主の洗礼A【マタ3:13-17】
洗礼者ヨハネは、ヨルダン川で、人々に回心と、そのための洗礼を授けていました。
そこに一人の人間・イエスが現れます。洗者ヨハネはすぐにこのイエスこそ救い主・メシアであると悟ります。聖霊に導かれ、照らしを受けたのでしょう。そして、自分は滅びるがイエスは栄えると、自分がイエス様に比べたらまったく取るに足りないものであることを、人々の前に認めます。
一方神の子イエス様は、この、聖人であっても人間に過ぎない洗礼者ヨハネから、洗礼を授かることを求めます。
それに驚いて、洗礼者ヨハネは訴えます。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私のところに来たのですか」。イエス様はこれに対し、「正しいことを行うのは、ふさわしいこと」と答えます。
洗礼者ヨハネの、イエス様の、謙そんの姿がとてもよく表れていると思います。
謙そんであること。とても大切です。しかし本当の意味でそうなるのは難しいことです。私たちはつい、人と比べてどちらが謙そんか考えたりします。そして「あの人は謙そんさが足りない」などと言って、人を「傲慢にも」裁くこともあります。「私はあの人のように傲慢ではない」。こうしたおかしな謙そんから、どうしたら解放されるのでしょう。
謙そんとまったく違った「自分に自信のない」人もいます。自分の良さを認められずに、必要以上に悪く取るしかできない。自分の価値を認められない。そのためにちょっと人から誤解されただけで、すぐにふてくされて、自信を失ってしまう。あの人からこう言われたからもうあの人を受け入れられない。そのような狭さや弱さが出てしまいます。しかしまた同じその人が、逆に自分を保とうと、自分より劣る人を捜しまわっていることもよくあります。そのため他人の失敗や欠点に敏感で、いつも裁いていることが多いのです。しかしこれこそ傷ついた葦、暗くなった灯です。
イエス様や洗者ヨハネの謙そんは、そのような弱さや劣等感、人と比べることからはすっかり解放されています。
私たち人間は、洗礼を受けてからと言うもの、聖霊と言う神様が住み、宿るべき神殿である自分を建てている人間なのです。そしてそのために、自分と言う建物を立派に築き上げる義務がいつもあるものです。しかし立派な建物ほど、深い基礎が必要です。高層ビルが同じくらい地下に基礎が必要であるのと同じようにです。謙そんとは、私という人間がとって建つ基盤です。ですから根の深いしっかりとした謙そんでなければなりません。その深い基礎は、自分の中で、一対一の神様との関係をしっかり作ることによってできていきます。
神様から見たら、必要でない人間などは誰一人いません。皆がそれぞれ、神の国を作るために、素晴らしい使命と価値を与えられて、この世に派遣された人間です。確かに私は、罪人であり欠点だらけです。それはそのとおりです。しかしそれでも、この罪人であるこの私のところに、わざわざ神様が訪れて、私の罪を負ってくださり、私の価値を認めてくれた。そのことをしっかり心に留める必要があります。
謙そんだから、自分は罪人で弱いものだと分かるのでもありません。罪人であり、こんなにも弱く貧しい私が、神により認められ、愛されたからこそ、私たちは神様の前で、感謝をこめて、自然に謙そんになるのです。「あなたはどうしてこんな私をも愛してくださるのですか」と。だからこそ、私は、こんな自分をも認めてくれた神様に倣って、人に向かっていくのです。「神様が私を見捨てなかった。だから私もあなたを見捨てない。あなたも神様から認められ、与えられた人ですから」。
私自身、自分が嫌になることはたびたびです。自分の心の狭さや自分に確かなものが何もないと思うときがあります。でも同時に思います。それはそれでけっこう。だからこそ言えることがある。分かることがある。探せるものがある。それが神様から与えられた恵みなのだ。それならそれを使おう。
人格者とは、どんな人でしょう。完ぺきな自分と比べて、人の欠点を探し出し、文句を言う人でしょうか。そうではなくどんな人にも、その人の特別な価値、その人が神様から託された役割・使命を見分けられることのできる人です。神様がだれ一人欠けるところなく、良い目的のためにこそ、世に遣わしたからです。
洗礼者ヨハネはイエスをメシアと認めました。そして自分は滅ぶだけ、あの人は栄えるだけと言ったときも、別にヨハネは、腐って自分の価値を否定などしていません。人間として自分に与えられた使命は、最大限、立派に果たします。そうやって生きた人です。
しかし神様の前で、自分はまったく無に等しいこともよく理解し、分かっていました。もしそうでなければ、洗礼者ヨハネもただの人に厳しい、傲慢な裁き手でしかなく、イエス様が後に攻撃したファリサイ派の人々と変わらなかったでしょう。しかしこの神様の前での謙そんさがあったからこそ、洗礼者ヨハネは、同時に、人格者でもあったのです。だからこそイエス様はこのヨハネから洗礼を受けたのです。
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礼拝説教より
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。