blueな日々

( Art で逢いましょう)

Mother

2006年07月23日 | 友人(人々)

D69p

ものたりない少年たち少女たちが夜遅くまで遊んでいた。
しかしそれは数年前までの非常に困惑させられた連夜の
暴走族による攻撃的なものではなく、時にはハメをはず
してみたい、そんな若者たちの祭りの後の高揚感だろう。
夜も更けて、心地よく聞こえていた少女たちのくすくす
笑いも、いつの間にか消えていた。

昨日、夕方6時には子供神輿から夏祭りがスタートした。
誰かが昨年、苦情を言ったのかもしれない~今年は9時
には祭りの初日が終わり、問題?のカラオケはなかった。
民謡などのBGMだけが、すこしうるさく鳴り響いていた。
恒例の、炭坑節での盆踊りも。団地の夏祭り~今日まで
の2日間。雨はとうとう降ってこなかった。

仏壇に入れている母の写真。同窓会でのひとコマ。死ぬ
数年前のこと。いい時の彼女は人あたりがよく天真爛漫
であった。そして自分自身にも私にも甘過ぎた。評価は
したいが批判ではない。ただ淡々と事実を、形容を加え
ながら、母のことも描いてゆきたいと、私は思う。

今夜もビール。ささやかな贅沢。冷徹な孤独感~危ない
気もするが実感でもある。blueが悲しみで透明に近づき
つつある。素朴な角笛の音が、私の頭上で、糸を引いて
流れてゆくのが見えるようだ。奇妙に晴れわたった胸の
中の風景。時間も場所も人物も不思議にいつもと違って、
じっと私を見つめている。この感覚はロウソクの最後の
燃えあがり~情熱にも感じられる。私は死ぬのだろうか?

レクイエムを聞いている。こんなイメージで人は最後を
迎えるのだろうか。モーツァルトはどんな想いを感じて
いたのだろう。彼は音を見ていたのだろうか。手で触れ
ていたのだろうか。母にも聞こえていたのだろうか。

死には~死にゆくものには、何か発見はないのだろうか?


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