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Musik von Augustin Hadelich

ヴァイオリニスト、アウグスティン・ハーデリッヒの演奏活動Note

記事 (バーミングハム・ニュース 2008年9月)

2010-05-13 | Articles
かつての神童、ストラディヴァリウスと共に旋風を巻き起こす
2008年9月27日
マイケル・ヒューブナー
バーミングハム・ニュース

精力的に活動する24歳のヴァイオリニスト、アウグスティン・ハーデリッヒが来週末、1863年製作のストラディヴァリウスを手に、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏する。

ブラームスの演奏に使用するこのストラディヴァリウスは、かつての所有者だったヴァイオリニスト、故ジョーゼフ・ギンゴールドにちなんで“ギンゴールド”と呼ばれる。ハーデリッヒは2006年度インディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールの優勝によって、同楽器を演奏することになった。

しかし、それには条件がある。同コンクールは4年毎に開催され、優勝者がこのストラディヴァリウスを演奏できるのは4年間だけである。

「残念ながらそうなんです」とハーデリッヒは話す。「2年後にはこのヴァイオリンを返さなくてはなりません」

ハーデリッヒはまた、200年前にフランソワ・トゥールテによって作られた弓を日ごろ使用しているが、ブラームスの演奏には別の弓を使うのだという。

「トゥールテの弓はとても軽いので、ロマン派協奏曲の演奏に要求される音量が出せません。ヴァイオリン自体も初期に作られたものなので、音量はけして大きくはありません。だから、楽器から出来る限りの音を引き出せる弓を使う必要があります」

イタリアでドイツ人の両親の元に生まれたハーデリッヒは、幼年時代を神童と呼ばれ過ごした。

「ある年齢に達し、神童と呼ばれる時期が過ぎると、それまで“神童”ということで関心を持っていた人びとは興味を失います。突然、“若さ”は何の意味も持たなくなります」

青少年期を迎えたハーデリッヒは、ヨーロッパ以外の大陸でより大きな成功を見い出す。ジュリアード学院でのアーティスト・ディプローマ取得、カーネギーホールでのリサイタル、フォートワース、東京、ケープタウン、メキシコ・シティなど、各地オーケストラとの共演、またハイドンの協奏曲を納めたCDがNAXOSから発売される。これらの躍進は、ハーデリッヒがかつてヨーロッパで得た名声をしのぐ勢いである。8月28日には、急病で出演をキャンセルしたジュリアン・ラクリンに代わり、ロサンゼルス交響楽団とハリウッドボウルでのデビューを果たした。コンサートの4日前に出演が決まったハーデリッヒに課せられた曲は、難曲で知られるかのプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第二番である。

「とても難しい曲です。でも僕の中に曲が甦ってきました。演奏はとても上手く行きました」とハーデリッヒは話す。

ロサンゼルス・タイムズのリチャード・S.ジネルがハーデリッヒの演奏を次のように評している。「・・・ハーデリッヒは会場の巨大なビデオスクリーンを意識してこれみよがしに大げさな演奏をするタイプの演奏家でもない。けれども、その演奏は聴衆を熱狂に包んだ。」

ジャスティン・ブラウンが前回ブラームスのヴァイオリン協奏曲を指揮した際、ソリストを務めたのは48歳のヴィクトリア・ムローヴァだった。ムローヴァはその堅苦しいとも取れる解釈によって「アイス・クィーン」と呼ばれたこともある。

「ムローヴァの演奏はとても抑制されたものでした」とブラウンは思い起こす。「ハーデリッヒの演奏は、ムローヴァとはずいぶん違ったものになると思います」

記事 (オレンジカウンティ・レジスター 2008年9月)

2010-05-06 | Articles
ヴァイオリニスト、火災事故による試練を乗り越える
2008年9月3日
ティモシー・マンガン
オレンジカウンティ・レジスター

土曜日にベライゾン・ワイヤーレス劇場でチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏するヴァイオリニスト、アウグスティン・ハーデリッヒは近頃多忙な青年である。2006年に栄誉あるインディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールで優勝して以来、ハーデリッヒのコンサート・スケジュールはぎっしりとつまっている。今年すでに、カーネギー・ホールで2度の演奏を行い、クリスマス・イブに3度目の出演が予定されている。アルバム製作も続々と予定されている。ナクソスからの最新アルバムではハイドンの3つのヴァイオリン協奏曲が収録され、2番目のアルバムの収録が近々予定されている。ハーデリッヒは先週の木曜日、急病のため出演をキャンセルしたヴァイオリニストに代わり、ハリウッド・ボールで思いがけないデビューを果たし、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番を演奏した。

24歳のヴァイオリニストは先日、ニューヨークより電話インタビューに応え、コンクール優勝によってもたらされた演奏活動への準備が、自分の中にできていたと語った。

「4年ほど前に、ジュリアードに入学するため初めてアメリカに来た時にもいつくかの出演依頼はありましたが、数える程でした。その後の2~3年は、演奏活動は多くありませんでした。そのため、練習に集中して演奏を磨く時間がたくさんあったように思います」

