
お彼岸明け、今日が職場復帰の初日でもあります

お彼岸明けから約一週間、私は自分が修行をさせて頂いたお寺の開山忌に隨喜をしてまいりました。
その開山忌隨喜が終わり、週末のリハビリ期間(

ある程度の期間、娑婆世界から隔離された叢林に籠もっていると、ある意味社会的な時間が止まっているので元の生活に戻るまで多少の時間がかかります

今朝、出勤前に久々ネクタイを締めたのですが、なかなかうまく締められずに思わず遅刻しそうになってしまいました

器用な方は頭の切り替えも容易なのでしょうが、元来不器用な私は、リハビリ期間を経ても中々元の生活のペースに戻れず、この様な状態でこれから年末にかけての激務を乗り切れるかどうか今から不安でもあります

今日も職場に着いたら、留守の期間中手付かずの仕事がどっさりと机の上に溜まっており、思わず目が点になってしまいました

「現実逃避」という言葉がありますが、激務に忙殺される日常から離れて、仏教の世界に身を投げ入れる事はある意味「現実逃避」なのかもしれません。
しかし、その現実の日常に「不条理」を感じ、仏教の世界に身を寄せる生き方を決意する事を「出家」と呼ぶのであれば、「出家」と「現実逃避」は明らかに一線を画さなければならないでしょう。
現実にお寺と職場の二足のワラジを履く私は、仏教の世界に身を寄せる期間を「現実逃避」としてではなく、定期的な「心のリセット期間」と位置付けております。
「心のリセット」というと抽象的ですが、私なりに表現すると「整体に行く」感覚とよく似ています。
多忙な日常により肉体に歪みが生じ、その肉体の歪みを整体療法により矯正できるのであれば、私にとってお寺の生活とは「心の歪み」を矯正してくれる場所とも言えます。
整体療法が知らず知らずのうちにずれてしまった骨や関節等を矯正するように、仏教の世界に身を置く事が知らず知らずのうちに歪んでしまった私の心を矯正してくれる事にも繋がります。
また、それは「弦楽器の弦の調整」にも似ている感じがします。
張り過ぎた(緩み過ぎた)弦を調整する事により良い音色が奏でられる様に、「心の弦」を調整する事により良い人生を奏でられるようになりたいものです。
「張り過ぎず緩み過ぎず…」の精神は、まさに仏教で言うところの「中道」の精神にも繋がるのではないでしょうか。
最近は年齢とともに、「心の弦」の調整後にすぐ元の生活のペースに戻れない“もどかしさ”も感じますが、歪んだ心の状態に慣れてしまう事の方が逆に不安であり、自らの尻を叩いて仏教の世界に身を置く様に努めています

仏教の世界に触れることで「心の弦の調整」が計れるのであれば、定期的に心を落ち着けて坐禅を組んでみる事も悪くないと思います。
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