囲碁漂流の記

週末にリアル対局を愉しむアマ有段者が、さまざまな話題を提供します。初二段・上級向け即効上達法あり、懐古趣味の諸事雑観あり

勝負師一代 vol.1

2019年11月05日 | ●○●○雑観の森

 
 
コンケイ熱筆「囲碁専門棋士の実態」――おしゃべり碁の項の巻】 
 
 
■昭和の文壇碁の中心的存在だった二人の著名作家。
江崎誠致(1922~2001年)と近藤啓太郎(1920~2002年)。
呉清源、坂田栄男、高川格といった昭和のトップ棋士と親交があり、
囲碁の小説、ルポ、随筆を得意とした。
 

■今回紹介するのはコンケイ(近啓)の奇書「勝負師一代」。

近世・近現代の名棋士たちの素顔を熱く書き込んだものだ。
特に濃密な親交のあった坂田に対しては、
遠慮なく、容赦なく、生々しく描いている。
 
 
■幕末から戦前戦後の棋士の生態のうち、印象に残った逸話を少し紹介する。
だがコンケイの筆には粘りがあって、一つ一つの話が延々と展開される。
よって、少々端折って要旨を掲載するので、ご容赦を。
 

         ◇
 

■最初は御城碁の話
 
これは、名人御所が空席になって長く、家元当主による争碁六局によって、決まりが付くという大一番である。
 
 
御城碁で対局中、
二世安井算知の後援者である「松平肥後守」が観戦にきた。
熱中したこのお大名は、算知がポンと一手打ったとたん、
「うん、うまい。これは本因坊でも勝てんだろう」といった。 
 
 
聞いていた本因坊算悦の顔から血の気が引いた。
しばし黙想した算悦は、碁器を片付けて一礼し、
「この碁、打ち継ぐわけには参りません」
という。

驚いて役人が理由を問うのに、
「私は碁をもって、お上におつかえしており、対局にあたっては、武士が戦場に向かうのと同様の覚悟でおります。まして私は本因坊家の当主、こと碁に関しては、誰の指図も受けません。ただいまの肥後守様のお言葉、なにをもって私の負けをとなさるのか。このようなことがあった以上は、打つわけにはいきませぬ」

一座は騒然となった。

そこへ「間もなく将軍家様ご出座」の声がかかる。
こんな不始末を見られたら、切腹ものである。
やむなく肥後守が算悦に陳謝し、算悦も気を取り直して対局は続行された。

この碁、算悦の勝ちとなったというから、先番の三局のうちどれかであろう。
肥後守も算知も、面目をつぶした。
算悦はよほど気の強い性格だったと思える。
打ち分けで碁所は決定せぬまま、
5年後の万治元年、算悦は47歳で没した。
 
 
■この頃の囲碁の家元は士分扱いと言っても「末席」。
それが公の席で「大名」に噛みつき、粉砕したのである。

東京の中心にはびこる「忖度政治」「下心政治」の主たちに聞かせたい話である。
地方の受験現場の悲痛な訴えを無視し続けた「ヒラメ官僚」と、
東京出身、地方等どこ吹く風、人間味薄い「お友だち側近大臣」に。
 
 
いにしえの碁打ちの勝負にかける真摯な姿勢と高いプライド。
いかがであろうか。
ヘボ碁打ちであっても、心意気だけは見習いたいものである。
 
反則筆頭「打ち直し(=待った)」と双璧をなす反則二番手「おしゃべり碁」の罪深さ。
自由対局の気分で公式戦でやらかすと、世が世なら罰は「切腹」ものであるのか。
 
自省を込めて、かみ締めたい。
 
 

御城碁(おしろご) 囲碁家元四家の上手(七段)以上の棋士たちが、将軍の御前で披露した対局。1626年ごろ始まり、御城将棋とともに年に一度、2、3局が行われ、1864年の中止まで230年余り続いた。御城碁の出仕は、棋士にとって最高の栄誉。碁で禄をはむ家元にとっては将軍に技量報告義務があり、寺社奉行の呼び出しという形式で行われた。将軍の観戦がない時は、老中などが列席した。 また時間無制限による諸問題解消のため、「下打ち」を行い、当日は「並べてみせる」習慣になった。出仕は計67人、総対局数536。本因坊秀策の19勝無敗は幕末のハイライト。
 

(つづく) 


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