「そして、とうとうこのコンクールで優勝した時、それにともなう演奏活動をこなしていけそうな気がしました。もちろん、すごく神経の要ることです。でも、やっていけるんじゃないかという気がしました」

ハーデリッヒは1984年、ドイツ人の両親の元にイタリアで生まれ、トスカーナ地方のリパベラという村落近郊にある実家の農場で幼年時代のほとんどを過ごした。けれども、家庭には音楽が存在した。2人の兄はピアノとチェロを演奏していた。

「父は、僕と兄たちとの競争を避けるため、僕にはヴァイオリンを習わせることにしたんです。それはたぶん賢明だったと思います」

5歳でヴァイオリンを始めたハーデリッヒの最初の先生は、音楽家ではない父親だった。

演奏が上達すると、ハーデリッヒは近くの村々や教会で演奏するようになる。実家の近辺で(その頃必要となってきた)優秀なヴァイオリン教師を見つけるのは難しかったので、ハーデリッヒは家族とともに、ドイツへレッスンを受けにいくようになる。夏は楽だった。トスカーナ地方で休暇を過ごすヴァイオリニストからレッスンを受けることができたからである。

そして、15歳の時に農場で事故が起こった。

「ガスボンベの爆発でした」とハーデリッヒは話す。「両親は大火傷を負った僕を、ドイツの病院へ移送させ、そこで数ヵ月間入院することになりました。しばらくヴァイオリンの集中レッスンから遠ざかることになり、本格的なレッスンを再開するまで1年ほどかかりました」

火傷は上半身の大部分に及び、そのほとんどが3度の大火傷だった。

「やがて、回復するにつれ少しずつ練習を再開し、またヴァイオリンが弾けるようになると気づいたんです。ただ、はじめに他の障害を乗り越える必要がありました」

ハーデリッヒの顔と弓を持つ手にはまだ火傷のあとが克明に残されている。しかし事故から9年後の現在、ハーデリッヒの知るかぎりでは完全な回復を果たしたように見受けられる。「確信があるわけではありませんが・・・ 火傷は身体に大きな負担を与えます。でも僕はまだ15歳だったので―若ければ若いほど、回復のチャンスは大きいと言われています。例えば今に比べ、15歳の身体にはより大きな回復力があります。もし30代で大火傷を負っていたとしたら、きっと今でも危険が残っていたと思います」

ハーデリッヒはインディアナポリス・コンクール優勝の副賞の一つとして、コンクール創設者の1人であったジョーゼフ・ギンゴールドがかつて使用していた1683年製作のストラディヴァリウスを演奏することになった。ハーデリッヒは同楽器を演奏する喜びを次のように語っている。

「これはストラディヴァリの作品でもかなり初期のものです。1683年というと、ストラディヴァリはたぶん35歳くらいだったでしょうか。もちろん彼は90歳以上まで生きて、生涯の終わりまで楽器を製作しました。だから、この楽器は製造上、ある意味アマーティのモデルに近いかもしれません。でも、ヴァイオリンの音にはどこか、すでにストラディヴァリ特有のものが鮮明に感じられ、ストラディヴァリウスらしい音色を持っています。でも、明瞭でパワーのある後期の作品に比べると、やや温かみのある優しい音がします」

ハーデリッヒには類を見ない幅広いレパートリーがある。テレマン、バッハからリゲティ、シュニトケに及ぶレパートリーには、各時代の代表作品が含まれる。

「ある特定の時代の作品を専門にしたいという気持ちはあまりありません。さまざまな時代を通じ、多くの素晴らしい音楽があります。でも、演奏家によっては、性格的な向き不向きというものがあって、ある特定の形式の方が他の形式より向いている人々はいると思います。僕はたぶん、それを判断するのにふさわしくありませんが-」

「でも、それぞれの作曲家に相応しい演奏を模索するのもまたチャレンジの1つです。それに、僕は違うスタイルの曲を演奏するのが好きです。例えば、チャイコフスキーの協奏曲の演奏が続くと、しばらくすると退屈に思える時があります。そんな時、モーツァルトやバロック音楽、または現代音楽を演奏するととても新鮮な気持ちになります。感情や精神に、また違った形で働きかけるからです。気分転換になって、とてもほっとします」

ハーデリッヒは、土曜日にカール・セント=クレア指揮パシフィック交響楽団と演奏するチャイコフスキーの協奏曲に対し、特別な見識があるとは述べない。しかし、同曲の演奏を新鮮に保つ方法があるようだ。

「この曲は小さい頃から本当に何度も演奏してきました・・・ だから時には少し距離を置いて(自分の演奏を)見つめなおし、自分のやってることを批判的な目で見ることも大切です・・・」

