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戒名は、自分で決められない(2)

2010年05月25日 10時50分14秒 | 葬儀&戒名&寺院運営

先日アップした記事に対して、ある閲覧者の方から貴重なご指摘(コメント)をいただいたので別枠にて記事にします。

>戒名は自分で決めるということ自体は矛盾であったとしても、彼が言いたいことは死後の戒名が必要なのか、高額な戒名料まで払って戒名をもらう必要があるのかということだったのではないでしょうか。

貴重なご指摘だと思います。

まず、前回の記事にて述べた通り、「戒名」は自分自身で付けられるものでは決してありません。その点においては、我々は冷静に批判を展開していくべきでしょう。

「戒名」とは、戒を授ける「師」たる立場の師僧がいて、その戒を受ける「資」たる立場の弟子がいて初めて成り立つ話であり、その「師」から「資」への「戒法の授受」(曹洞宗で言えば大乗菩薩戒=十六条戒の授与)を以て結果的に師から資へ付されるものなのです。

ゆえに、「戒名」とは戒法授受の証として師(師僧)から資(弟子)へ付与される結縁の証とも言えましょう。つまり、師から資への戒法の授受なくして成り立たない以上、自分で自分の「戒名」を決めるということ自体土台無理な話です。

その「戒法の授受」といった視点を全く欠いている点が、島田氏の展開する「戒名」論の致命的欠陥であり、論理矛盾の極みとも言えるのです。それを言うなら、仏教本来の意味でいう「戒名」を敢えて持ち出すことなく、「死後の名前」ぐらいは自分でつけましょう!といった提案をすれば良いだけの話です。

であるならば、いずれそれは「死後の名前」をなぜ自分でつける必要があるのか?という議論にも繋がり、単に俗名葬儀を盾にした従来通りの「戒名不要論」に落ち着く話です。

要は、本当は島田氏はその点を指摘したいのに、敢えてその問題提起に「戒名は、自分で決める」といった理に適わないコピーを持ち出し、本来の「戒名」の意味をも曲げ兼ねない提案をしているのです。

繰り返しますが、「戒名」と「死後の名前」は明らかに一線を画すものです。確かに、一般社会における「戒名」に対する認識がそうでなくても、それは単に「誤解」に基づく認識でしかなく、その「誤解」を正す立場にいるのが我々僧侶であり、宗教学者の肩書を持つ島田氏の立場であると考えます。

前回の記事でも述べましたが、我が宗派の葬儀が「没後作僧」という滅後授戒の形態を取るのは、その本来の「戒名」のあり方を尊重し、且つ踏襲するためのものです。そこに、我々の先人たちの創意工夫の足跡を見ることができます。

もちろん亡き人に戒法を授けることの意義を問う議論があることも承知しております。しかし、それはこれまでの日本仏教が構築してきた葬儀法(葬式仏教の歴史)に対する理解が必要で、とても端的に一言で述べられる類の内容のものではありません。

この点については、いずれ機会を見て別に論じようと思っておりますが、大凡の概略として「没後作僧」とは、中国の清規にある亡僧供養の法を在家葬儀に適用したものとご理解いただければ良いと思います。つまり、在家の故人を見送る葬儀法がなかった時代に、あくまでも悲観にくれるご遺族の意を汲み、我々の先人たちは伝統を踏襲する形で在家の方々の葬儀法を創り出してきたのだと思います。

私は、例えば島田氏の主張が「死後の名前ぐらいは自分で決める」(もしくは、「死後の名前などいらない」)といった類のものであれば今回黙認したと思います。なぜなら、既述もした通りここで言う「死後の名前」と「戒名」は全く異質のものですから。今回敢えて批判の対象としたのは、宗教学者の肩書を持つ島田氏が、「戒名」を単なる「死後の名前」程度にしか理解できていなかった点に尽きます。

これが、巷の仏教書を数冊読んだ程度の知識の方であれば許せる話ですが、仮にも自らの発言や執筆内容に影響力を持つ学者の論評であったがゆえに問題視したまでです。これは、免疫のない一般の読者の方々に誤った「戒名」理解を根付かせる要因ともなります。これは誤った情報による風評被害の何物でもなく、はからずも学者がすべきことではないと思われます。

前のコメントで「通りすがり」さんがご指摘のように、死後の「戒名」の必要性、高額な戒名料に対する批判であれば、正々堂々とその点について議論を交わしていけば良いのです。そういう健全な問題提起であれば、我々は真摯に耳を傾け重く受け止めるべきだと思います。また、ある種の説明責任を果たす必要も出てくるでしょう。

現実的に戒名料なるものが、住職個人の生活はもとより、宗教法人施設の維持管理や環境整備等の財源(必要経費)になっている現実がある以上(詳細はこちら)、その宗教法人の代表役員の立場でもある住職の口から、ある種の事情説明と説明責任は果たされて然るべきです。

