アウグスティン・ハーデリッヒ、回復力をバネに演奏へ復帰
2008年5月25日
ポール・ホースレー
カンザスシティ・スター
まだ歳若いアウグスティン・ハーデリッヒの人生は、大きく二つに分けられる。火災事故の前とその後である。トスカーナ地方の農場で育ったドイツ人ヴァイオリニストは、少年の頃から、すでに新進のヴァイオリン名手として人々の注目を集めた。7歳でコンサート・ステージに立ち、10歳で作曲をはじめ、13歳で神童としてヨーロッパにその名を知らしめた。
けれどもハーデリッヒは、15歳の時、実家の農場で火災事故に遭い、全身の58パーセント以上にレベル2度、3度の大火傷を負う。
事故後の数ヶ月間は、ヴァイオリンを持ち上げることもできなかった。けれども、まもなくハーデリッヒは弓を持つ腕や顔に負ったひどい火傷にも関わらず、演奏の技巧がまだ失われてないことに気づく。
「若い人や子どもの方が、こういった状況に対処しやすいんだと思います」現在24歳のハーデリッヒは話す。「子どもには、なぜだか強い回復力があります」
一年半に及ぶ治療と皮膚移植を経て、ハーデリッヒは2001年の4月、ドイツのエルフルトで事故後初のリサイタルを行う。
「演奏は、思っていたよりは楽でした」とハーデリッヒは話す。「演奏前は、人々の前で2時間も演奏できるか心配でした」
しかし、演奏は可能だった。そしてハーデリッヒは、人前で自意識にとらわれない態度をすばやく身につけていった。5歳の時からヴァイオリンを弾いてきたハーデリッヒは、再び体力、スタミナそして技巧の上達に力を注ぎ始める。
「身体の動きには問題はありませんでした」とハーデリッヒは話す。「でも、体力を取り戻すまで、まだ時間が必要でした。それに、練習に必要な精神的エネルギーがまだ充分ありませんでした。演奏を上達させるためには、大きな精神的エネルギーが必要です」
次に、ハーデリッヒはニューヨーク州のシャトークア協会音楽祭から招待を受け、ひと夏のあいだ練習に参加し、音楽祭の楽団とブラームスの協奏曲を演奏することになる。
音楽家および聴衆はただちに、この17歳が新聞の見出しを飾る以上の、特別な才能を持ち合わせていることに気づく。
「たったの数小節だけで、すでにハーデリッヒの完璧なイントネーション、際立ったテクニックは明らかであった」地元紙の批評家が後日、演奏を評している。「弱冠17歳で、彼はすでに熟練した音楽家であり、ヴァイオリンの名手である」
活動を再開したばかりだったハーデリッヒは、イタリアのリボーノにあるマサカーニー音楽院でディプロマを取得する。
ニューヨークに事務所を構える有力マネージャー、ミッシェル・シュミットが、ハーデリッヒの噂を聞きつけ、ただちに彼をスカウトする。
シュミットは初めにハーデリッヒのレコーディングを耳にし、演奏に惹きつけられる。そして、ついにハーデリッヒの演奏を生で聴いた時、シュミットはそこに特別なものを見出した。
「まだ、どれほど成長が必要かはわかっていましたが、いずれにせよ彼をスカウトしました」とシュミットは話す。その後、ハーデリッヒはジュリアード学院へ入学、瞬く間にジュエル・スミルノフの一番弟子の一人となる。
「彼はドロシー・ディレイの生徒でした」ジュリアード弦楽四重奏団のメンバーで、ディレイの生徒だったスミルノフについてハーデリッヒは話す。ディレイは、イツァーク・パールマンからサラ・チャンに至る多くのヴァイオリニストの指導にあたったジュリアードの伝説的な教師である。
「だから、そこにはあの“Big tone”がありました。それはジュリアードが作り上げようとしていた音で、演奏に生かせるものでした」
ハーデリッヒはニューヨークの刺激的な多文化へすぐさま溶け込み、演奏機会も急増する。
「ニューヨークに来たとたん、彼は開花しはじめました」シュミットは話す。「彼は言わば、神童でした」