「他の演奏家と違うように演奏するため、弾きかたを変えようとは思いません。他のヴァイオリニストの演奏を聴いて、良いアイディアを取り入れることにも抵抗はありません。でも時に、誰もがやっていることで、僕にはあまり意味が見出せないことがあります。昔々、誰かがそれを始めて伝統のようになってしまったので、今でも皆がやっているだけのように思うこともがあります」

ひっきりなしの演奏旅行をこなすのはハードである。2008年だけでも、ハーデリッヒはヨーロッパ、日本、メキシコそしてアメリカ全土で演奏を行ってきた。また、週ごとに異なった協奏曲を演奏することも多い。しかしハーデリッヒは概して、インディアナポリス・コンクール優勝によってもたらされたこれらの演奏活動を楽しんで行っていると話す。

「僕は自分が本当に好きなことをしています。ヴァイオリンを演奏すること、またこれら偉大な作品を素晴らしいオーケストラと演奏し、刺激あふれるいろんな場所に旅するのは本当に、とても楽しいです」

「それに、過去を振り返ると、再び演奏活動ができるかわからなかった時期もありました。今こんな風に演奏ができるようになって、とても幸せだと思います。本当に良かったと思っています」

記事 (パシフィック交響楽団 2008年8月)

2010-04-09 | Articles
『チャイコフスキー・スペクタキュラー』
パシフィック交響楽団、恒例の夏の終わりのコンサートにコンクール優勝のヴァイオリニストを招き、チャイコフスキーの協奏曲とラフマニノフのヴォカリーズを演奏

2008年8月25日
パシフィック交響楽団メディア・リリース

ドン・マクリーンの『アメリカン・パイ』、バーンスタインとベートーヴェンの『オズの魔法使い』と続いた夏の音楽三昧、パシフィック交響楽団のサマー・フェスティバル2008(スポンサー:オレンジ・カウンティ・レジスター)は、『チャイコフスキー・スペクタキュラー』で劇的な幕を閉じる。このコンサートではロシア人作曲家の最高傑作にスポットライトが当てられる。コンサートは9月6日夜8時にアービンのベライゾン・ワイヤレス音楽堂で開かれ、音楽監督カール・セント=クレアの指揮のもと、華やかな花火と雷のような大砲のショーが夜空を彩どる。また2006年度インディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールの優勝者で才気あふれるヴァイオリニスト、アウグスティン・ハーデリッヒをゲストに呼び、2つの喚起あふれる作品、『チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲』『ラフマニノフ ヴォカリーズ』を演奏する。また広く愛されるチャイコフスキーの『くるみ割り人形』(抜粋)、ショスタコーヴィチの『祝典序曲』、そしてストラヴィンスキーの『火の鳥』(抜粋)が演奏される。

「チャイコフスキーの協奏曲は、ロマン派ヴァイオリン協奏曲の中でもとりわけ美しい曲の一つだと思います」とハーデリッヒは話す。「ある面ではメンデルスゾーンの協奏曲の影響が感じられます。でもハーモニーやメロディーのスタイルや特徴は、この上なくロシア的です!僕がこの協奏曲を初めて演奏したのは11歳の時でした。演奏でのチャレンジはいつになってもなくなりません。でも演奏に飽きることもけしてありません」

ハーデリッヒはつけ加える。「ラフマニノフのヴォカリーズはヴァイオリンの演奏にとても向いている曲です。ヴァイオリンは声楽的要素の高い楽器だからです。もちろん、違う楽器のために作品を編曲する時には、いつも変化がつきものです。オリジナル曲に流れる趣や情感を、どうやって表現するかが一つの課題になります」

記事 (ヒューストン・クロニクル 2008年6月)

2010-02-04 | Articles
一線を画するヴァイオリニストとヴァイオリン
2008年6月26日
チャールズ・ウォード
ヒューストン・クロニクル

批評家は、リハーサル時には用心しなくてはならない。リハーサルで耳にしたものが頭から離れず、本番での判断を曇らせてしまうことがあるからだ。

とは言うものの、ミラー野外劇場への廊下を歩いていたとき耳にしたヴァイオリニスト、アウグスティン・ハーデリッヒの音色には、思わず耳を澄まさないわけにはいかなかった。ハーデリッヒは今宵行われるヒューストン交響楽団の無料コンサートでモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番を演奏する。

イタリアでドイツ人の両親の元に生まれたハーデリッヒが甘受するメリットの一つは、ジョーゼフ・ギンゴールが使用していた1683年製作のストラディヴァリウスである。その音色、またハーデリッヒが楽器を奏でる様子は、他者と一線を画していた。

ハーデリッヒは2006年度インディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールで優勝し、同ストラディヴァリウスを4年間使用する権利を得た。ヴァイオリンは、インディアナ大学の伝説的なヴァイオリン教師で(数多くの著名な師弟にはジョシュア・ベルも含まれる)インディアナポリス国際コンクールの共同設立者でもあった今は亡きジョセフ・ギンゴールドから、同コンクールに寄付されたものである。