また、死後の「戒名」の必要性自体を問いたいのであれば、「戒名」の必要ない葬儀のあり方(俗名葬儀)を提案すれば良いだけの話であり、何も「戒名」本来の意味を曲げてまで「戒名は、自分で決める」といった主張を展開すべきものでもありません(ちなみに、私個人は俗名葬儀を行わないことは以前の記事で述べた通りですが、第三者が選択した俗名葬儀の是非に関しては何らコメントする立場にありません)。

その種の道理が見えれば、「戒名は、自分で決める」という発想自体がナンセンスであり、不勉強の極みとしか批判せざるを得なくなるのです。それが前回の記事で述べた私の主旨でもあります。

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6 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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お答えいただきありがとうございます (通りすがり改め牧村)
2010-05-29 15:31:23
このたびは私にも分かるように丁寧に解説をいただき、とても感謝しております。
ちょとした思いを残しただけだったのに、ここまできちんと対応いただけるとは思ってもみませんでした。
そういう僧侶の方の姿勢が、社会の誤解をなくしていくのだと思います。
重ねがさねありがとうございました。
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コメントありがとうございますm(__)m (布教師@Net)
2010-05-30 11:39:05
> 通りすがり改め牧村さん

再度コメントありがとうございますm(__)m

批判すべき点は批判し、我々も襟を正すべき点は襟を正すという姿勢が今求められているのだと思います。

今後とも宜しくお願い申し上げますm(__)m

> Unknownさん

今ある「戒名不要論」が「戒法の授受」といった視点と関係ないところで成り立っている現実も理解しています。

しかし、「戒名」を議論の俎上に上げる以上、この「戒法の授受」といった視点を抜きにした議論は戯論でしかありません。

「戒名料」という言葉が誤解を招く原因のひとつであることは先の記事で既述した通りですが、まず我々は「戒名」と「位階」(院号・位号)の違いをきちんと分けて考え、議論を混同させない自浄努力も必要だと感じています。

ともあれ、これからの我々は教義と歴史的慣習に基づいた説明責任を果たす役割が社会から求められているものと思います。
返信する
戒名論 (一言居士)
2010-05-30 15:23:57
 おっしゃる通り「戒法の授受を抜きにした戒名論」、、、確かに論理矛盾の極みですね。
 私達は戒名の戒の字の意味をよく理解しなくてはなりません。戒名から戒の精神を取ったら単なる名ですよね。ご指摘の通り島田さんの言う戒名とは単なる名前を言っていると思います。
 しかし、島田さんほどの著名な宗教学者でさえ、このような初歩的な理解を怠ること自体危機なんではないでしょうか。そういう視点で見ると、島田氏も今の日本仏教の犠牲者なのかもしれません(失礼を承知で申し上げます)
 布教師さんのような僧侶の方が増えてくれることが今の日本仏教の危機を救う一歩になると思います。きちんと私達の納得いく説明をしていただき、今後のご活躍を期待してやみません。
返信する
コメントありがとうございますm(__)m (布教師@Net)
2010-05-30 23:28:56
> 一言居士さん

>島田氏も今の日本仏教の犠牲者なのかもしれません(失礼を承知で申し上げます)

この言葉の意味を重く受け止めます。

「戒名」本来の意味を無視した「戒名」議論は、社会に現存する「戒名」に対する誤解を益々加速させます。

少なくとも僧侶と仏教研究に携わる方はその点を正さなくてはならないと感じます。

まだ、「本当に死後の戒名は必要か否か!?」といった議論の方が有益であるかと思います。

「戒名は、自分で決める」といった視点や切口は、「戒名」本来の意味を曲げる恐れがあるだけでなく、「戒名」に対する誤解を益々助長させるだけだと危惧します。
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賛成 (l)
2010-05-31 01:12:15
なかば同じ業界のものですので、毎回興味をもって読んでおります。ここに書かれていることは、本当のことだと思います。「葬式は、いらない」のほうも見ましたが、そんなことをいえば神社や教会も対象になってしまいますしね。

>少なくとも僧侶と仏教研究に携わる方はその点を正さなくてはならないと感じます

それにしても匿名の場であろうとなかろうとこのことを説明できない、しないお坊さんが多すぎると思います。

ところで、たしか島田氏本人にもウェブサイトがあったはずですが、コンタクトはされましたか。もし管理人様がそのような権利のおありの立場の方でしたら、継続し結果を出されることを心からお願いいたします。著者と間接的な知り合いだという人は何人か知っていますが、正式な僧侶の方でなければ実名で堂々と議論できない場面も、あるはずです。努力はします、重く受け止めます、ブログでないところではしています、というのはこれまでもさんざんきいてきましたが、匿名での主張は通用しないので、そういうちょっとしたところから足をひっぱられるのは損だと思いました。今回も本すら買いませんでしたが、注目することが著者にとっては思うツボだと思います。老婆心までに。
返信する
コメントありがとうございますm(__)m (布教師@Net)
2010-06-08 23:57:32
> lさん

貴重なご指摘ありがとうございます。

ご回答を別枠記事で設けました。

以下をご参照いただければ幸いです。

http://blog.goo.ne.jp/fukyo-net/e/c50814d228e20b45ef9469ef2d2c2bf9

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