えー、まとめますと…という感じでよろしかったでしょうか?

ブログ等色々のサイトにチョコチョコ書き込みしている私ですが「多少なりとも纏め的なことが書けたらな」ということでここに☆

例えばこんなものが表現できたらいいのかもしれない

2008年06月15日 16時52分49秒 | follow me(フォロー&ついてきて!)
 ぼくが何かを表現できるとしたら(実際やれてるのはマイナーなブログですが)、「その生き方に感動した」とか「前向きな考え方に見習いたいものだ」とかと思われたいとは全く思わないが、「人生、悩み・苦しみ・不幸などいろいろあるけど、まぁ、死ぬこたぁねぇか」と思ってもらえるものが表現できたらいいなとか思う。

 自分自身はおめでたい性格ではなく、むしろ深刻に考えがちなものだから、その逆方向に考えてみることで精神のバランスをとろうとしているのかもしれない。でもまた、子供の頃(小学校高学年の頃)から漫才・落語など聴いていた記憶があるので、もともとの性格として「可笑しいことが好き」な性格が先にあったのか、それとも自分の肉体的ハンディキャップを人一倍深刻に考えてしまったりなど遊び的要素抜きで物事を真面目に考えてしまう性格が先にあったのか、よく分からないところもあるのだが。

 昔、視覚障害者向けの有線放送番組で年長(4、50歳台かな?)の男性が話していたこんなエピソードが記憶に残っている。
 「理由は忘れたけど、中学生の頃自殺しようと思ったことがあって、寄宿舎の窓のところにベルトを引っ掛けてそれで首を…、と考えてたときにラジオで古今亭志ん生の落語が流れているのを聞いて、ふっと力が抜けて死ぬ気が失せてしまった」。
 その“緊張の緩和(※1)”的なものってどこからくるのだろう。話術の妙、考え方や精神のあり方、そんなものからくるのだろうか。
 その方の場合はその「落語的なもの」または「古今亭志ん生的なもの」どちらに強く影響されてそう感じたのかは分からないが、確かに志ん生さんの落語は事の深刻さからは距離をおいた可笑しみといったものがあるように思う。

 ぼくの場合は落語などお笑いを聴くのは趣味なんだけど、ここでは何もみんなに「落語を聴きなさい」と単に勧めようというんじゃなくて、普段からいろんな角度から物事を見たり考えたりするのにその一つとして落語的センスも取り入れるのもいいんじゃないかという話。
 普段から、何か一つの事を考える際にいろんな角度からの見方、考え方をする癖を付けていれば、もしとても深刻な状況に陥った場合であっても、「死んでしまおう」というただ一つの答えに突き進む前に、いくつかの選択肢が浮かんできて「まぁ、死ぬこたぁねぇか」って思ってもらえるかもしれないということなんだ。


 最近自殺で亡くなった方のニュースでは川田亜子さんというフリーアナウンサーの方のものがあった。
 ぼくはこの方のことは今回のニュースで初めて知ったのだが、それに纏わる話をたまたま見かけたweb情報で辿って行くと「付き合ってた男の人達が悪い人達で…」とか「芸能界の裏の圧力といった恐い話があって…」とかにも出会ったりする。
 普通のレベルの話でいくと「まだ経験の浅い若いうちに身分の不安定なフリーの仕事に転身して、新しい生活のペースに慣れなかったり、将来に不安を抱いたりなど、精神的プレッシャーから心が混乱して…」といったことになるのだろう。
youtubeに残っているテレビでの彼女の言葉を聴くと、ごく生真面目な方に思えた。

 例えば、彼女のような人に、「『まぁ、死ぬこたぁねぇか』と思ってもらえる表現ができたら」というぼくの一つの考えは“無力”なのかもしれないが、直接の知り合いではないホジションのぼくがやれることといえば「まぁ、死ぬこたぁねぇんじゃないか?」というメッセージを表現の中に組み入れることくらいなのだろうと思う。


※1
 昔、桂枝雀さんが自分の落語の実践法の整理の理屈の一つとして「“笑い”とは“緊張と緩和”の繰り返しなんだ」といったことを話していたのを覚えている。(残念ながら氏はうつ病で自殺されたけれども、ぼくの好きな落語家さんの一人だ)