ハーデリッヒはコンクールに優勝しただけではなく、ロマン派協奏曲部門を含むほとんどの特別賞を獲得した。

水曜に行われたリハーサル後のインタビューで、ハーデリッヒは、やや慌てたように説明した。全ての賞をもらったわけではなく、ウジェーヌ・イザーイによるソナタ部門は受賞しなかった。だがその後、いたずらっぽい目でつけ加えた。自分はイザーイは演奏しなかった、と。

同コンクールでの優勝時、ハーデリッヒはまだニューヨークのジュリアード学院に在学中で、ジュリアード弦楽四重奏団の第一ヴァイオリニストであるジュエル・スミルノフ氏に師事していた。

ハーデリッヒはジュリード入学前、イタリアのリヴォルノにあるマスカーニー音楽院で学んだ。その後一年間ベルリンで学びながら、ヴァイオリニストもしくは作曲家の道を選ぶかで揺れ動いた。

「結局、自分はヴァイオリンに一番向いているんだと気持ちを固めたんです」と話す。ジュリアードは、残された技術的な課題を克服し、曲の解釈を磨く場所だった。

ハーデリッヒの生い立ちの中に、二つの顕著な事柄が存在する。

その一つは火災事故である。ハーデリッヒは15歳の時、両親が葡萄とオリーブを生産する農場で燃料タンクの爆発事故に遭い、大火傷を負う。

このため、半年間ヴァイオリンの演奏を完全に中断することとなった。しかし、やがて演奏を再び試みた時、「まだ指が(弾きかたを)覚えていて、身体的なこの小さなハードルを乗り越えることができたら、また以前のように弾くことができると気づいたんです。それは回復過程での大きな支えになりました」

事故のため、音楽家としての成長過程における貴重な一年をふいにしたハーデリッヒだったが、その一方で自分は、いわゆる神童と呼ばれる子どもたちがしばしば陥る落とし穴をさけることができたと話す。「15~6歳というのは、幼い頃ずいぶん熱心に音楽に打ち込んで来た演奏家たちが、(自信や目的などの)深刻な危機感に襲われやすい時期だと言われています」

もう一つには、ハーデリッヒの幼年時代の不定期なトレーニングがある。プロの音楽家としては珍しいことである。

「一定したトレーニングは受けませんでしたが、一方でいろんな教師からトレーニングを受けました。それには、1人の教師の教えだけに染まらないという利点もあります。」

ハーデリッヒは幼少期より音楽の才を顕したが、実家のある田舎地方では、ヴァイオリン教師を探すのは容易ではなかった。「僕たちは本当に辺鄙なところに住んでいました」そこで最初は、ヴァイオリンを弾かないハーデリッヒの父親がレッスンにあたった。

幸い多くのドイツ人音楽家たちが近辺で夏の休暇を過ごし始め、ハーデリッヒは彼らからレッスンを受けるようになる。まもなく、集中レッスンや指導を受けるため、ハーデリッヒは父親と共にドイツへ周期的な車の旅に赴くようになり、ハーデリッヒが9~10歳になる頃には、それがコンサート旅行へと変わっていった。

ハーデリッヒは新たな神童としてコンサート・シーンに登場した。「でもその頃、人々はすでに神童というものにうんざりしていました。みどりやサラ・チャンやその他大勢がデビューした後で、人々は『またか・・・』という感じでした。それは残念でした」

ジュリアードで教えを受けたスミルノフ氏はリサイタル・ツアーのためにしばしば不在することがあったが、不定期なレッスンに慣れていたハーデリッヒには、かえってそれがしっくりきた。

「一週間に一度の定期的なレッスン形式が一番効果的というわけではないと思います」とハーデリッヒは話す。「週によっては、まだ曲の準備ができてなくて、見てもらうものがない時もありますし、逆に週に何度もレッスンしてもらいたい時もあります」

ジュリアードの校風と学生達が気に入ったハーデリッヒはすぐに周囲に溶け込んだ。高校に通学しなかったため失った時間を取り戻すとともに、勉学以外の学生生活も楽しむことができた。

「ジュリアードでの一年目は、あまり熱心に練習してませんでした。でも、あんなに楽しかった時はなかったです。だから、もう心残りはないです」

記事 (カンザスシティ・スター 2008年5月)

2009-10-15 | Articles
アウグスティン・ハーデリッヒ、回復力をバネに演奏へ復帰
2008年5月25日
ポール・ホースレー
カンザスシティ・スター


まだ歳若いアウグスティン・ハーデリッヒの人生は、大きく二つに分けられる。火災事故の前とその後である。トスカーナ地方の農場で育ったドイツ人ヴァイオリニストは、少年の頃から、すでに新進のヴァイオリン名手として人々の注目を集めた。7歳でコンサート・ステージに立ち、10歳で作曲をはじめ、13歳で神童としてヨーロッパにその名を知らしめた。

