
私は常々、ご供養の席などで「先祖(故人)の供養には、まず皆さま方の気持ちが大切です」という事を申し上げております。
今回は、その故人のご供養に必要な「気持ち」の部分について考えてみたいと思います。
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昔、あるところに無信仰な輩がいました。
その輩は、いつか和尚に一泡吹かせてやろうと、そのチャンスを手ぐすね引いて待っていたそうです。
そんなある日、その輩の親戚宅でご法事が営まれました。
その輩は、常日頃「先祖の供養には“気持ち”が大事だ」と話す和尚に対して、法事が終わった後に、ここぞとばかりに次の様な質問をぶつけました。
「和尚、それではその先祖に対する“気持ち”ってやつを俺の目の前に出して見せてくれ」
これではまるで、一休さんのとんち話に出てくる屏風の虎みたいな話ですね。
それを聞いた和尚は、しばし沈黙のあと「分かりました」とだけ言って、先ほどの法事の如く只々お経を唱え始めたそうです。
読経や回向が終わっても、「気持ち」というものは一向に姿を現しません。
それを見ていた輩は「それ見たことか」と言わんばかりに、読経を終えて沈黙を貫く和尚を笑い飛ばしたそうです。
笑い飛ばされた和尚は、その輩に対して「あなたは、なぜ笑っているのか?」と尋ねました。
するとその輩は、「そりゃ、可笑しいからに決まっているだろう」と答えたそうです。
いくら読経をしようとも、和尚が言う「気持ち」なんてもんはこれっぽっちも見えてきやしない。和尚は事あるごとに「“気持ち”が大事だ」と言うけれど、その「気持ち」とは一体何ぞや

それを聞いた和尚は、さらにこう続けたそうです。
「じゃぁ、あなたはその“可笑しい気持ち”というものを、私の目の前に出せるのか?」
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この話を聞いて思ったのは、ここで言う「気持ち」とは決して目の前に「形」として表せるものではないという事でした。
その意味で言えば、その和尚が供養に必要な「気持ち」というものを問われて、只々読経を唱え始めた「行為」そのものが和尚の「気持ち」を表わす術とも言えましょう。
つまり、ここで言う「気持ち」とは「行為(行い)」そのものを意味し、人はその「行為」を通して「気持ち」を形にする事ができるという事なのではないでしょうか。
ゆえに、その輩の「可笑しい気持ち」というのは、「笑う」という行為を通して体現された事となります。
その和尚の「供養に必要な気持ち」というのは、読経供養という行為を通して体現されたという訳です。
まるで、玉手箱から出してきた何物かの如く、ポンと目の前に「形」として出す事ができる代物ではないという事です。
その意味で言うと、「気持ち」は「行い」によって計られ、「行い」はその人の「気持ち」を計るひとつの術になり得るという事でしょう。
以前も触れましたが、「そこにホトケがいるから拝む」というよりも、「拝む行為を通してそこにホトケが現成する」という視点も必要なのだと感じます。少なくとも、その視点によって支えられる禅の修行は確実にあるものと思います。
この道理で先祖の供養を捉えてみれば、手と手を合わせる行為がある故に、そこにホトケが現成するという見方も可能なのではないでしょうか。
ホトケの存在を信じるか否かといった視点でのみ供養の価値を計るのでははなく、手と手を合わせる行為によって見えてくる供養の意味があると信じていたいものです。



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よく、脅迫まがいのことをする際に「誠意を見せろ」などというと聞きますが、この「誠意」とは金銭などの、具体的な利益だとされています。この記事を拝読いたしまして、なんだか妙に、それが強く頭に浮かんだ拙僧でした・・・
色々悪戦苦闘してみましたが、完璧に誤解を払拭する事が出来たか否かは不安です。
今回のご指摘に立った上で言えば、ここで言う「行為」とはあくまでも他者の制限を受けるものではないという事でしょうか。さらに言えば、他者の介在する余地自体ないというか……。
「悪しき業論」と一緒で、他者が介在した恣意的な因果論で捉える「気持ち」と「行為」の関係ではいけないのかなとも感じました。
身(行為)と心(気持ち)はあくまでも一如であって、「身即心、心即身」という立場で捉えれば他者が介在する余地すらなく、ご指摘の「誠意を見せろ」という言葉や意思に侵食される両者の関係ではなくなるというところに落ち着いています。
ともあれ、まだまだ課題は多いですね。今後の参究課題とさせて頂きます