ロシア奏法を受け継ぐヨーロッパの教師陣から指導を受けたハーデリッヒは、次にディレイの伝統である大きく、太いまろやかな音を学ぶことになった。その結果、二つの伝統が溶け合う興味深い音色がそこに生まれた。
ハーデリッヒはジュリアードでアーティスト・ディプロマとグラデュエート・ディプロマを取得し、マールボロ音楽祭やラヴィーナ音楽祭などに参加する。
しかし、ハーデリッヒの名が一躍知れ渡るきっかけになったのは、2006年度インディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールでの優勝だった。同コンクールで、ハーデリッヒは委託作品部門、ベートーヴェンによるソナタ部門、ベートヴェン以外のソナタ部門、バッハによる独奏部門、アンコール曲部門、古典派協奏曲部門、そしてロマン派協奏曲部門を含む9つの賞に輝いた。
優勝により、3万ドルの賞金、純金のメダルを得るとともに、ストラディヴァリが製作した最高の楽器の一つ、1683年製作のストラディヴァリウスを4年間貸与されることになる。
コンクール優勝を皮切りに、このヴァイオリニストの演奏を聴こうと、オーケストラやコンサートシリーズの出演依頼が舞い込みだした。ダラス・モーニングニュースの音楽批評家、スコット・キャントレルはハーデリッヒを次のように評している。「演奏に努力のかけらさえも感じさせない卓越した演奏家であり、誇示するところが全くない音楽性を持ち合わせる」
現在、ハーデリッヒの前には無限の可能性が広がっているかのようである。すでにカーネギー・ホールで初舞台を踏み、近々また同ホールで2回演奏を行う予定である。
来シーズンには、東京交響楽団、ヒューストン交響楽団とのコンサート、そしてケネディー・センターでの出演が予定されている。
今後のキャリアについてハーデリッヒは話す。「これからどうなっていくか、見ていこうと思います。今向かっている方向には満足してます・・・とても満足してます」
2008年5月25日
ポール・ホースレー
カンザスシティ・スター
まだ歳若いアウグスティン・ハーデリッヒの人生は、大きく二つに分けられる。火災事故の前とその後である。トスカーナ地方の農場で育ったドイツ人ヴァイオリニストは、少年の頃から、すでに新進のヴァイオリン名手として人々の注目を集めた。7歳でコンサート・ステージに立ち、10歳で作曲をはじめ、13歳で神童としてヨーロッパにその名を知らしめた。
けれどもハーデリッヒは、15歳の時、実家の農場で火災事故に遭い、全身の58パーセント以上にレベル2度、3度の大火傷を負う。
事故後の数ヶ月間は、ヴァイオリンを持ち上げることもできなかった。けれども、まもなくハーデリッヒは弓を持つ腕や顔に負ったひどい火傷にも関わらず、演奏の技巧がまだ失われてないことに気づく。
「若い人や子どもの方が、こういった状況に対処しやすいんだと思います」現在24歳のハーデリッヒは話す。「子どもには、なぜだか強い回復力があります」
一年半に及ぶ治療と皮膚移植を経て、ハーデリッヒは2001年の4月、ドイツのエルフルトで事故後初のリサイタルを行う。
「演奏は、思っていたよりは楽でした」とハーデリッヒは話す。「演奏前は、人々の前で2時間も演奏できるか心配でした」
しかし、演奏は可能だった。そしてハーデリッヒは、人前で自意識にとらわれない態度をすばやく身につけていった。5歳の時からヴァイオリンを弾いてきたハーデリッヒは、再び体力、スタミナそして技巧の上達に力を注ぎ始める。
「身体の動きには問題はありませんでした」とハーデリッヒは話す。「でも、体力を取り戻すまで、まだ時間が必要でした。それに、練習に必要な精神的エネルギーがまだ充分ありませんでした。演奏を上達させるためには、大きな精神的エネルギーが必要です」
次に、ハーデリッヒはニューヨーク州のシャトークア協会音楽祭から招待を受け、ひと夏のあいだ練習に参加し、音楽祭の楽団とブラームスの協奏曲を演奏することになる。