けれどもハーデリッヒは、15歳の時、実家の農場で火災事故に遭い、全身の58パーセント以上にレベル2度、3度の大火傷を負う。

事故後の数ヶ月間は、ヴァイオリンを持ち上げることもできなかった。けれども、まもなくハーデリッヒは弓を持つ腕や顔に負ったひどい火傷にも関わらず、演奏の技巧がまだ失われてないことに気づく。

「若い人や子どもの方が、こういった状況に対処しやすいんだと思います」現在24歳のハーデリッヒは話す。「子どもには、なぜだか強い回復力があります」

一年半に及ぶ治療と皮膚移植を経て、ハーデリッヒは2001年の4月、ドイツのエルフルトで事故後初のリサイタルを行う。

「演奏は、思っていたよりは楽でした」とハーデリッヒは話す。「演奏前は、人々の前で2時間も演奏できるか心配でした」

しかし、演奏は可能だった。そしてハーデリッヒは、人前で自意識にとらわれない態度をすばやく身につけていった。5歳の時からヴァイオリンを弾いてきたハーデリッヒは、再び体力、スタミナそして技巧の上達に力を注ぎ始める。

「身体の動きには問題はありませんでした」とハーデリッヒは話す。「でも、体力を取り戻すまで、まだ時間が必要でした。それに、練習に必要な精神的エネルギーがまだ充分ありませんでした。演奏を上達させるためには、大きな精神的エネルギーが必要です」

次に、ハーデリッヒはニューヨーク州のシャトークア協会音楽祭から招待を受け、ひと夏のあいだ練習に参加し、音楽祭の楽団とブラームスの協奏曲を演奏することになる。

音楽家および聴衆はただちに、この17歳が新聞の見出しを飾る以上の、特別な才能を持ち合わせていることに気づく。

「たったの数小節だけで、すでにハーデリッヒの完璧なイントネーション、際立ったテクニックは明らかであった」地元紙の批評家が後日、演奏を評している。「弱冠17歳で、彼はすでに熟練した音楽家であり、ヴァイオリンの名手である」

活動を再開したばかりだったハーデリッヒは、イタリアのリボーノにあるマサカーニー音楽院でディプロマを取得する。

ニューヨークに事務所を構える有力マネージャー、ミッシェル・シュミットが、ハーデリッヒの噂を聞きつけ、ただちに彼をスカウトする。

シュミットは初めにハーデリッヒのレコーディングを耳にし、演奏に惹きつけられる。そして、ついにハーデリッヒの演奏を生で聴いた時、シュミットはそこに特別なものを見出した。

「まだ、どれほど成長が必要かはわかっていましたが、いずれにせよ彼をスカウトしました」とシュミットは話す。その後、ハーデリッヒはジュリアード学院へ入学、瞬く間にジュエル・スミルノフの一番弟子の一人となる。

「彼はドロシー・ディレイの生徒でした」ジュリアード弦楽四重奏団のメンバーで、ディレイの生徒だったスミルノフについてハーデリッヒは話す。ディレイは、イツァーク・パールマンからサラ・チャンに至る多くのヴァイオリニストの指導にあたったジュリアードの伝説的な教師である。

「だから、そこにはあの“Big tone”がありました。それはジュリアードが作り上げようとしていた音で、演奏に生かせるものでした」

ハーデリッヒはニューヨークの刺激的な多文化へすぐさま溶け込み、演奏機会も急増する。

「ニューヨークに来たとたん、彼は開花しはじめました」シュミットは話す。「彼は言わば、神童でした」

ロシア奏法を受け継ぐヨーロッパの教師陣から指導を受けたハーデリッヒは、次にディレイの伝統である大きく、太いまろやかな音を学ぶことになった。その結果、二つの伝統が溶け合う興味深い音色がそこに生まれた。

ハーデリッヒはジュリアードでアーティスト・ディプロマとグラデュエート・ディプロマを取得し、マールボロ音楽祭やラヴィーナ音楽祭などに参加する。

しかし、ハーデリッヒの名が一躍知れ渡るきっかけになったのは、2006年度インディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールでの優勝だった。同コンクールで、ハーデリッヒは委託作品部門、ベートーヴェンによるソナタ部門、ベートヴェン以外のソナタ部門、バッハによる独奏部門、アンコール曲部門、古典派協奏曲部門、そしてロマン派協奏曲部門を含む9つの賞に輝いた。

優勝により、3万ドルの賞金、純金のメダルを得るとともに、ストラディヴァリが製作した最高の楽器の一つ、1683年製作のストラディヴァリウスを4年間貸与されることになる。

コンクール優勝を皮切りに、このヴァイオリニストの演奏を聴こうと、オーケストラやコンサートシリーズの出演依頼が舞い込みだした。ダラス・モーニングニュースの音楽批評家、スコット・キャントレルはハーデリッヒを次のように評している。「演奏に努力のかけらさえも感じさせない卓越した演奏家であり、誇示するところが全くない音楽性を持ち合わせる」

