
以前、ここでも想いの丈を吐露した経緯がありますが.....

僧侶は重い荷物を背負ってナンボの世界

だと思うのです

もし、このキーワードに共感してくれる方がいたならば、私と同じ価値観を共有していただける方なのかもしれません

実は今日、改めてこの言葉の意味を実感させられた出来事がありました。
僧の身である方が、なぜいとも簡単に人を傷付ける言葉を口にできるのかと憤りを感じたことです。
その言葉を向けられた法友が、あとで私のところに相談にまいりました。実は、私もその場面に遭遇した一人でした。確かに相手は良かれと思って口にした言葉であっても、あまりにも空気の読めない一言に私も感じました。
実はその方は空気を読めない常連の方で、良かれと思って口にする言葉も、相手にとっては刃を向けられた言葉でしかないことに気付いていないのです。相手にとって為になるか否かは、あくまでもその相手が納得して成り立つ話でもありましょう。
その信頼関係を抜きにして悦に浸ったとしても、心地よいのは言葉を吐いた自分だけで、相手にとっては溜まったもんじゃありません。
涙ながらに語るその法友の目には、うっすらと悔し涙が溜まっていました。
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戦争やテロの「負の連鎖」を断ち切ることって、なかなか難しいことですよね。
ある地区の紛争の歴史を見てみると、双方がこの「負の連鎖」を断ち切る努力を決断しないと、永遠にこの悲しい歴史が繰り返されるような気がしてなりません。
いずれここでも、仏教で説く「三毒」(貪・瞋・癡)について触れようとも思うのですが、この我々僧侶の世界でさえこの三つの毒に犯されている方はたくさんいます(私自身も含めてですが......

よく「言葉は凶器である」と言いますが、まさにその通りですよね。ここ数年の教育現場(学校)で起きた「いじめ問題」などを見てもそれは一目瞭然です。「言葉」ひとつで人を殺生することは十分可能なのだと思います。
この「三つの毒」に犯された言葉というのは、そういう意味でも十分に殺傷能力を兼ね備えています。ゆえに、仏教で「愛語」を説く意味は重要なのでしょう。「愛語」とは、単に相手にとって耳触りのよい言葉ではなく、「同事」に根差した深く心に染みる言葉でなくてはならないと思います。ゆえに、時に「言葉」を失う時さえあるのです。
その毒に犯された「言葉」を発した本人はいたって楽でありましょう。しかし、ここで重要なことは、言葉を吐いた人は楽になれても、吐かれた側は代わりに新たな荷物を背負わなければならないという悪循環です。
この厄介な荷物を背負った人(背負わされた人)は、手当たり次第に次の標的を探し始めます。例外なく私も、次に荷物を背負わせる相手を無意識のうちに探している自分に気付かされる時があります。
結構そういう時って、自分にとって甘えて当然の人が標的になりやすいんですよね。時にそれが家族であったり、恋人であったり......実は一番愛すべき人、大切にしなければならない人に矛先が向く場合が多いんです。
だから、恐いなって感じます。 だから、荷物を背負ってナンボだな、と思うんです。僧の身なれば、「負の連鎖」の犠牲者に家族や他人を蒔き込んではいけないと思うのです。
私の周りには反面教師の僧侶がたくさんいます。荷物を降ろして(他人に背負わせて)楽になりたがる人、既になっている人がたくさんいます。正直そういう方を尊敬する気にはなれません。でも、本当に恐いなって思うことは......いつ私がその相手にとって反面教師になるか分からないという点です

この「三つの毒」を解毒することは困難......というか、不可能に近いんです。その重さに耐えられなくなってしまった時に、また新たに傷付く人の犠牲のうえに自分の人生が成り立つ「負の連鎖」が始まります。
だから人は、常に毒に犯された存在である自分を自覚する必要があるのでしょう。ゆえに仏教では、「懺悔」を説き「布薩」を説くのだと思います......と、ここで私のライフワークにつながりましたな

おっとっと、話が逸れてしまいそうな......