音楽家および聴衆はただちに、この17歳が新聞の見出しを飾る以上の、特別な才能を持ち合わせていることに気づく。
「たったの数小節だけで、すでにハーデリッヒの完璧なイントネーション、際立ったテクニックは明らかであった」地元紙の批評家が後日、演奏を評している。「弱冠17歳で、彼はすでに熟練した音楽家であり、ヴァイオリンの名手である」
活動を再開したばかりだったハーデリッヒは、イタリアのリボーノにあるマサカーニー音楽院でディプロマを取得する。
ニューヨークに事務所を構える有力マネージャー、ミッシェル・シュミットが、ハーデリッヒの噂を聞きつけ、ただちに彼をスカウトする。
シュミットは初めにハーデリッヒのレコーディングを耳にし、演奏に惹きつけられる。そして、ついにハーデリッヒの演奏を生で聴いた時、シュミットはそこに特別なものを見出した。
「まだ、どれほど成長が必要かはわかっていましたが、いずれにせよ彼をスカウトしました」とシュミットは話す。その後、ハーデリッヒはジュリアード学院へ入学、瞬く間にジュエル・スミルノフの一番弟子の一人となる。
「彼はドロシー・ディレイの生徒でした」ジュリアード弦楽四重奏団のメンバーで、ディレイの生徒だったスミルノフについてハーデリッヒは話す。ディレイは、イツァーク・パールマンからサラ・チャンに至る多くのヴァイオリニストの指導にあたったジュリアードの伝説的な教師である。
「だから、そこにはあの“Big tone”がありました。それはジュリアードが作り上げようとしていた音で、演奏に生かせるものでした」
ハーデリッヒはニューヨークの刺激的な多文化へすぐさま溶け込み、演奏機会も急増する。
「ニューヨークに来たとたん、彼は開花しはじめました」シュミットは話す。「彼は言わば、神童でした」
ロシア奏法を受け継ぐヨーロッパの教師陣から指導を受けたハーデリッヒは、次にディレイの伝統である大きく、太いまろやかな音を学ぶことになった。その結果、二つの伝統が溶け合う興味深い音色がそこに生まれた。
ハーデリッヒはジュリアードでアーティスト・ディプロマとグラデュエート・ディプロマを取得し、マールボロ音楽祭やラヴィーナ音楽祭などに参加する。
しかし、ハーデリッヒの名が一躍知れ渡るきっかけになったのは、2006年度インディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールでの優勝だった。同コンクールで、ハーデリッヒは委託作品部門、ベートーヴェンによるソナタ部門、ベートヴェン以外のソナタ部門、バッハによる独奏部門、アンコール曲部門、古典派協奏曲部門、そしてロマン派協奏曲部門を含む9つの賞に輝いた。
優勝により、3万ドルの賞金、純金のメダルを得るとともに、ストラディヴァリが製作した最高の楽器の一つ、1683年製作のストラディヴァリウスを4年間貸与されることになる。
コンクール優勝を皮切りに、このヴァイオリニストの演奏を聴こうと、オーケストラやコンサートシリーズの出演依頼が舞い込みだした。ダラス・モーニングニュースの音楽批評家、スコット・キャントレルはハーデリッヒを次のように評している。「演奏に努力のかけらさえも感じさせない卓越した演奏家であり、誇示するところが全くない音楽性を持ち合わせる」
現在、ハーデリッヒの前には無限の可能性が広がっているかのようである。すでにカーネギー・ホールで初舞台を踏み、近々また同ホールで2回演奏を行う予定である。
来シーズンには、東京交響楽団、ヒューストン交響楽団とのコンサート、そしてケネディー・センターでの出演が予定されている。
今後のキャリアについてハーデリッヒは話す。「これからどうなっていくか、見ていこうと思います。今向かっている方向には満足してます・・・とても満足してます」