現在、ハーデリッヒの前には無限の可能性が広がっているかのようである。すでにカーネギー・ホールで初舞台を踏み、近々また同ホールで2回演奏を行う予定である。

来シーズンには、東京交響楽団、ヒューストン交響楽団とのコンサート、そしてケネディー・センターでの出演が予定されている。

今後のキャリアについてハーデリッヒは話す。「これからどうなっていくか、見ていこうと思います。今向かっている方向には満足してます・・・とても満足してます」

記事(SoundPost by IVCI 2008年夏)

2009-10-08 | Articles
アウグスティン・ハーデリッヒ -思い出のシーズン-
SoundPost, Vol.8, No.2, Summer 2008 (インディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクール)


3月28日、ニューヨーク・シティ-舞台は、カーネギー・ホールのスターン・オーディトリウム。インディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクール(以後、IVCI)の優勝者、ドイツ人ヴァイオリニストのアウグスティン・ハーデリッヒは、シーズンを通してこの日のために準備を整えてきた。アウグスティンはまた、コンサートでの協奏曲演奏、レコーディング・セッションやリサイタルなどの活動を一つ一つ冷静にこなしてきた。ピアニスト、ロバート・クーレックとのドレス・リハーサルもスムーズに進み、間隔やバランスの調整が手短かに打ち合わされた。

前世紀より、偉大な音楽家たちがコンサートを行ってきた舞台に立つというのは、恐れ多い体験と言える。アウグスティンはしかし、驚くほどの落ち着きをもってこの日を迎えていた。この日までに、ABC放送の『グッド・モーニング・アメリカNOW』に出演、クリス・クオモとのインタビューに応えスタジオで演奏を行い、米国公営ラジオ局の『パフォーマンス・トゥディ』で、フレッド・チャイルドとのインタビューを行った。

その夜には、お祭りのような陽気な雰囲気が漂っていた。コンサートが始まる頃には、会場の興奮が手に取るように伝わってきた。後日、音楽学者のロジャー・イヴァンズが公式ブログ『Music and Humane Letters』に「会場はヴァイオリニストだらけだった」と述べているように、会場には国中から著名なヴァイオリニストたちがつめかけ、IVCIの受賞者達も数多く出席していた。この意味深いイベントにあたり、IVCIのパトロン50名がアングスティンのためにインディアナポリスから駆けつけていた。2006年度のコンクール委託作品を手がけたブライト・シェンも、作品のニューヨーク・プレミアに出席するため会場に姿を現した。アウグスティンとクーレックのデュオは、シェン作曲の華やかな『A Night at the Chinese Opera』に加え、ベートヴェンのヴァイオリン・ソナタ第一番二長調作品12と、ブラームスのヴァイオリン・ソナタニ短調作品108を演奏した。前半部は、アウグスティンのソロによる、バルトークのヴァイオリン・ソナタ第一番の華々しい演奏でしめくくられた。

後日、『ニューヨーク・コンサート・レビュー』が次のようにコンサートを評している。「…ハーデリッヒが、カーネギー・ホールでのデビュー・リサイタルにあたり、バラエティに富む4つの重要な作品を演奏した。その洗練された音色、非の打ちどころのないテクニック、ずば抜けた聴力、そして作品への芸術的献身は、人々に大きな感銘をもたらした」。ロジャー・エヴァンズは、ブログ内で続けている。「先週の金曜日、ソロ・ヴァイオリン界に、驚くべき新たな光が投じられた。若手ヴァイオリニスト、アウグスティン・ハーデリッヒがギンゴールドのストラディヴァリウスを手にカーネギー・ホールでデビューを飾った・・・ 極めて困難なレパートリーで構成されたプログラムにおいて、ハーデリッヒの演奏は賞賛を遥かに超えたものであった」


記事 (シャーロット・オブザーバー 2008年3月14日)

2009-09-30 | Articles
旋律豊かにベートヴェンのアンコール
2008年3月14日
シャーロット・オブザーバー

2005年にシャーロット交響楽団とバッハの演奏を行ったヴァイオリニストのアウグスティン・ハーデリッヒが、同楽団と再び共演し、広く愛されるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏する。

同楽団がベートヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏したのはわずか3年前のことだ。数々の偉大な協奏曲を思えば、早々の再演といえよう。しかし、不満を述べる余地はない。同協奏曲は、ベートーヴェンの作品中、飛びぬけて美しい旋律を持つ作品である。同曲には、とどろくような旋律で知られるこの偉大な作曲家の、優しく穏やかな面が表れている。

ヴァイオリニストのアウグスティン・ハーデリッヒは、1984年にイタリアで生まれた。実家の農場では両親がオリーブ・オイルとワインを生産する。農業のかたわらチェロとピアノを弾く父親が、ハーデリッヒの最初のヴァイオリンの先生だった。そのような環境がこのヴァイオリニストの才能の開花をうながしたのかもしれない。そう思うと、2005年にジュリアード学院在学中だったハーデリッヒがシャーロットで演奏した、あの光り輝くようなバッハの協奏曲にもうなずける気がする。

