丹波篠山でまさかの名古屋コーチン!?【丹波篠山まつかぜ屋】

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あこがれのシェーンブルン宮殿での『夢のコンサート』 (3)

2009年07月25日 | Weblog
いいお天気のウィーンであった。13区のシルバーハウスでは、13区長はじめ議員たちが私達の演奏の後で、沢山の御馳走を用意して大歓迎のパーティをして下さった。人懐こい何十年来の友のような歓迎振りに、案じていた、もろもろの不安がけし飛んでいく感じがした。シルバーハウスでの演奏が、いい練習の場となって、シェーンブルン宮殿での演奏に備える事が出来た。

あこがれのシェーンブルン宮殿。映画”会議は踊る”の舞台になった、ゴージャスな大広間。まばゆいばかりのシャンデリアに囲まれて、夢の世界へ誘うような気持になった。奥にステージが置かれ、脇には心配していたピアノが用意されていた。リハーサルの途中から、入口には聴衆が詰めかけて、アッという間に700席が満席になっていた。前席に13区長と各国の指揮者が座り、議員やそれに続く人達が後に続いた。13区長のあいさつの後、演奏が始まった。

はじめに、ラデツキー行進曲でオーストリアのミカエル合唱団が入場した。白いブラウスに赤いスカート、オーストリアの旗を思わせる衣装がさわやかだった。日本をはじめ、いろんな国の曲を演奏してくれた。アイルランドのモイ合唱団は、白のブラウスに黒のスカート。若い女性指揮者はグリーンのドレスで現れた。タップダンス、合奏、ソロなどバラエティに富んだ合唱を聞かせてくれた。いよいよ日本の番になった。

ピンク、紫などの日本の古典柄の着物風ブラウスに黒のベルベットのスカート、金色のベルトでアクセントをつけた。外国人には袴を思わせる衣装である。男性は紫に赤のふちどりのハッピコート。少人数でも貴重な存在の男性は存在感があった。多くの色柄を引き締めるために、指揮の私は後ろ姿が大切なので、真紅に縫いとり紋のある着物ブラウス、金の帯をもってきた。

曲目は”ふるさと””箱根八里””赤とんぼ””夕焼け小焼け”、最後に”ブラームスの子守歌”を羽曳野女性合唱団の中野彰先生が指揮。その後日本の楽器、日本舞踊の入った”さくら さくら””狸々寺の狸ばやし””黒田節””荒城の月””合津磐梯山”最後にヨハンシュトラウスの”トリッチ・トラッチポルカ”を私が指揮した。最後の一節、トリッチ・トラッチの発声とともに、後列真ん中でオーストリアの国旗、全員が赤と白のハンカチを掲げてオーストリアを讃えた。「ブラボー」の掛け声、いつまでも続く拍手を聞きながら、夢見心地の中で成功を実感、胸が熱くなった。最後にラデック氏の指揮で三カ国合同合唱、第九の”歓びの歌”をドイツ語で、”別れの歌”をドイツ語、英語、日本語で、声高らかに宮殿いっぱいに歌った。まだに国を越えて心は一つ、と感じられる一瞬であった。

オーストリアの観衆の反応は一曲一曲、長い拍手の中に伝わってきた。”狸ばやし”の様に、はぎれのいいものは喜ばれた。”合津磐梯山”の様な日本古来の民謡の、三味線の音色がエキゾチックだった。三味線、大正琴、和太鼓で日本情緒を表せたし、日本舞踊は観衆の目を楽しませると同時に、日本古来の伝統を伝えてくれた。度重なる練習で得た合唱の美しさに加えて、少しでも日本の音楽を伝えることが出来たと思う。

13区長はじめ議員さんたちが、何度も成功を喜んでくれた。私達仲間は、夢ではないかとホッペをつねってみたり、涙が止まらなかった人もあり、感激を口々に語ってくれた。日本大使館の方も「こんな宮殿で日本人が演奏したのは最初ですよ。そして多分これが最初の最後になるでしょう」と語ってくれた。姉妹提携のお蔭とはいえ、心から「13区長、そしてみなさん”ありがとう”」と叫びたい。私にとっても二度と訪れないであろう、一生で最大の感激であった。

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