
> lさん
この度は、コメントありがとうございます

お返事が遅れて大変恐縮に存じております。実は遠方への法要隨喜(お手伝い)が続き、今日までPCを開くことができませんでした。大変失礼いたしました。
ご指摘いただいた内容は大変ありがたく参考にさせていただきます。私個人としては、今後自分なりの方法で「継続し結果を出されること」を目指していくつもりでおります。
今回の記事の中でも少し触れておりますが、島田氏のご主張は「戒名」そのものの性質を問うことよりも、死後の戒名の必要性や高額な戒名料による世間との摩擦を問うものだと理解しています。
逆に、今回私が指摘をした点というのは、「戒法の授受」なくして「戒名」の付与自体あり得ないという、仏教の教義において議論の余地すら生じ得ない至極当然の常識であります(歴史的に「自誓受戒」というイレギュラーな形が流布していた時代がありますが、あくまでも「受戒」という概念を前提にしているため、今回の議論の核心にはなり得ないでしょう)。
よって、「戒名は、自分で決める」というコピー自体は、それこそ議論の余地すら生じ得ない「間違い」でしかありません。何度も申し上げますが、百歩譲って「死後の名前は、自分で決める」ならまだ耳の貸しようがあるのです。「戒名」は単なる「死後の名前」とは一線を画すものですし、単なる「死後の名前」の命名であれば、何も僧侶の我々がそこに携わる必然性はありません。
そういう議論であれば、逆になぜ「死後の名前」をわざわざ命名する必要があるのか

百歩譲って、結果的に今の「戒名」が「死後の名前」として機能している現実があっても、それは「没後作僧」という滅後の授戒があって初めて容認されるものです。ましてや我が宗門では、生前受戒(授戒会の実践)を本義としておりますので、あくまでも「没後作僧」は葬儀を媒介にした結縁教化の場という方便が成り立ちます。つまり、「戒名は、自分で決める」という発想自体、その「方便」という視点さえをも抜け落ちているのです。
仮に今回、私が氏に対して「戒名」を自分で決めることへの教義的矛盾を指摘したとしても(単なる「第二の名前」や「死後の名前」を自分で命名することは可能、しかしそれは決して「戒名」ではない)、氏の主張の核心は「戒名」に付随する周辺の問題であるため、この種の議論が平行線を辿るのは目に見えて明らかです。
恐らく氏は、ご自身の主張の導入部分に「戒名は、自分で決める」といった扇動的なコピーを用いることにより、「戒名」周辺の問題に敏感な一般の方々の興味や関心を引くことを目的としているのではないでしょうか。私自身は、その扇動的なコピーにより本来の「戒名」の意味が曲げられてしまう風評被害の方を問題にしているのです。ゆえに、議論が噛み合わないと予想するのです。
よって、両者の論点が最初から異なる以上、話が平行線を辿ることは明らかなるゆえ、ご指摘の通り「注目することが著者にとっては思うツボ」だと私自身も考えてます。ゆえに私が今なすべきことは、この種の風評被害によって生じた世間の誤解を、本来のあり方を提示することによって正していくことが先決だと考えています。
今回、長期の法要隨喜(授戒会のお手伝い)に出掛けたことも、実はその具体的な実践でしかありません。
氏の主張する「死後の戒名が必要か否か」という問題は、それこそ各々の「信仰」に委ねられる問題ですから互いの価値観の違いでしかありません。その異なる価値観を持つ者同士が、異なる「信仰」の違いについて議論する時間があるならば、自らの「信仰」を他者と共感する時間に当てることの方が有益だと考えます。それは、私にとっての「信仰」を育む行の実践にも他なりません。
言わずもがな、我が宗門には「授戒会」という生前受戒の儀式があります。それに参加をした経験がある人(戒弟)であれば、少なからず「戒名とは決して自分でつけるものではなく、戒法の授受や加行の実践があって初めて戒師から授けられるもの」という共通認識が成り立つものと信じます。
誤解を恐れずに極論すれば、要は「戒法の授受」など必要ないと思っている方は、最初から「戒名」に拘る必要などないのです。「戒名は、自分で決める」という主張に対する最大の疑問は、本当は「戒法の授受」など必要ないと思っている方々(仏教に対する信仰のない方)が、何故自分で命名してまで「戒名」を欲しがるのかという点です。まず、そういう方々にとって、「戒名」はもとより「死後の名前」さえも必要ないのではないでしょうか。
「戒名は、自分で決める」という主張の最大の矛盾は、本当は「戒法の授受」など必要ないと思っている方が、なぜそこまで「戒名」に拘るのかという点に尽きます。それは、本来の「戒名」の意味や「戒法授受」の歴史までをも歪曲し兼ねない恐れがあります。
もしその類の主張を意図的にしていたのであれば、それはまさに「他者の信仰への冒涜」という話にもなり兼ねませんし、逆に無意識のうちにしていたのであれば、それは単なる「無知の極み」でしかないということです。
よって、私は記事でも触れたように、単なる戒名不要論や俗名葬儀の提唱といった類の主張であれば今回無視したのだと思うのです。それは単なる価値観の違いから来る「信仰の違い」でしかありません。しかし、単なる「信仰の違い」でしかない問題を、その対極の方々の「信仰」をも阻害し兼ねないコピーであったがゆえに異議を申したまでです。
互いの「信仰の違い」について、異なる信仰を持つ者同士が議論する時間があるのであれば、私個人は自ずから拠る「信仰」を育む機会(授戒会)を通じて、他者と同じ信仰を共感する努力を続けていこうと考えています。それが私からの回答となります。
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私の場合は寺の子どもの立場としての寺族得度でしたが、戒名というのは寺に生まれたものの拠り所でもあって、御受戒で頂いた安名が書いてある「らくす」も必要なときには身につけるわけですが、実務の上だけでなく社会的立場を明らかにしたいときのために、いただかないよりはあったほうが安心だと思った一人です。お寺の外に普段一歩もお出にならないような方がたは別かもしれませんが、世間の偏見や不要な勧誘を避けるのに安心材料になることもあるかと思います。これも僧侶の方からすると変なのでしょうか。それに、僧侶のみなさんは、戒をうけるときいちいちこのような難しいことを思って受けるのですか?