その後、ハーデリッヒは権威あるインディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールで優勝し、副賞の1つとして、ストラディヴァリ製作のヴァイオリンを4年間貸与されている。

記事 (The Clarion-Ledger 2008年2月)

2009-09-26 | Articles
交響楽団
2008年2月21日
シェリー・ルーカス
The Clarion-Ledger


土曜の夜に催される「Bravo IV:The Grand Masters」において、ミシシッピー交響楽団はベートーヴェンとブラームスの名曲にスポットライトをあてる。両者共に、19世紀のクラシック音楽に著しい影響を与えた作曲家である。

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のゲスト・ソリストには、2006年度インディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールの優勝者である若手ヴァイオリニストのアウグスティン・ハーデリッヒを迎える。4年に一度開催される同コンクールの優勝者には、コンクール創設者であるジョーゼフ・ギンゴールドがかつて演奏していた1983年製作のストラディヴァリウスが4年間貸与される。ハーデリッヒはジャクソンでの演奏において、このヴァイオリンを演奏する。

「今シーズンは、この曲を何度も演奏してきました。昔からずっと大好きなヴァイオリン協奏曲の一つでした」と、ハーデリッヒはニューヨークから電話インタビューに応える。「古典派ヴァイオリン協奏曲の最後の作品であると同時に、ロマン派ヴァイオリン協奏曲の最初の作品でもあります。演奏はとても楽しみです」

ハーデリッヒはイタリアでドイツ人の両親の元に生まれ、地元のマサカーニー音楽院と、ジュリアード学院を卒業した。

演奏するストラディヴァリウスについてこう語る。「とても特別なヴァイオリンです。今まで演奏してきたどのヴァイオリンとも違います・・・この楽器に慣れ親しんでいくのはとても楽しかったです」

ハーデリッヒは本日の3時半より、ベルヘイブン・カレッジのアート・センターで、ヴァイオリンを習う高校・大学生を対象にマスター・クラスを行う。レッスンは一般の人々にも公開される。

記事(ペイトリオット・ニュース 2008年2月)

2009-09-22 | Articles
HSOのゲスト・ヴァイオリニスト、モーツァルトの「パーフェクト」な協奏曲を演奏
2008年2月14日
ディヴィッド・N・ダンクル
ペイトリオット・ニュース


今シーズン、ハリスバーグ交響楽団(HSO)のコンサートにヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの曲が現れるのを待っていたなら、その時が間近に迫っている。

今週末、フォーラム(音楽堂)で開かれるスチュアート・マリーナ指揮のHSOのコンサート・プログラムの一つに、モーツァルトの不滅のヴァイオリン協奏曲第5番が予定されている。HSOの2007-08年シーズン・マスターワークス(コンサート・シリーズ)のスケジュールに含まれるモーツァルトの作品は、同曲のみである。

プログラムの見出し「Strings of Diamonds」にもなっているディヴィッド・ダイアモンドの弦楽のための"Rounds"が演奏され、また、「スコットランド」の名で親しまれるフェリックス・メンデルスゾーンの交響曲第3番が演奏される。

モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は、2006年度インディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールの優勝者アウグスティン・ハーデリッヒをソリストに迎え演奏される。

現在23歳のハーデリッヒは、幼い頃から同曲を演奏してきたという。

「この作品はあらゆる面において、本当にパーフェクトです」とハーデリッヒは話す。「この曲をこれ以上良くすることは、おそらくできないでしょう」

驚くべきことに、モーツァルトは19歳の時、ヴァイオリン協奏曲全5曲をわずか一年以内(1775)で書き上げた。

今日においても、5つの協奏曲はそれぞれ演奏されることが多いが、優美なメロディーを持つ第5番は一般的に最も洗練度が高いと言われる作品である。

「曲のバランス感が信じられないほどすばらしいです」とハーデリッヒは話す。「それと同時に、とてもエキサィティングで遊び心に溢れています。とても綿密な作品なのに、作りすぎた感じもない・・・全く驚異的です」

驚異的と言えば、ハーデリッヒが同曲の演奏に使用するヴァイオリンも同様である。

ハーデリッヒは、インディアナポリス・コンクールでの優勝により、以前ジョーゼフ・ギンゴールドが所有していたストラディヴァリウスと、Touteの弓を4年間使用できることになった。ヴァイオリンは1683年にアントニオ・ストラディヴァリによって製作され、約1,6百万ドル(約一億4700万円、09/21/09現在)の価値があると推定される。

「本当にすばらしい楽器です」とハーデリッヒは話す。「演奏に慣れるまで、時間がかかりますが.・・・ 僕も最初はあまり良い音が出せませんでした。でも今は、返す時がとても辛いだろうと思います」

記事(シャトークアン・ディリー 2007年7月)

