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喜べ

祈れ、感謝せよ! (by モーセ神父)

3/16の説教

2014年03月15日 | 今週の聖書
四旬節2主日A【マタ17:1-9 イエスの姿が変わる

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 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

3/2の説教

2014年03月01日 | 今週の聖書
年間8主日Α【マタ6:24-34 思い悩むな】

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 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

2/23の説教

2014年02月22日 | 今週の聖書
年間7主日Α【マタ5:38-48 復讐してはならない】

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 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

2/20

2014年02月19日 | 今週の聖書
○キリスト教歳時記51 2月20日
B今日の福音
 マタ4:13-17【ガリラヤで伝道を始める(マコ1:14ー15、ルカ4:14ー15)】 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

C今日の暦
1582年 天正少年遣欧使節、九州キリシタン大名の名代として、長崎港からローマに派遣される。(→2月5日P ザビエル~禁教~信仰の自由)
  イエズス会ヴァリニャーノが発案。教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼するため。また
  日本人に西洋キリスト教世界を見聞させ、帰国後に偉大さを少年自ら語らせることで、布教に役立てるため。
 1590年帰国、グーテンベルク印刷機、楽器、海図を持ち帰った。 しかし時代は変わっており、違った生き方をそれぞれたどった。
伊東マンショ  大友宗麟の名代。司祭に叙階され、1612年長崎で死去。
 千々石ミゲル  大村純忠の名代。後に棄教。
  中浦ジュリアン 司祭に叙階。1633年、長崎で穴づりによって殉教。「私がローマに行った中浦ジュリアンである」。2007年に福者。
  原マルチノ   司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。

W今日の言葉 国 バシレイオス(ギリシア語)
 「国」=「王国 kingdom 」=「王が支配する」「王により支配された国」
 神が王として直接支配する、愛と正義の、普遍的で超自然的な国。(←→罪が支配するこの世)
 「天の国」は「神の国」と同義。(ユダヤ人を対象として福音書を書いたマタイは「神」という語を避けたがる。代わりに「天」という言葉を使った)。日本人がイメージしやすい「何にも煩わされない快適な天国(パラダイス)」とは違う。
 洗礼者ヨハネもイエスも同じ言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」で、回心を人々に勧めた(マタ3:2)
※ゼブルンとナフタリ   ヤコブの子らの名(創世30)で、彼らの定住地が地名となったもの。
※イザヤの預言  「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた(イザ8:23-9:1)」。
 前734年アッシリアに占領されたが、イエスがここで育ったことによって、解放が行われた。
※悔い改め (→4月4日W メタノイア)

Pワンポイント    ナザレ(花の意味)
 ガリラヤ湖より西24kmの丘の中腹に位置。エルサレムから見たらサマリアより北、前8世紀アッシリアの属州にもなった。ナザレの人口は120-150人ほどと推定される。
 イエス(ヘブライ語でヨシュア;主は救う)はありふれた名だったので、ナザレのイエスと呼ばれた。
 キリスト教も、ユダヤ教と徹底的に分離、決裂するまでは、ユダヤ教の中の一派として「ナザレ派」と呼ばれた(使徒24:5)。
 I.N.R.Iと記される十字架は「Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum(ラテン語)ナザレのイエス、ユダヤの王」のこと。
イエスは故郷ナザレに滞在したとき、反対を受け、カファルナウムに行った(ルカ4:16-31)。その後ナザレに寄るものも、やはり理解を得られなかった(マタ13:53-58)。

2/9の説教

2014年02月08日 | 今週の聖書
年間第5主日A【マタ5:13-16 世の光、地の塩】

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 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

2/2の説教

2014年02月01日 | 今週の聖書
主の奉献【ルカ2:22-40】

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 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが”霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。----あなた自身も剣で心を刺し貫かれます----多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

1/26の説教

2014年01月25日 | 今週の聖書
年間第3主日 A【マタ4:12-23 イエスの活動開始】

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 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

1/19の説教

2014年01月18日 | 今週の聖書
年間第2主日 Α【ヨハ1:29-34 洗者ヨハネのあかし】

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 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、”霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『”霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

1/12の説教

2014年01月11日 | 今週の聖書
主の洗礼A【マタ3:13-17】

洗礼者ヨハネは、ヨルダン川で、人々に回心と、そのための洗礼を授けていました。
 そこに一人の人間・イエスが現れます。洗者ヨハネはすぐにこのイエスこそ救い主・メシアであると悟ります。聖霊に導かれ、照らしを受けたのでしょう。そして、自分は滅びるがイエスは栄えると、自分がイエス様に比べたらまったく取るに足りないものであることを、人々の前に認めます。
 一方神の子イエス様は、この、聖人であっても人間に過ぎない洗礼者ヨハネから、洗礼を授かることを求めます。
 それに驚いて、洗礼者ヨハネは訴えます。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私のところに来たのですか」。イエス様はこれに対し、「正しいことを行うのは、ふさわしいこと」と答えます。
 洗礼者ヨハネの、イエス様の、謙そんの姿がとてもよく表れていると思います。