「信仰をはぐくむ機会」とは、あなたにとっては受戒でなく授戒なのですね。在家の方がたの御受戒はもちろん大事ですが、妻帯しておられる方がほとんどの僧侶にとって「最も身近な方がた」に戒をお授けいただいているかどうかのほうが余程気になります。
失礼な表現で申し訳ないですが学僧さんが偽学者といわれる方の論に一々反応することで話を益々わかりにくくし、情報にバイアスがかかり、さらには上の方のように僧侶同士(?)不特定多数の場で軽々しく褒め称えあう様子に、同じ業界にいる家族として、かえって不快・不安に思えることは本当に多々あるのです。
信仰や神仏へのお願い事をおおっぴらにしたら恥ずかしいと思うような感情と同じで、戒をうけたことを静かに心にしまっておきたい人もいると思いますし、(曹洞宗だけなのかもしれませんが)「修行」や「僧侶」のイメージから家族や寺の子どものイメージや、求められるものも同じように連想されていくのですから。安易な共感や「戒名」に対する悪いイメージ払拭の前に、するべきことはありませんか。
置かれている現場が理想とは違うからなのか、宣伝のためにバーチャルの僧堂や役職をつけているのかもしれませんが、それこそPCや電波環境のないような実際の僧堂に安居する修行僧の方が毎日大勢いらっしゃる中で、一寺族としては、こちらの僧侶の方のコメントのほうに、ずっと安心を覚えます。
http://blog.goo.ne.jp/zen-en/e/57c3d40af200a2226f6ad2b6bf7d6d74
前回質問した私にとっては、御回答の内容は、あなたと同じ僧侶の皆さんの話の中で耳にタコというだけなのかもしれませんが、せっかくですので、今回もご回答いただければ幸いです。この類の話は、著者以外にも“まともな”学者や現場の僧侶、専門家やジャーナリストの論評でも見聞きできることなので、あなたの仰る風評被害の前に匿名ブログでの意見を提示される意義も正直あまり感じませんが、研究者や学僧としてではなく、僧侶としての回答を求めるまでです(受戒会に随喜というのは、匿名であるかぎりは私はあえて信用しません)。間接的に存じ上げている方のようですし、直接現場で私をたどっていただいてもかまいません。
「戒名が必要ないと思う人がなぜそこまで戒名にこだわるのか」というあたり、学者という名を借りただけの個人的見解なら誰からも理解されないでしょう(理解するための方法はあるにしても)、しかし著者が戒名不要をうたう教団の信者または広告塔として(擁護して)書いているのであれば、その理由は、僧侶の方ならみなさんが既にご存知と思います。
コメント確認をいたしました。
まず、
>さらには上の方のように僧侶同士(?)不特定多数の場で軽々しく褒め称えあう様子に、同じ業界にいる家族として、かえって不快・不安に思えることは本当に多々あるのです。
という部分は重く受け止めようと思いますので、コメントいただいた方には恐縮ですが、私のコメントとともに一時保留扱いとさせていただきます。
今までは、コメントいただいた場合は何か一言でもコメントを返すことを心掛けてきましたが、その姿勢についても今後再考をさせていただきます。
>せっかくですので、今回もご回答いただければ幸いです。
>研究者や学僧としてではなく、僧侶としての回答を求めるまでです
その点に関しては、いただいたご指摘を踏まえながら後日回答をさせていただきます。
諸事情により、少しお時間いただけますでしょうか。
>間接的に存じ上げている方のようですし、直接現場で私をたどっていただいてもかまいません。
そのようなことはするつもりはありません。純粋に求められた回答にお答えするだけです。
重複する内容のお答えになるかもしれませんが少々お時間下さい。
取り急ぎ、コメント確認した旨のご報告まで。
今月は何かと行持が立て込み、落ち着いてPC
に向かえない日々が続きます。
いただいたコメントに対する回答は、以下の記事にてご報告申し上げます。
http://blog.goo.ne.jp/fukyo-net/e/a856d9e2dca36039f727e6d05790a8a8
コメント欄に字数制限があるゆえ、このような形になることをご了承願います