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コミュニティ

Delanty,Gerard,2003,Community,Psychology Press.(=山之内靖・伊藤茂訳,2006,『コミュニティ──グローバル化と社会理論の変容』NTT出版)('16.8.28)

 地域社会の研究を行ってきた人は、ロバート・マッキーバーの名さえ出てこぬ、ジェラード・デランティの本書を読んで面食らうかもしれない。
 もっとも、随所で、フェルディナント・テンニースの「ゲマインシャフト」概念が参照されているほか、シカゴ学派の都市社会学におけるコミュニティ概念を再検討したパートもあり、社会学の古典的業績が無視されているわけではない。
 マッキーバーのコミュニティ論が無視されているからだろう、本書には「アソシエーション」の概念も参照されていない。
 これには、おそらくそれなりの理由がある。例えば、社会運動団体は、社会学の用語法でいうと、ボランタリー・アソシエーションに該当するが、デランティからすれば、運動をとおして生成するコミュニティなのである。つまり、コミュニティの衰退をアソシエーションの活性化が相補するという社会学の常識的な理解が否定され、すべての社会集団は、理念、期待概念としてのコミュニティからの距離によって位置づけられることになるのである。
 なるほど、「コミュニティ」がわたしたちのノスタルジアから派生する虚構でしかないとすれば、その舞台で活動する団体としてアソシエーションを位置づけるのは無意味である、ということなのだろう。コミュニティ概念は、社会学理論ではなく社会理論のなかに適切に位置づけられるべきものであり、人々の相互作用により絶えず生成、消滅する、伸縮自在な存在でしかない。そこには、徹底した構築主義的な観点が貫かれており、コミュニティ概念が社会学の系譜から解放され、政治思想、文化理論等も交えたより大きなフィールドのなかに位置づけなおされている。
 もはや「社会」はエスタブリッシュメントにより徹底して制度化されており、人々のユートピアは、「社会」ではなく「コミュニティ」という虚構に向かう。デランティのコミュニティ論は、グローバリゼーションの荒波に立ちすくむ無力な個人像への諦観を背景にした、冷徹な社会理論といえるだろう。
 ここからは、好みの問題でしかないが、わたしは、デランティほどには、「社会」や「コミュニティ」に対して、シニカルになりたくないと思う。


目次
1章 理念としてのコミュニティ―喪失と回復
2章 コミュニティと社会―モダニティの神話
3章 都市コミュニティ―地域性と帰属
4章 政治的コミュニティ―コミュニタリアニズムとシティズンシップ
5章 コミュニティと差異―多文化主義の諸相
6章 異議申し立てのコミュニティ―コミュニケーション・コミュニティという発想
7章 ポストモダン・コミュニティ―統一性を超えるコミュニティ
8章 コスモポリタン・コミュニティ―ローカルなものとグローバルなものの間
9章 ヴァーチャル・コミュニティ―コミュニケーションとしての帰属
まとめ 今日のコミュニティを理論化する

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