2009-08-23 | Articles
CSOと共演のヴァイオリニスト、聴衆との交流のために演奏
2007年7月26日
エリン・スミス
シャトークアン・ディリー


今シーズン、ステファン・サンダーリングがシャトークアで指揮する4つのコンサートはそれぞれ、異なったレベルで感情に訴える内容だという。サンダーリングはまた、今夜のコンサートで演奏される一曲を「音楽史上、最も私的な曲の一つ」と評する。

今夜8時15分に音楽堂で開演されるシャトークア交響楽団のコンサートで、その曲、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響楽第6番ヘ長調、Op.68「田園」が演奏される。また、ヴァイオリニストのアウグスティン・ハーデリッヒをゲストに迎え、べラ・バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番が演奏される。

同協奏曲は、ベートーヴェンの「田園」に比べると、やや知名度が低いとサンダーリングは話す。

「よく知られた作品と、比較的知名度の低い作品をプログラムに組み入れる時、その対立から生まれる緊張感が面白いです」とサンダーリングは言う。

現在、一時に比べバルトークのヴァイオリン協奏曲が演奏される機会は多くない。協奏曲にも流行りすたりがあるためだとハーデリッヒは話す。しかし、たいていのヴァイオリニストが、練習の一環として同曲を学ぶと言う。

ハーデリッヒは、曲の流行りなどを気にする様子はない。

「バルトークの作品と彼のハーモニックにおける言語には、強く訴えるものを感じます。この曲はとりわけ好きな曲です。協奏曲の中でも特に好きな曲の一つです」とハーデリッヒは話す。「バルトークの曲の構成、そしてオーケストラから引き出す効果がすごく好きです。全くすばらしい音です」

ハーデリッヒは、7歳で演奏活動を始めた頃は、まだプロへの道を意識していなかったという。その後何年か演奏活動が続いた12、3歳の時、プロのヴァイオリニストとして今後も活動したいと思っている自分に気づいたという。

「それまでも、特に意識はしていませんでしたが、もうすでにプロのような演奏活動をしていました」とハーデリッヒは話す。

ハーデリッヒは1984年にイタリアで生まれ、マスカーニー音楽院を卒業した後、ジュリアード学院で3年間学び、この程卒業した。今は、ニューヨークのアパートと、ドイツのマンハイムにある家を行き来する日々である。

来年の1月にはカーネギー・ホールで初舞台を踏む。今はまだ緊張感はないものの、演奏が近づくにつれ、緊張感が高まっていくだろうと話す。ニューヨークに住んで数年間、カーネギー・ホールでの演奏を観て来たハーデリッヒにとって、同ホールの舞台に立つというのは、格別の怖さがあるのだろう。

「空気にみなぎるエネルギー」がニューヨークの魅力の一つと話すハーデリッヒだが、「時には、どこか静かな場所に行くのもいい」と話す。ハーデリッヒがシャトークアに惹かれる理由の一つはそれだという。これまでにもここで3度演奏を行っている。

「どこか神秘的で、霊感に満ちた静かな場所です。音楽作りに良い街です」とハーデリッヒは話す。

シャトークアをユニークと言うハーデリッヒだが、これまでに中央アフリカのマラウィなど世界各地を旅しており、訪れた国々のことを今でも良く覚えているという。

州や街によって風景がずいぶん違うアメリカは、旅するのが楽しいという。どの地域も風景にそれほど大差ないドイツとは、また違うようである。

ドイツはと聞かれ、こう答える。「一度訪れると、後は同じなんです」

ハーデリッヒは2006年度インディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールで優勝し、これまでに、アナーバー交響楽団、シカゴ交響楽団、ルイビル交響楽団、シラキュース交響楽団、その他多数の楽団と共演している他、アメリカ国外でも数多くの楽団と演奏している。

今年、ハーデリッヒは約50のコンサートに出演する。より過密なスケジュールより、これぐらいの演奏ペースを保ちたいという。年に150回も演奏すれば、「演奏がもう大切だと思えなくなります」と話す。

ハーデリッヒにとって、音楽の魅力は、人々との心の交流にあるようだ。「音楽を通してなら、波長が違う人々とも心を通わせることが可能なんです」とハーデリッヒは話す。「音楽を通してなら、知らない人にも、とても個人的なレベルで話しかけることができます」

演奏がない時には、読書や映画を見るのが好きだという。だが、マールボロ音楽祭に参加中の演奏家たちの中で、本に熱中しているのは彼だけではなさそうだ。

少なくとも、ある本に関してはである。

「みんな、ハリー・ポッター第7巻の発売を心待ちにしてます」とハーデリッヒは話す。「土曜日には、50冊くらいの本がここに届く予定です」

現在マールボロ音楽祭に参加しているハーデリッヒも、大勢の共演者たちと同じく、本を予約しているという。

「多分、シャトークアに着いた時も、まだ読んでる途中だと思います」と話した。