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カール・ポランニーの経済学入門──ポスト新自由主義時代の思想

若森みどり,2015,カール・ポランニーの経済学入門──ポスト新自由主義時代の思想,平凡社.(6.18.24)

 緊縮財政、民営化、逆進課税、社会保障における選別主義、劣等処遇の原則等を骨子とするネオリベラリズムに抗した偉大な経済人類学者に、カール・ポランニーがいる。

 社会と政治を市場経済に従属させようとする経済的自由主義(現在のネオリベ)は、「小さな政府」を支持しながら、一方で、企業の収益や富裕層の富を最大化すべく、市場経済への政府の積極的な介入を支持する。

 米国におけるリーマンショック時の大規模な財政出動を想起しよう。

 要するに、ネオリベは、欺瞞に欺瞞を重ねた思想と政策でしかないのである。

 ポランニーが注意を喚起するのは、経済的自由主義の「ダブル・スタンダード」である。経済的自由主義は、いわば「聖域」としての市場それ自体の機能を弱めたり混乱させたりする恐れのある、政治を含めた干渉や介入を拒絶する態度をとる。しかし、市場が機能するための条件や状況を政治がつくりだすことや、市場がうまく機能しない場合に政治が公的な手段を使っ下支えする干渉や介入については、否定するどころか、「市場が歓迎している」として積極的に求めたりする。これから述べていくように、二〇世紀の市場社会の危機に至る過程を分析
する際に、ポランニーは、経済的自由主義のこうしたダブル・スタンダードの功罪を鋭く問うたのである。
(pp.84-85)

 ポランニーは、マックス・ウェーバーの合理化論を下敷きに、計算可能性(形式合理性)に還元できない実質合理性、それが実現する「善き社会」、「善き人生」を展望した。

 ポランニーは、「経済(的)」という用語には、形式的な意味と実質的な意味という二つのまったく異なる意味がある、という。その形式的な意味とは、効率性や経済性や経済(節約)化といった言葉に表現される「手段の希少性」の状況を想定した、手段目的関係の論理に由来するものであり、ポランニーはこの論理を「形式的経済学」と呼ぶ。「形式的な意味によって示されるのは、不十分な手段のいくつかの用途の間で行われる選択に関する一組の原則である」(Polanyi 1957a:243/訳362)。そして多くの場合、経済の形式的意味は収益の効率的な追求に関連する。
 これに対して、経済の実質的な意味とは、人間が生きるために他者と自然環境に依存してきたという基本的な人類学的事実から派生する。経済の実質的な意味は、人間が「生存」(subsistence)の欲求を継続的に充足するという目的のために物質的手段を給付する過程を表現する。したがって、経済の実質的な意味は「飢餓の恐怖」とは相容れない。ポランニーによれば、人間が生存する諸条件には、選択の必要性がある場合もあれば、ない場合もある。もしも空気や水の入手可能性や乳幼児のケア、また食糧や住居など、人間が生きていくうえでもっとも重要なある種の物質的・社会的諸条件が希少で充足するのが困難な状況ならば、そこでは人間が生き延びていく諸条件が損なわれていることになるだろう。
(pp.187-188)

 繰り返すことになるが、ヴェーバーによれば、形式合理性の基準と実質合理性の基準はまったく別のものである。形式合理性は貨幣計算に示され、量に関する合理的な計算を通して実現される。最高度の形式合理性は、市場競争の広範な広がりを前提に「資本計算」の形態をとるが、形式合理性の高度化には資源配分の不平等の増大を累積させる傾向がある。これに対して、実質合理性は、社会構成員に対する財やサーヴィスの供給が一定の価値システムに従って適切に行われ、それが社会構成員の生存を合理的に保障していることを評価する。それゆえ、形式的合理性が実質合理性に含まれている利害関心や道徳感情と衝突する可能性は大いにあり、最高度の形式合理性が実現した社会における格差や貧困は、実質合理性の失敗という問題を示しているのである。このようにヴェーバー経済社会学の論点を踏まえるならば、最高度の形式合理性の実現と市場供給の原理を追求するだけでは経済社会における構成員のあいだの不断の利害対立を調停するという課題に応えることはできない、という結論に行き着くだろう。
(p.190)

 ポランニーが重視したのは、個々人が責任と義務を果たすことで得られる積極的自由であり、その自由を保障するものこそが民主主義であって、民主主義は、政治の市場経済への従属を回避する防波堤でもある。

 商品や貨幣に媒介されて人びとの複雑な相互依存関係が目に見えない市場経済では、人びとは自己の行為が他の多くの人びとに与える悪影響(例えば、ある安い商品を購入する選択が、遠く離れた地域の労働者に低賃金で長時間労働を強いることにつながる)を見通すことができず、そうした影響に対する自らの責任を引き受けることができない。そこでは免責の自由が制度化されているのであるが、ポランニーは、そのような社会では人間の自由が大いに制約されている、と考えた。民主主義によって経済の領域を制御することで、責任を通しての自由(社会的自由)を(経済を含む)社会的な規模で実現することを、ポランニーは社会主義と呼んだ。民主主義は、市場経済の透明性を高め自由を実現するための大切な手段である。そして社会主義は、市場経済あるいは資本主義に取って代わるような中央集権的な計画経済でもなければ、遠い将来に実現される理想の共同体でもない。それは、責任を通しての自由を実現すべく市場経済の現実に働きかけ、不断の制度改革を通して、自由の基盤としての直接的な人格的関係と非契約的関係の領域を漸次的に広げていこうとする、倫理的社会主義である。このようなポランニーのの倫理的社会主義は、「個人主義からコレクティヴィズムへの変化」という、二〇世紀におけるイギリス社会の対抗軸をめぐる思想的・理論的対立を見据えながら、一九世紀的市場社会の行き詰まりとそれを打破しようとする一九二〇年代から三〇年代にかけての革命と改革の激動の試みを考察するなかで形成された。
(pp.222-223)

