それから1ヶ月後にはもうステージが待っている。たかが文化祭でも真剣だった。器用さを発揮した川崎は、友達に見よう見真似で必死の指導。やると決めたからには投げ出すわけにはいかなかった。本番大成功。違う一面をのぞかせ、先生や生徒はため息を漏らした。
 左打者に取り組み始めてからの進化はめざましかった。素質に努力を重ね、競争を勝ち抜いて遊撃のレギュラーの座を手に入れた。身長162センチは、当時の同級生たちと比較しても決して大きくはない。それでも前に進もうとする姿勢は相変わらず。生まれたころから川崎を知る脇田重雄は、成功を確信していた。「小さい頃ね、よくカブト虫を捕りに連れていったんです。捕れないときでも、あの子はずっと辛抱して待つ。勉強でもそう。あの素直さがあれば、きっと伸びていくだろう」と。 
 中学最後の大会、姶良地区代表として20数年ぶりに県大会に出場した重富中は、ベスト4入りの快挙を成し遂げた。左打者として再スタートを切ってから半年後、川崎はサヨナラ打を放つなどの活躍で、ナインを引っ張った。(山本泰明氏の記事より)