やはりこういうことを書き綴るということは、今回は「とある方」への「とあるメッセージ」ではありますが、これはもう自分自身に向けた自戒の言葉でもあるということです。
「毒に犯された言葉」は人を殺生する事も可能ですが、逆に「ありがとう」という愛語の一言で人に生命(いのち)を吹き込むことも可能です。
僧の身なれば、後者の生き方を志すべきでしょう。毒がある花ほど美しいと言いますが、ここでの毒というのは「三つの毒」にこそ当てはめたいものです。毒があるからこそ(人の痛みが分かるからこそ)、咲かせた花(愛語)は美しいのです。
まずは、荷物を背負う覚悟を決めるということ、これは大なり小なり「負の連鎖」を自分で断ち切る「誓願」を持つことです。この個人レベルでの「負の連鎖」を断ち切る努力が、しいては国家レベルでの悲しい歴史に終止符を打つきっかけになることを願って止みません。
遠い道のりではありますが、ご縁があってこの世界に身を置く以上、まずは荷物を背負ってみる努力から始めてみましょう。それが「負の連鎖」を断ち切ることに繋がっていく訳ですから......。
とある方への、とあるメッセージでございました




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以前お話を聞かせていただいた内容と今回の記事が重なりました(って、管理人さんが私の想っている別人の方の場合はスミマセン)。
この世界は、家風とか室中という言葉を都合よく用いる傾向があり、よくよく調べてみると、それが教義や清規とまるっきり関係ないところで受け継がれている場合が非常に多いことに気づきます。
徒弟教育しか学ぶ方法がなかった時代はそれでも良いのでしょうが、誰しも安居をして大学で仏教を勉強できる環境が整ってきた現代では、逆に弊害の方が多いような気もしています。
私の地方では、ある時代にS寺に安居した方々が猛威(!?)をふるっており、その時代にしか通用しない、しかも地域限定の家風や室中が蔓延している現実があります。
そうなると、E寺で安居してきた若手などは、最初から排除の対象であって、時代にそぐわないやり方などが押し付けられ、教区の法要では停滞した空気が漂っている点は否めません。
なぜ、ある世代の方々はもう少し柔軟な幅広い対応ができないのでしょうか?逆に井の中の○○的な感じに見えてしまい、時に同情してしまうときさえあるくらいです。
これは、同じ若手の目から見ても健全な形とは言えません。地域限定の法式だけならまだしも、旧態依然の酒席でのマナー、一般社会と比べると突出して高い喫煙率、本当にお檀家さんには見せられない光景が今でも繰り広げられる現実があります。
身内の世界の論理でしかない家風や室中を大事にするのもいいかもしれませんが、逆にお檀家の方にとってはどうでも良いことで、逆に酒席のあり方とか喫煙に関して僧侶の資質が問われそうな気がしてなりません。
もちろん法式も大事ですが、もう少しお檀家の目というのに気を使う必要があるのではないでしょうか。
恐らく以前お聞かせいただいた話と、今回の記事が私の中でつながりましたので、勝手にぁのた方が管理人だと思い初コメいたしました。
もし、違っていたらごめんなさい・・・・
たくさんのご意見ありがとうございます
コメントいただいた点、触れてある事例が推測でしか計れず、気の効いたお返事ができないかもしれませんが......要は諸々の事例を含めて「僧侶は荷物を背負ってナンボ」ということを言いたかっただけです
理不尽に対する正義は決して否定しませんが、その正義を安売りをするぐらいだったら荷物を背負う方が仏教の教えに適う生き方だと考えました。
今後とも宜しくお願い申し上げます
時にうちの室中家風に従って進退すると規範以外の勝手なことをするなと怒鳴られ、時に軌範に従って進退をするとS寺ではそんなことしないと怒られ、挙句の果てに規範が間違っているともまで言い出す始末です。それって規範がどうこうじゃなくてS寺とE寺の対立じゃないかって思うことが多々ありますよ。
それは理不尽に当たらないのでしょうか?
それとやたら酒の席でのマナーに厳しすぎる!まるでそれをこなせないと一人前じゃないような室中家風は、こういう時代だからこそ見直してもらいたいものです。平成宗統復古は起きないのでしょうか?
この本来どうでもいいような事で上下関係を維持する室中家風は、そろそろ見直す時期に来ていると思います。
再びコメントありがとうございます
頂いたコメントの私なりの回答を、以下に記事にしてみました
http://blog.goo.ne.jp/fukyo-net/e/092937fd706b7dbc89e2f7d86de16ec5
あくまでもある種の推測を前提に書き綴りましたが、意図するところに反した内容であればご勘弁願います