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ポエムティックな「坐禅観」

2008年01月25日 10時39分58秒 | ポエムティック仏教

今日、ふとした事から「24時間、戦えますか」といった某健康ドリンクのCMコピーを想い出した。

なぜなら、「24時間、足組めますか」といった事を考える機会があったからだ。

先日、「坐禅とともに生きる」と題されたある布教師の法話を聞く機会があった。

話の内容としては、「只管打坐」を標榜する禅宗の僧侶であれば、空いた時間全てを坐禅に費やすぐらいの気概が必要だという内容であった。

至極真っ当な内容で、非常に参考になる法話であったが、逆に教科書通りの内容に少し判然としない気持ちを抱いたのも事実であった。

出張先でホテルに宿泊した朝などは、私は日にちに左右されない自称・放參日を設けて日頃の疲れを癒すようにしている。
この時点で私は禅僧としての気概を喪失しているのかもしれない

まぁ、自虐的なカミングアウトはさておき、今回はこの「坐禅ともに生きる」という言葉の意味についてつらつら考えてみた。

冒頭紹介した法話によれば、この「坐禅とともに生きる」という言葉が意味する坐禅観というのは、足を組んだ時間のみに制約を受けるものである。

確かに、坐禅を語る上でその要素(足を組んだ時間=坐禅の時間)は決して無視できないものだし、また否定されるべきものではない。

その時間的制約へのアンチテーゼとして、坐禅の時間を削っていたらそれこそ本末顛倒であろう。

がしかし、足を組んだ時間のみで計られる坐禅観というものも如何なものかと正直感じた。

誤解を恐れずに極論すれば、本来「坐禅とともに生きる」という言葉が意味する坐禅観とは、足を組んだ時間のみに制約されるものではないだろう。

まさに冒頭述べた「24時間、足組めますか」のモノサシのみで計られる坐禅であってはならないものと考える。

結局何を言いたいのかと言うと、坐禅を行じ切っている人というのは、足を組む「時間」や「場所」などに制約を受けない真の自由人(坐禅人)なのだということである。

もっと簡単に言ってしまえば、単に上っていようと下りていようと、姿勢・呼吸全てにおいて坐禅人そのものなのである。

その意味で言えば、「坐禅とともに生きる」という言葉の意味は、坐を離れた日常底においても坐禅に徹し切れる人を指して言うのであろう。

少なくとも、「時間」と「場所」に制約された、条件付きの坐禅に縛られた生き方を指して言うのではない。

我々は、真の坐禅というのは単上のみに拘束されるべきものではないという事を知るべきである。

もちろん坐している最中は単上の坐に徹し切ることは当然であるが、単から下りたら坐禅は終わりという行住坐臥が際断された世界の話ではない。

単から下りた全ての日常底、普段の生活における物腰、他者と接する際の態度、あらゆる修羅場に遭遇した時の胆力等など、全てにおいて坐禅人は坐禅人足り得る所作進退が現れるのである。

その行住坐臥全てに坐禅人であり続ける事が禅師家たる所以なのであろう。

そんな禅師家に一歩でも近付きたいと思った今朝の一炷であった。

※以前アップさせた「ポエムティックな悟り」同様、想うがままに書き綴った雑感なので軽く読み流して下さい。

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7 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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失礼いたします。 (tenjin95)
2008-01-25 17:19:26
> 管理人様

この辺は、難しいところですよね。ただ、拙僧の確信として敢えて卑見を申し上げますと、おそらく坐禅以外もまた、坐禅そのものだというのは、坐禅に醇熟した方だけが道い得ると思うんです。坐禅を特別なものと思わないほどに、自然と坐る時、おそらくそういう考えになっているのかな?と思う拙僧でございます。
返信する
助化師さま (布教師@Net)
2008-01-25 23:20:37
まさに「難しい」の一言ですね。
この「難しさ」には正直にならざるを得ません。
前回の「悟り」記事同様、「ポエムティックな...」と敢えてぼやかしたのも、その「難しさ」なるが故だったのかもしれません。
坐禅を時間や場所に制約を受けないものと規定するのも危険でしょうが、その逆もまた然りでありましょう。
まさに「坐禅に醇熟した方だけが道い得る」という部分に異論はありません。
ただ、今までの自分があまりにも行住坐臥を際断して捉えていた傾向があり、自省の意味も込めて書き残しておきたかった記事なのかもしれません。
私も早く「坐禅を特別なものと思わないほどに、自然と坐る」坐禅人になりたいものです
返信する
Unknown (Unknown)
2008-01-26 11:28:22
はじめまして、失礼いたします。

>只管打坐を標榜する禅宗の僧侶であるならば、空いた時間すべてを坐禅に費やす気概が必要だ・・・

プロとしては、あたり前のことですよね。大工さんは、大工仕事で、料理人は料理で、お百姓さんは、田んぼで、空いた時間をつかっていると思います。一般の人は、自分にはなかなかできないが、禅宗の僧侶の方は日夜、坐禅をされておるというとで尊敬もされているのです。

>単をおりた日常低・・・坐禅人は坐禅人たる所作身体が現れる

願わくば、単におられる時間で一般人を引っ張ってください。

>行住坐臥すべてに、坐禅人でありつづける・・・
 そんな禅師家になりたい・・・

期待しております。
評論家ではなく、プロの坐禅人、お師家様になってください。
道元禅師様を師と仰ぐ宗教的団体ができております。かなり坐禅をするかたが集まっております。
道元禅師の教えをきっちり伝承されないと曹洞宗さんの宗教基盤があやうくなるかもしれません。

駄弁を労しまして、失礼致しました。
今後もできましたら宜しくお願いいたします。
返信する
Unknown (枯木堂)
2008-01-26 11:30:33
失礼いたしました。
上記のコメント人は、枯木堂ともうします。
返信する
追伸 (枯木堂)
2008-01-27 01:07:01
「正法義」は、青山社発行です。
拝読されていなかったら、お勧めします。

いらんことかもしれませんが。出過ぎたかも?
返信する
再度コメントありがとうございますm(__)m (布教師@Net)
2008-01-27 11:09:27
> 枯木堂さま

再度コメントをお寄せ頂きありがとうございますm(__)m

>いらんことかもしれませんが。出過ぎたかも?

いえいえ
決してそのような事は思っておりません。
コメントをお寄せ頂き、大変ありがたく思っております。
改めて宗門の坐禅というものに想いを巡らしていたものですから......。
それで、自分の中で少し整理をしておりました。
坐に親しみながらも、坐禅以外の場でご活躍の宗侶もいる訳で、自分の中で坐と坐以外の仏法について考えておりました。
私もいずれ住職となる身で、そうなると檀信徒の方々と接する機会において、決して坐のみに時間を割けない事情が出てきます。
であるならば、坐以外の場で私にとっての「只管打坐」とは何なのかについてつらつら考えてみた訳です。
坐禅を標榜する宗門ならば、その「只管打坐」の精神は坐のみに縛られるものではないという漠然とした想いを抱き、「ポエムティックな...」という前置き(言い訳)をしながら「行住坐臥が際断しない坐禅」について考えてみました。
今回の『正法義』同様、また色々教えて頂ければ幸いです。
返信する
おひさしぶりです。 (参禅者)
2008-02-01 17:58:20
以前、参禅指導でお世話になったものです。
友達から聞いてやってきました。
私のような社会人にとっては坐禅堂以外の坐禅の精神というのは説いてもらえるとありがたい限りです。
只管打坐に根ざした部分を忘れずに、これからも社会で頑張っていきたいと思います。
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