
「いやぁ、先日ね、離れて暮らしている息子から久々電話がかかってきたんですよ。いやね、別に用事はないって言うんだけどね、やっぱり嬉しいものですね......」
今日は、このブログでも度々紹介しているご婦人のお寺参りの日でした。
長年連れ添ったご主人を亡くされてから、必ず月に一度のご命日にはお参りをいただき、その後必ず二人でお茶を飲み交わします。
冒頭紹介した言葉は、そのお茶の席でご婦人の口から出た言葉です。
以前は亡くされたご主人の話ばかりでしたが、最近になってようやくご主人以外の話題が聞けるようになりました。それはそれで、こころの距離が縮まったような気がして嬉しいものです。
ご主人を亡くされてからのご婦人は、息子さんご夫婦から「良かったら一緒に住まないか」と声を掛けられたそうですが、遠慮してなのか、未だ離れ離れに暮らしているそうです。
もともと定年退職後の人生は地方で......ということで、全く身寄りのない此の地に二人で引っ越してきました。
ご主人を亡くして独りになっても、二人でともに過ごした此の地を離れ難く、残された余生をここで終える決心を固めたそうです。
その息子さんはまだ定年を迎えておらず、盆暮れ正月ぐらいしか顔を出せないそうです。前は滅多に電話など掛けてこなかったそうですが、やはり一人で暮らす母を気遣ってか、葬儀が済んでからはたまに電話をくれるようになったと言います。
実は以前、一度だけそのご婦人から息子さんに対する想いを耳にしたことがあります。
「忙しいのは分かっちゃいるけど、電話の一本もくれないとはねぇ......寂しいものですよ」
そう、仰っておられました。
互いに離れ離れに暮らす親と息子、用事がなくたって電話の一本でもあれば嬉しいものです。それが親子と言うものでしょう。
「別に用事がなくたって電話一本あれば嬉しい......」
その想いに触れた時、私はふと感じたことがありました。
あっ、亡き人に想いを寄せるってことは、これに似てるんじゃないかな、と。
以前ほどではありませんが、そのご婦人は今でも亡きご主人の話になると涙を流します。それだけ愛情が深かった証なのでしょう。
それを気にしてか、いつも私に「ごめんなさいね、また和尚さんの前で泣いちゃって......」と詫びの言葉を口にします。
それを聞いて私は、「涙を流されている時間というのは、きっとご主人と一緒にお過ごしになっている時間なのだと思いますよ」と言葉を掛けてきました。
しかし今回は、その言葉に少し私の「想い」を足してみました。
「たとえ用事がなくても、息子さんから電話一本あれば嬉しいじゃないですか。それと同じで、亡きご主人のために涙を流してあげるだけで......きっとあの世でご主人は喜んでいると思いますよ」
亡き人に想いを馳せ涙を流してしまう時間は、きっと亡き故人に「想い」を届けている時間なのでしょう。その「想い」を届けられた故人は、きっと嬉しいと思うはずです。何せ、用事もなく電話一本いただいただけであんなに嬉しいわけですから......。
「想い」と「想い」のつながりは、何も離れ離れに暮らす現代の親子関係のみに生きてくるわけではありません。身を置く世界は違えども、決して手の届かない世界にいるあの人であっても、「想い」は此の世界(此岸)のみに制約されるものではないと思うのです。その時間と場所の制約を超えて、きっと彼の世界(彼岸)伝わるものだと信じます。
「別に用事はないんだけどさ......また電話一本入れちゃったよ」という気持ちで涙を流してあげて下さい。自分のために涙を流してくれる人がいれば、きっと故人は救われます。浮かばれます。喜んでくれると思うのです。
「別に用事はないんだけどさ.......またあなたのことを想い出して涙を流してしまったよ......」 合掌



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久しぶりに拝読いたしましたが、いいお話ですね。
一冊の本を読んでいるようでした。。。
日々の生活に追われ、故人を思うことがないばかりか、
今、周囲にいる人にも心配りが出来ない自分・・・
また、忙しいことを言い訳にしている自分・・・
まずは実家にでも電話してみますm(__)m
こちらではご無沙汰ですね。
忙しいことを言い訳にしているのは......私も同じかもしれません(笑)
まるで自らに言い聞かせるがごとくに毎回記事を書いてます。
私は無宗教だからか、ご先祖様を思うことは少ないです。
でも、涙を流しながら人のことを思う時というのは、感謝や反省など、自分を俯瞰し客観的に見られる時間ではないでしょうか。
仏さまに参拝することが救いになる意味が、わかる気がします。
こちらこそはじめましてm(__)m
私もこの世界に入る前は、家の跡を継ぐことに葛藤を感じていたタイプなので、からなしさんの立場は心なしか理解できるような気がいたします。
無宗教という定義が「特定の宗派の教義に偏らない」ということを前提に物言えば、涙を流しながら人の事を思える人というのは、十分宗教的素養に長けている方かと思われます。
最後の「仏さまに参拝することが救いになる意味が、わかる気がします」という言葉を聞いて、コメント頂けたことを大変嬉しく思いました。
また、気が向いたら何時でもご訪問下さいm(__)m
私など、悩んで周りが見えなくなると、自分が生きているのか死んでいるのか、よくわからなくなる事があります。
お話を聞いて思ったのは、生きている今はまずまれであること。そして自分がいつかしぬのは、100%確かだということです。
欲張らず、私が今まで聞いた良い事を、少しずつでも人へ伝えて生きられれば、私も金色の落ち葉になれるように思いました。
再度ご訪問いただき、大変嬉しく思います。
>私など、悩んで周りが見えなくなると、自分が生きているのか死んでいるのか、よくわからなくなる事があります。
時に生きていることが苦しくて、死に等しい感覚をお持ちになるときがあると思います。
その感覚はどうしようもありませんよね。
しかし、「生きている今はまずまれであること」という気持ちが感謝のこころを生み、「いつかしぬのは、100%確かだ」という気持ちもまた感謝のこころを生むのかなと思います。
意外と周りに感謝の気持ちを持ちながら生きることって幸せだと思う時がありますよ。
些細な幸せのなかに生きる喜びが見いだせるのが仏教的な生き方だと思っています。
からなしさんがおっしゃっる「欲張らず、私が今まで聞いた良い事を、少しずつでも人へ伝えて生きる」ということも、仏教的な些細な幸せのひとつなのではないでしょうか。
金色の落葉になるということは、斯様なことかと考えています。
自分の怒りや貪りを意識し、戒めていこうと思いました。
お教えを頂き、ありがとうございましたm(__)m
再びご訪問いただき感謝です
>私は、怒りと貪りが大きいために、人に感謝できず、苦しいのだと気がつきました。
私も「怒りと貪りが大きい」未だ凡夫の身です
正直、ここでの告白(記事)は自らに言い聞かせるものが多いです
もし、ここへのご訪問がきっかけで自らの三毒(貪瞋癡)に気付かされ
>自分の怒りや貪りを意識し、戒めていこう
と思えたのならご縁ですね。
まさにその「戒めていこう」というお気持ちが、宗門で説く戒の精神であり、布薩の意味かと思われます。
ともに、歩んでまいりましょう
P.S.
ふたつ前のUnknownのコメントは私でした
うっかりタイトルと氏名を入力し忘れました