 謙そんであること。とても大切です。しかし本当の意味でそうなるのは難しいことです。私たちはつい、人と比べてどちらが謙そんか考えたりします。そして「あの人は謙そんさが足りない」などと言って、人を「傲慢にも」裁くこともあります。「私はあの人のように傲慢ではない」。こうしたおかしな謙そんから、どうしたら解放されるのでしょう。
 謙そんとまったく違った「自分に自信のない」人もいます。自分の良さを認められずに、必要以上に悪く取るしかできない。自分の価値を認められない。そのためにちょっと人から誤解されただけで、すぐにふてくされて、自信を失ってしまう。あの人からこう言われたからもうあの人を受け入れられない。そのような狭さや弱さが出てしまいます。しかしまた同じその人が、逆に自分を保とうと、自分より劣る人を捜しまわっていることもよくあります。そのため他人の失敗や欠点に敏感で、いつも裁いていることが多いのです。しかしこれこそ傷ついた葦、暗くなった灯です。

 イエス様や洗者ヨハネの謙そんは、そのような弱さや劣等感、人と比べることからはすっかり解放されています。
 私たち人間は、洗礼を受けてからと言うもの、聖霊と言う神様が住み、宿るべき神殿である自分を建てている人間なのです。そしてそのために、自分と言う建物を立派に築き上げる義務がいつもあるものです。しかし立派な建物ほど、深い基礎が必要です。高層ビルが同じくらい地下に基礎が必要であるのと同じようにです。謙そんとは、私という人間がとって建つ基盤です。ですから根の深いしっかりとした謙そんでなければなりません。その深い基礎は、自分の中で、一対一の神様との関係をしっかり作ることによってできていきます。
 神様から見たら、必要でない人間などは誰一人いません。皆がそれぞれ、神の国を作るために、素晴らしい使命と価値を与えられて、この世に派遣された人間です。確かに私は、罪人であり欠点だらけです。それはそのとおりです。しかしそれでも、この罪人であるこの私のところに、わざわざ神様が訪れて、私の罪を負ってくださり、私の価値を認めてくれた。そのことをしっかり心に留める必要があります。
 謙そんだから、自分は罪人で弱いものだと分かるのでもありません。罪人であり、こんなにも弱く貧しい私が、神により認められ、愛されたからこそ、私たちは神様の前で、感謝をこめて、自然に謙そんになるのです。「あなたはどうしてこんな私をも愛してくださるのですか」と。だからこそ、私は、こんな自分をも認めてくれた神様に倣って、人に向かっていくのです。「神様が私を見捨てなかった。だから私もあなたを見捨てない。あなたも神様から認められ、与えられた人ですから」。
 私自身、自分が嫌になることはたびたびです。自分の心の狭さや自分に確かなものが何もないと思うときがあります。でも同時に思います。それはそれでけっこう。だからこそ言えることがある。分かることがある。探せるものがある。それが神様から与えられた恵みなのだ。それならそれを使おう。
 人格者とは、どんな人でしょう。完ぺきな自分と比べて、人の欠点を探し出し、文句を言う人でしょうか。そうではなくどんな人にも、その人の特別な価値、その人が神様から託された役割・使命を見分けられることのできる人です。神様がだれ一人欠けるところなく、良い目的のためにこそ、世に遣わしたからです。
 洗礼者ヨハネはイエスをメシアと認めました。そして自分は滅ぶだけ、あの人は栄えるだけと言ったときも、別にヨハネは、腐って自分の価値を否定などしていません。人間として自分に与えられた使命は、最大限、立派に果たします。そうやって生きた人です。
 しかし神様の前で、自分はまったく無に等しいこともよく理解し、分かっていました。もしそうでなければ、洗礼者ヨハネもただの人に厳しい、傲慢な裁き手でしかなく、イエス様が後に攻撃したファリサイ派の人々と変わらなかったでしょう。しかしこの神様の前での謙そんさがあったからこそ、洗礼者ヨハネは、同時に、人格者でもあったのです。だからこそイエス様はこのヨハネから洗礼を受けたのです。

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 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

12/29の説教

2013年12月28日 | 今週の聖書
聖家族 Α【マタ2:13ー23 エジプトに避難する】

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占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」
 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。