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                 真田町長楽寺

2022-04-17 09:17:55 | ネイチャー、スナップ
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自分は20年ぶりの真田昌幸の墓に手をあわせた長楽寺には桜撮影にきていましたが改めて本堂裏庭へ





徳川に従属していた真田昌幸でしたが、領土問題の影響で合戦に発展してしまうことになります。1585年(天正13年)に起きた「第1次上田城合戦」です。

なお、この頃には真田昌幸の嫡男「真田信之」(さなだのぶゆき)と次男「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら[さなだのぶしげ])が父親の補佐を努めていました。

徳川家康と対立した真田昌幸は、四面楚歌を防ぐために再び知略を巡らせます。編み出した策は、一度裏切ったため敵対関係にある上杉との再同盟でした。

当然ながら、ただ同盟を結びに行ってもうまくいくはずはありません。そこで人質として真田幸村(真田信繁)を越後に送ることにするのです。上杉側にもメリットがあったことが幸いし、最終的にこの再同盟は結実します。

背後を気にする必要がなくなった真田昌幸は「上田城」(長野県上田市)に様々な仕込みを行なった上で、徳川軍と対決することにしました。この戦いは武田信玄仕込みの知略を活かした、世に知れ渡る真田昌幸の戦いとして評価されています。

真田昌幸が知勇兼備の猛将として真価を発揮した部分を抜粋してご紹介。まず、合戦時の兵力は真田軍約2,000人に対し徳川軍約8,000人と4倍の差がありました(※諸説あり)。

この劣勢を跳ね返すには、野戦で奇襲などを仕掛け敵の混乱を誘い、敵総大将を一気に討ち取るのが戦国時代における基本の兵法です。しかし真田昌幸は、野戦ではなく「籠城戦」を決意します。長楽寺
徳川軍は怒涛の攻めであっという間に上田城の二の丸まで占領します。それを確認した真田昌幸は、部下に命じて合図を送りました。すると真田軍の伏兵が現れ、徳川軍を側面から攻撃したのです。

不意の襲撃に徳川軍は混乱、一時的に二の丸から撤退しようと試みますが、城内に潜伏していたさらなる伏兵が退却する徳川軍に襲い掛かります。さらに神川(かんがわ:現在の長野県上田市を流れる信濃川水系の一級河川)を渡って徳川本陣に帰還しようとしていた兵に対し、真田軍は堰を破壊、鉄砲水の発生により徳川軍の多くが溺死してしまいます。

一連の真田軍の反撃により徳川軍の犠牲者は約1,300人、その一方、真田軍はわずか40人ほどの犠牲で済みました。結果的に真田軍の勝利で第1次上田城合戦はその幕を閉じたのです。







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