 ポランニーにとっての良き社会の理想像は、複雑な社会の中核において個人が責任と義務への自由、すなわち社会的自由を最大にするような、市場、再分配、互酬の動態的な均衡状態である。そのような良き社会を、ポランニー固有の社会主義と言い換えることもできるだろう。ポランニーによれば、「社会主義とは、自己調整的市場を意識的に民主主義社会に従属させることによって自己調整的市場を超克しようとする、産業文明に内在する性向である。[中略]社会主義とは、社会を諸個人間のすぐれて人間的な関係によって構築された組織にしようとするこれまでの努力の継続にすぎず、西ヨーロッパにあっては、そのような努力は常にキリスト教的伝統と結びつけられてきたものであった」(Polanyi 2001:242/新訳418)。
(pp.264-265)

 社会保障、社会福祉後退の時代に、ネオリベに抗する思想の源泉として、ポランニーの思索に学ぶべき点は数多い。

一元的な市場原理主義批判を超えた「人間のための経済」への想像力から、自由とは何か、良き社会とは何かを根源から問い直す意欲作。

目次
はじめに──よみがえるポランニー
第一章 カール・ポランニーの生涯と思想
破局の時代を生きたポランニー/ハンガリー時代(一八八六─一九一九)
ウィーン時代(一九一九─一九三三)/イギリス時代(一九三三─一九四七)
北アメリカ時代(一九四七─一九六四)/新たな研究テーマ──産業社会は自由でありうるか
第二章 市場社会の起源
──産業革命と自己調整的市場経済というユートピアの誕生
1 居住か、進歩か──産業革命がもたらした社会的混乱と文化的破壊
産業革命と市場経済システム/産業革命と囲い込み運動の比較
市場経済の導入と文化的破壊/経済的自由主義に利用される産業革命史
2 救貧法論争と経済的自由主義──貧困と失業がなくならないのはなぜか
飢えによる労働市場の自己調整──マルサスの救貧法批判の論理
救貧政策は意図に反して貧困を増やす、という逆転的命題の説得力
市場経済に取り込まれた自然、宗教と経済的利害との分離
3 なぜ飢える隣人を助けるべきではないのか
救貧法とキリスト教的共同体/キリスト教による市場システムの肯定
4 市場社会における経済的自由主義への対抗論理
オウエンによる「社会の発見」/オウエン的社会主義と社会改革
第三章 市場ユートピアという幻想
──経済的自由主義の欲望と社会の自己防衛
1 市場ユートピアという欲望
市場経済、市場社会、自己調整的市場/商品擬制と市場経済の制度的本質
経済的自由主義の実現不可能な欲望
2 なぜ市場の拡大は社会的保護を伴うのか
商品擬制と二重運動/社会の自己防衛と共同社会の全体的利害
社会的・文化的破局と社会保護
3 二重運動──経済的自由主義 対 ポランニー
二重運動の解釈をめぐる対立/経済的自由主義の自己矛盾
第四章 劣化する新自由主義
──繰り返される市場社会の危機、無力化される民主主義
1 市場社会の危機、民主主義の破壊、ファシズム
金本位制とその破壊的影響から生まれた保護主義──二重運動の新たな局面
国民的通貨、経済的帝国主義、第一次世界大戦
再建金本位制のもとでの二つの介入主義の対立──市場ユートピア的試みの失敗
世界経済・市場文明の崩壊とファシズム、ニューディール、社会主義
平和は市場システムの従属変数であった──経済的自由主義とファシズム
市場社会の危機のなかで民主主義と自由の諸力がいかにして奪われたか
2 市場社会を支える哲学は、危機についてどう解釈したのか
リップマンの『良き社会』と新自由主義の誕生/「赤いウィーン」をめぐる対立する解釈
経済的自由主義のユートピア的試みの致命的な失敗が危機をもたらした
3 劣化する新自由主義と無力化される民主主義
一九世紀的市場経済の危機と新自由主義の理念──モンペルラン会議
新自由主義における多様性の喪失──市場原理主義への収斂
東西冷戦終結後の新自由主義的経済社会改革から現代の危機へ
第五章 市場社会を超えて、人間の経済へ
1 晩年のポランニーの挑戦──ポスト『大転換』の枠組みを求めて
市場社会からの転換──普遍的資本主義 vs. 多様な民主主義の可能性
第二次世界大戦後の新たな市場社会分析
2 経済社会学の問い
経済(的)の二つの意味/市場社会の経済社会学的分析/経済主義的文化に対抗する
3 アリストテレスの経済倫理
良き生活と中庸/等価と正義/「自然的」な政治秩序と経済の制度化
4 社会における経済の位置を問う──互酬・再分配・交換
互酬・再分配・交換という三つの統合形態/貨幣の制度主義的分析
5 古代ギリシャの三つの命題──ヘシオドスとアリストテレスの対照から
ヘシオドスの経済思想──鉄の時代におけるマルサス主義の誕生
アリストテレスの制度の経済思想
6 民主主義によって市場経済を超える──ポランニーの倫理的社会民主主義
終章 人間の自由を求めて──ポスト新自由主義のヴィジョン
1 複雑な社会における人間の自由とは
「自由のための計画」をめぐって/イギリス版『大転換』以降の自由論の三つの要点
2 社会的自由
3 社会の現実と制度改革──世論と政治領域を取り戻す
4 良き社会をめざして
三つの基準線/悪しき社会と良き社会

あとがき
参考文献
索引


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