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散策:国分寺

2015-05-07 17:25:54 | 日記
散策:国分寺

 2015年5月6日、今日は近くに住んでいながら廻ったことがなかった国分寺の史跡等を巡ってきました。殿ヶ谷戸庭園はそんなに広くはありませんが、撮影ポイントがたくさんあり、写真愛好家にはたまらない場所ではないでしょうか。私も感動し、秋の景色も見たいと思っています。
以下がその順路です。

(全行程:約6.1Km)

地図1

国分寺駅(JR中央線)
↓250m 4分
殿ケ谷戸庭園(国指定名勝)
   都立殿ヶ谷戸庭園は、国分寺崖線の南側斜面を利用し、湧水と植生を巧みに生かした回遊式林泉庭園です。公園の名称は、昔、この地が国分寺村殿ヶ谷戸という地名であったことに由来しています。
もともとは大正2年(1913年)に作られた別荘で、昭和4年に三菱財閥の岩崎家の所有となり、和洋折衷の回廊式庭園となったものです。昭和49年に東京都が購入し、都立公園として有料開放されています。平成23年9月には、に選ばれており、また園内の「次郎弁天の池」は東京都名湧水57選にも選ばれています。
    
園内図       中門           大芝生
       
    萩のトンネル        花木園
      
     竹林      馬頭観音       湧水源
       
  次郎弁天池     紅葉亭        鹿おどし
↓1.1Km 15分
真姿(ますがた)の池湧水群(全国名水百選)
   真姿の池をはじめとする崖線下の湧水群は、「お鷹の道」と合わせ、環境庁の「全国名水百選」のひとつとして選ばれている。嘉祥元年(848年)、絶世の美女といわれた玉造小町が病気に苦しみ、病の平癒を願い全国行脚をした際に、武蔵国分寺で願をかけたところ、「池で身を清めよ」との霊示を受け、元の美しい姿に戻ったとの言い伝えから「真姿の池」と呼ぶようになった。現在は弁財天が祀られている。この湧水群は「野川」の源流で、世田谷区の二子玉川で多摩川に合流している。


 
   地図2
↓80m 1分
おたかの道
   このあたりは、江戸時代に尾張徳川家の御鷹場に指定されていた。それにちなんで、崖線下の湧水が集まり野川にそそぐ清流沿いの小径を“お鷹の道”と名づけ、現在約350メ-トルが遊歩道として整備されている。
 
                       やさいや(この角を曲がった)
↓480m 7分
七重塔跡
 塔は、「金字金光明最勝王経(きんじこんこうみょうさいしょうおうきょう)」を安置する国分寺の重要な施設で、3間(約10メートル)四方の礎石建物で、高さは約60メートルほどあったと推定されている。現在、中央にほぞ穴(心柱を受ける穴)がある心礎を含め7個の礎石が残っています。

↓400m 5分
武蔵国分僧寺跡(国指定史跡)
   奈良時代中期、聖武天皇は仏の力で国を安定させるため、諸国に国分寺の建立を命じ、武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置された。鎌倉時代末期の「分倍河原の戦い」で焼失し、現在は史跡として整備中です。
 
↓150m 2分
おたかの道湧水園
   国分寺崖線の自然を残す園内の北には、湧水源を観察できる場所がある。園の入口には、江戸時代後期(1848年)に建てられた旧国分寺村の名主家の長屋門がある。また、園内に「武蔵国分寺跡資料館」がある。
   [史跡の駅 おたカフェ] 
史跡の駅は、「まちの駅」の一つで、トイレのある無料休憩所兼案内所としてつくられた。おたかの道湧水園の入場券を販売している。
 
   長屋門     七重の塔復元模型
 
   湧水源
 
      武蔵国分寺跡資料館
↓80m 1分
武蔵国分寺
   武蔵国分寺は焼失したが、江戸時代の社寺保護政策により徐々に復興され、享保18年(1733年)に本堂が建立された。現在の本堂は昭和62年に改築されたもので、門前に楼門があり、境内には薬師堂、文化財保存館、万葉植物園などがある。

[楼門](武蔵国分寺の門前)
国分寺の門前にあり、前沢村(現東久留米市内)の米津寺の楼門を明治28年に移築したもので、江戸時代の建築様式をよくとどめた、風格ある建物です。2階には十六羅漢像(現在13体)が安置されている。

[万葉植物園](武蔵国分寺内)
万葉植物園は、万葉集に詠まれている植物を集め、往時をしのぶよすがにと国分寺前住職星野亮勝氏により、造られた。現在、市の天然記念物に指定されている。園内には植物ごとに例歌を記した説明板がある。
    
