
最近、宗門のとある研修会にて人権学習を受講する機会がありました。
常の如く、その人権学習でもある「伝道句」の文言が課題として取り上げられ、その文言について受講者間で様々な意見交換が為されました。
この「伝道句」が教化的な文言として適切か否か、また有効であるか否か、果てはその是非についてまで侃侃諤諤の議論が交わされました。
今回の研修でも、同じ文言から様々な意味や解釈が派生し、人によってこんなにも受け取り方が違うものかと、改めて言語機能が持つ可能性と危険性について認識する事ができました。
今回はその「伝道句」の是非を論じることが目的ではないので、敢えてその文言の掲載は差し控えますが、この種の議論を通じて個人的に感じた事をつらつら書き綴っていきたいと思います。
何度か宗門の人権学習に参加された経験のある方はお分かりの様に、「伝道句」等に象徴される教化的文言から受け取れる印象(解釈)というのは、極端な場合は別として、一水四見の如く千差万別である事が分かります(因みに、今回取り上げられた伝道句は極端な事例とは別のものです)。
その事からも、「伝道句」の文言がどの様に解釈されるかについては、あくまでも受け取り手側の主観的な判断に委ねられる事になります。
であるならば、「伝道句」等の教化的文言に関しては、不特定多数の方々が目にする機会を鑑み、まずはその文言が受け取り手側にどの様な印象を与えるかについて、客観的な検証が為されるべきでありましょう。
この場合、「私はこう感じる」といった主観的な判断に基づく主張は二の次になるものと感じました。
もちろん議論の過程において、主観的な判断に基づく解釈事例の提示はあって当然でしょうが、最終的には「俺はこう思う。だから是であろう」という判断基準よりも、「俺はこう思うが、こう解釈される危険性もある。だから非であろう」といった判断基準の方が優先されるべきものと感じました。
教化資料は、その作成者の世界観を表現する芸術作品ではないゆえ、その作品から何を感じるかという主観的な判断よりも、その作品が閲覧者に対してどの様な印象を与えるか、といった客観的な判断が求められるものと思います。
そのリスクの有無や程度によって、教化的文言としての「伝道句」の評価は為されるべきでありましょう。
よく、その言葉に対する評価基準を指して「言葉狩り」と称する場合がありますが、作家が自らの世界観を言葉をもって表現する「小説」とは異なり、「伝道句」は意味が正しく伝わって初めて教化として成り立ちます。
結果的に相手に誤解を生じさせては、「嘘も方便」ならぬ単なる嘘でしかなくなってしまう事でしょう。「表現の自由」よりも「表現のリスク」が考慮されて然るべき問題なのかと感じました。
やはり、「伝道句」等に象徴される教化資料の場合は、法を受け取る側に重きを置いた判断基準が尊重されて然るべきであります。そういった意識や姿勢が、同悲同苦の立場に立った同事行の実践に繋がっていくのではないでしょうか。
人権学習を通じて、その様な事をつらつら考えてしまいました…。
更新の励みになるので、良かったらクリックして応援して下さい




※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます