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布教師寮@Net

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慕  古 ― 古(いにしえ)を慕う ―

2006年12月22日 23時45分45秒 | 社会問題&時事ネタ

今朝何気なくテレビを見ていたら、以前各寮ブログでも触れた某前政府税調会長の辞職問題が取り上げられておりました。

その中で、ある弁護士資格を有するコメンテーターの一人が「仕事さえしっかりしていれば、プライベートでは何をやっていても構わない」といった主旨の発言をし、出演者の間で物議を醸し出しておりました。

要は「英雄、色を好む」といった価値観を思想的根拠に据えた、ある意味確信犯的な発言であった様にも思えます

拙僧も基本的に「仕事さえしっかりしていれば、プライベートで何をやっても構わない」という意見には賛成です(って言うか、特に反対する理由は見当たらない)。もちろんその「何をやっても……」という場合の「何」の程度問題にもよりますが

しかし今回の問題は、その「何」の程度問題にも十分抵触する様な事態かとも思われます。

何も氏のプライベートな色恋沙汰についてとやかく言いたい訳ではなく、事もあろうにその相手の女性と公務員官舎に同居していた事実を指して問題にしている訳で、これは十分モラルの欠如に値する行為かとも感じます。

この問題を「英雄、色を好む」的な価値観の是非の議論にすり替えてしまうのは、ある意味筋違いであり、明らかに一線が画されるべき議論でありましょう。

今回のことが許されてしまえば、モラルハザードと言う場合の「モラル」とは一体何を指すのかといった議論にまで遡らなければなりませんし、倫理や道徳といった言葉の意味が根底から覆されてしまう恐れが出てきます。

果たしてそれが良いことかどうか個人的に疑問です。

また、前のライブドア事件村上ファンドの問題が今の世に投げ掛けた「問い」が、ある意味違った形で顕現されたものとも感じました。

もちろんそれらの事件は、粉飾決算等の法を犯した事実があって罰せられた経緯がありますが、その法を犯した事実抜きに「金儲けをして何が悪い」と問われた場合、どれだの人が説得力をもってそれに反論できるでしょうか。

私は反論できるか否かは別として、生理的に「金儲けをして何が悪い」というフレーズに込められた主張に嫌悪感を感じるタイプです。その時感じる「嫌悪感」というものを個人的に大事にして生きています。また、その時感じる「嫌悪感」は今の時代にこそ見直されるべき価値観とも感じています。

「法に触れなければ何をしても良い」といった価値観と、今回の「仕事さえしっかりしていればプライベートでは何をやっても構わない」という考え方は、私にはどことなく重なって見えてきます。

今回の問題も、刑法に触れる問題ではない以上、仕事とプライベートの問題を混同して批判をするのは筋違いかもしれませんが、そのコメンテーターの話を聞いた時にある種の違和感を覚えたのもまた事実です。

そして、「駄目なモノは駄目」と言えない、今の日本社会に蔓延するモラルハザードの縮図をそこに見た気もいたしました。

その「理由」まで問うことなく是非を見極める価値基準が、以前の日本社会には歴然としてあった様な気がします。それが良いか悪いかは別として、社会においてうまく機能していた様にも思えます。

例えば、「食べ物を粗末にしてはいけない」、「道路にゴミを捨ててはいけない」といった些細な事まで、昔は当たり前の事として機能しておりました。

それが今では「なぜ、食べ物を粗末にしてはいけないか」、「なぜ、道路にゴミを捨ててはいけないか」といった愚問まで出現する始末です。

そこに本来宗教は応えるべき責務があったのでしょうが、公教育の場では敬遠されっ放しでうまく機能しておりません。

そこにあるのは、「自由」と「我が儘」を履き違えた自己中心的な都合のみで、それを客観的に検証しようとする理性すらも失われた価値観が横行しています。

ガチガチに凝り固まりながらも、「保守」に徹する一昔前の「美徳」とも言える価値観を懐かしいと思う私はアナクロでしょうか―。

私は今一度昔の価値観に立ち返る時期に、社会全体が差し掛かっている様な気もします。

高祖道元禅師750回大遠忌のスローガンでもあった 「慕古 ― 古【いにしえ】を慕う ― という言葉の意味は、今の様な時代にこそ再考されるべき価値観なのではないでしょうか―。

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