↓100m 2分
仁王門
国分寺境内にあるこの門は、宝暦年間(1751年から1764年)に建てられた八脚門で、木材の一部は建武2年(1335年)新田義貞が再興した薬師堂の古材を使用していると伝えられている。門の左右には、作者不明で享保3年(1718年)に作られた阿(口を開けている)吽(口を閉じている)の仁王像が安置されている。
   
仁王門        仁王像(阿)      仁王像(吽)
↓100m 2分
薬師堂
国分寺境内の薬師堂は、建武2年(1335年)新田義貞の寄進により、武蔵国分寺史跡の金堂跡付近に建立されたと伝えられており、現在の薬師堂は宝暦年間(1751年から1763年)に再建された。正面厨子内には 国指定重要文化財の『木造薬師如来坐像』が安置されている。また堂内正面には深見玄岱(薩摩藩及び江戸幕府登用の儒書家)が東大寺の寺額を模して書いた「金光明四天王護国之寺」の額がある。
     
[四国八十八ヵ所巡り石仏群] (薬師堂の裏側)
四国八十八ヵ所を模した石仏で、札所の番号や詠歌が刻まれている。

八幡神社(薬師堂の横から入ることができる。) 
 
土師(ほじ)竪穴住居跡(国分寺公園内。八幡神社から入れる。)
   薬師堂の西側で見つかった4つの住居跡のひとつ。名称の「土師」は「土師器」を使用していた時代(古墳時代から平安時代)という意味。

↓270m 4分
東山道武蔵路跡
   東山道は都と各国府を結ぶ古代交通路である七道の1つで、武蔵路は上野国(現在の群馬県)から南下して武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)です。

↓710m 10分
武蔵台遺跡 敷石住居跡
   武蔵台東遺跡では、縄文時代の竪穴住居跡が80軒ほど見つかっている。ここでは、柄鏡形敷石住居と呼ばれる縄文時代中期の住居跡を移して展示している。
 
↓210m 3分
伝鎌倉街道
鎌倉当時は武蔵国内を通過する主要道路は上の道、中の道、下の道と呼称されていた。鎌倉以前の幹線道路である東山道と道筋の重なる「上の道」が、現在の鎌倉街道にあたる。鎌倉から町田・府中を経て、国分寺市内の武蔵国分尼寺跡西側→泉町交差点付近→小平を通り、上野(群馬県)、信濃(長野県)方面にのびており、「武蔵国分尼寺跡」の北側に約120mの道が「鎌倉上道」の名残と云われて保存されている。
[伝祥応寺跡、塚跡] 
  敷石住居跡から170m先の伝鎌倉街道沿い(国分尼寺跡から伝鎌倉街道に入って90mの所)で西側の階段を上がると伝祥応寺跡、東側を上がると塚跡がある。いずれも中世の遺跡で、伝祥応寺は、国分寺市本多四丁目の祥応寺の前身寺院であったと言われ、塚も伝祥応寺跡と関係する修法壇跡と推測されている。
   
 伝祥応寺跡      塚跡

 伝鎌倉街道
↓130m 2分
黒鐘公園
遺跡地帯に位置する黒鐘公園は、国分尼寺跡と伝鎌倉街道に隣接しています。公園内の池は、水量がだいぶ減ったが崖線からの湧水でできてる。桜の名所としても知られてますが、高低差のある地形を利用したすべり台やクライミングウォールなど遊具が豊富に設置されており、子ども連れに人気のスポットです。
 
↓160m 2分
武蔵国分尼寺跡(国指定史跡)
   「日本の歴史公園100選」に選定され、公園には尼寺の主要伽藍の規模、基礎工事の様子を見学できるようになっている。
   
           掘立(ほったて)柱建物跡  
 
斜めに立つ幢竿(どうかん)跡
 
  尼坊跡       金堂跡     金堂前面に建てられた幢竿跡


  地図 3
↓640m 8分
万作の木公園
万作の木公園は、武蔵国分寺参道口の跡が発見された場所です。
万作は、3月ごろにひものような花が咲くが、まだ雪の残っている山中でも「先ず咲く」が訛って「まんさく」、また花が枝に満ちるさまから「豊年満作」に見立て、その名が付いたそうです。

[参道口]
   参道口は古代の三叉路(道の色で区分されている。)で、北に向かう道(向かって右)は武蔵国分寺に向かい、西北に向かう道(直進)は東山道武蔵路か国分尼寺に、南東に向かう道は武蔵国府に向かっていたようです。また、北に向かう道の両脇から門柱状遺構が発見されました。
     
↓925m 12分 
北府中駅(JR武蔵野線)

歩いて回ったように書きましたが、実は自転車で回りました。だけど国分寺は坂が多いので自転車を押して歩くことも多く、遊歩道は自転車に乗っての通行は不可と、かなり歩いて疲れました。特に「真姿の池湧水群」への道は階段で、押して降りるのに苦労しました。(上りだったらギブアップでしたね。)
次はどこに挑戦するか検討中!!

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