
仏教では「生老病死」の四苦を説くといいます。その意味については大凡辞書の記載通りかと思われますが、その解釈については若干相違が見られる部分があります。
例えば、「老病死」に伴う苦については共通理解が成り立つのですが、「生」については様々な解釈があるみたいです。この世に生を受ける事がなぜ苦なのか―。ある人は胎児が産道を通ってくる時の苦しみと言い、またある人は出産時の女性の陣痛の苦しみを指すとも言いました。
まぁ、色々な解釈があるみたいですが、私などは「人がこの世に生を受けた以上、あらゆる罪咎(小罪無量)を犯さざるを得ない苦しみ」という説明が一番しっくりきた気がします

ま、個人の趣味が乗じた解釈かもしれませんが......

だからと言って、仏教では決して「悲観的に生きよ」と言っているのではありません。その「苦」を背負って生きていく事を自覚した上で、よりよい人生を歩んでいこうとする決意の表れなのだと感じています。
我々はあらゆる罪咎を犯す事でしか生きられない存在なのであれば、自ずから「他者」という存在に対して敬意と慈愛の念が生じてきますよね。「他をして自に同ぜしめてのちに、自をして他に同ぜしむる道理」(by 『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻)というのも、それを前提に成り立つものかと思われます。
話が脱線してしまいました

で、「老花現象」の話、このタイトルの文字、間違って入力されているのではありません。敢えて「花」という字を当てているのです。
これは、先日の「つるりん学校」教頭の青山俊董老師のお話からの引用です。
既述もした「四苦」(生老病死)とは、この世に生を受けた以上、誰しも避ける事ができない現実です。でありましょうが、自覚しているか否かというモノサシで計ると若干事情は異なってきます。
「生老病死」と頭では理解していても、どれほどの人が喫緊の課題として受け止めているかと言えば、自信をもってそうだと断言できる人は少ないものと思われます。
単純に「病になって初めて分かる健康のありがたみ」という言葉に象徴される様に、「病」というのはその病気にかかってみて初めて「苦」という実感が湧くのではないでしょうか。
また、「箸が転がってもおかしい」と称される思春期の女子高生など、これから老いて死ぬことを前提に日々過ごしてる人がどれだけいるでしょうか。私にもそういう時期があった様に、楽しい時は「楽しい」以外の何物でもなく、そこに仏教で説く「苦」というものは存在しません。
誤解のない様に付け加えますが、「四苦」を自覚できないからと言って悪いと言っているのではありません。気付くか気付かないかは、まさにその人の「ご縁」次第。才能や資質の問題ではありません。
仏教とは、気付いた人にとって何にも代え難い教えでありますが、気付かなければ気付かないで不幸かというと必ずしもそうは言えないと思います。そのぐらい仏教は理性的で媚びを売らない宗教とも言えましょう。
話がまた逸れてしまいました

教頭先生曰く、先ほどの話ではないですが、気付くか気付かないかはその人のアンテナ次第だと仰っておりました。そのアンテナを先生は「仏教的アンテナ」と呼んでおりました。そして、その仏教的アンテナが張り巡らされるのは、やはり齢60を過ぎた頃からだろうと先生は仰るのです。
要は、「四苦」(生老病死)という周波数を受信する仏教的アンテナは、それら「生老病死」が自分の問題として自覚できる様になるであろう、齢60過ぎぐらいから張り巡らされると言うのです。
確かに、今まで簡単にこなせていた事が急に困難になって「老い」を感じたり、その老化と並行して様々な「病」が表面化してきたりすると、誰しも自分の人生あと何年続くのだろう......と「死」が自分の問題としてのし掛かってきます。
そこで悲観的に生きるのか、それとも前向きに生きるのかで人生の意味は全く違ってきます。仏教徒とは、それでも私は前向きに生きる

青山先生は、その齢60を過ぎた辺りからを「第二の人生」と称し、老化現象を「老花現象」として捉え、第二の人生に花を咲かせましょう

「老い」の中に花を見るというか、「老い」に花を咲かせる人生というか、老いたからこそ咲かせられる花(人生)があるのかもしれませんね。どうせ老いゆく人生ならば、綺麗な花を咲かせたいものです。



※「叢林@Net」各寮ブログ更新状況はこちらをクリック♪
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます