囲碁漂流の記

週末にリアル対局を愉しむアマ有段者が、さまざまな話題を提供します。初二段・上級向け即効上達法あり、懐古趣味の諸事雑観あり

本因坊五百年の歴史

2022年06月02日 | ●○●○雑観の森

 


【全ては ひとりの〝名人〟から始まった】

 

七大タイトル最古、第77期の

本因坊決定戦七段勝負が佳境を迎えている

6年前のAI登場から超難解な戦いが展開され

わたしは棋譜を見てもさっぱり分からないが

分からないなりに日々愉しんでいる

 

   ◇

 

囲碁四千年といわれるが

近現代の打ち碁の技を

どこまでさかのぼればいいのか

まずは「本因坊1世算砂」となろう


1559年、京都生まれというから

ざっと五百年近く前のことだ

本姓・加納、幼名・与三郎

6歳あるいは7歳のころ

京都・寂光寺の日淵上人の門に入り、

翌年に剃髪して「日海」と改める


仏道修行のかたわら

碁を仙也について学び

たちまち師匠を凌駕する腕前になった


織田信長に召されて寵を受け

「そなたは名人なり」と称えられる

当時の流行語「名物」を借用した

名人の呼称はこれから始まったとされる


信長は日海に5子の手合だっというから

現代の五段の実力があったようだ


本能寺の変の後、秀吉に召され

御前対局で抜群の成績を修め

寂光寺は「米四石」を与えられた


これが朝廷の耳に入り

「権大僧都」に任ぜられ

朝廷にて碁技を観せることになった


秀吉没後、家康が征夷大将軍になり

祝儀のため伺候して寵遇され

やがて本因坊算砂と名乗って

秀吉に従い江戸に下った

「本因坊」は寂光寺の塔頭のひとつ


家康は、囲碁将棋の保護奨励策と進め

算砂には「50石50人」扶持を与え

碁打衆将棋衆のなかで最上位に扱った


碁所制度の開設と同時に

「碁所兼将棋所」に任じ

特別に終身「三百石」を与えた


勘定奉行傘下の特別職で

いわば中堅旗本が就任する部門長官扱い

囲碁将棋界の全てを取り仕切る

最高権力者となった


登城の際は、緋色の衣をまとい

下乗の際まで乗輿を許された

京都に還る際には、三千貫の旗下格で

品川以西の街道を往来した

「億万長者の扱い」となろうか


本因坊家はその後

21世本因坊秀哉が昭和12(1937)年

本因坊名跡を日本棋院に譲るまで

日本最大の囲碁集団として君臨した

 

     ◇

 

本因坊戦の正式名称は

「本因坊位継承全日本専門棋士選手権戦」

昭和14(1939)年の開始から

たびたび制度は改正された


当初から企画上の困難がさまざまあったが

それらの障害を乗り越えて

今日に至っている

運営に関わった裏方諸氏の労苦に

改めて敬意を表したい

 

 


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