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本と音楽とねこと

二千年紀の社会と思想

見田宗介・大澤真幸,2012,二千年紀の社会と思想,太田出版.(6.18.24)

 人口と資本ストックの急激な成長が終わったいま、「高原の見晴らし」(見田)を見極め、それを社会計画に具現化することがもとめられている。

 ジョン·スチュアート·ミルは、人口と資本ストックが一定の状態に収束した状態を、「(人口と資本の)定常状態」と呼んだが、この定常型社会のコンセプトについては、広井良典氏が深く掘り下げてきたところである。
 晩年の見田宗介氏の問題意識も、この定常型社会についてのものであった。

 フランス、レギュラシオン学派のアンドレ・ゴルツは、人間のサブシステンス充足のためには、一週10時間労働時間でこと足りると試算したが、貨幣経済が貫徹する社会においては、たんに生計をたてるための金銭獲得動機にもとづいてブルシットジョブが蔓延り、それが実存の貧困、抑圧、また、環境破壊、資源枯渇の危機につながっている。

 とくに、環境破壊、資源枯渇の危機回避については、未来の他者への配慮が必須となる。

 ここで、再び、真木の『時間の比較社会学』が、われわれにヒントを与えてくれる。われわれにとっては、未来だけではなく過去もまた、広義の「存在しないもの(すでにないもの)」である。ところが、真木によれば、(ヘレニズムにもヘブライズムにも影響されていない)原始共同体においては、過去はむしろ「存在するもの」のカテゴリーに含まれており、時間は蓄積的なものとして――絶えず帰無していくのではなく蓄積していくものとして――感受されていた。すでに死んでしまった他者、先行世代(祖先)は、現在においても、存在しているのである。さらに、そうした先行世代から直接類推できる限りでの比較的近い)未来世代も、原始共同体の人びとにとっては、存在している。
 過去の他者が、存在しているのだとすれば、未来の他者もまた、ある独特の意味において、存在している、とする感受性を、われわれは、人間はもちうるのではないか。未来というものをありありと思い描いて現在のことを意識した終末論――それが近代の時間意識の形成要素となって現代社会にまで持続している―――に、何らかの変容が加えられれば、未来の不在の他者を、現在そのもののうちに呼び寄せることができるのではないか。われわれは、そのような感受性をもつことができ、そうした感受性を反映した意思決定のための制度や法を用意することもできるのではないか。
(大澤、p.248)

 しかし、こうした時間意識の変革が起きる可能性は低いのではないだろうか。

 わたしが注目し続けてきたのは、物質主義から脱物質主義への価値意識の変容である。

 過剰消費や高級、ブランド(記号)志向が、浅ましく卑しい物欲の現れとして蔑視される社会。
 カネと権力の獲得を志向すること、それらで欲望を充たすこともまた、浅ましく卑しいものとして軽蔑される社会。

 そうした社会の到来に、環境、資源問題の解決の方途を展望することの方が、現実的なのではないだろうか。

千年の射程で人類のビジョンを示す、日本を代表する社会学者による奇蹟の対談集。

目次
第1章 現代社会の理論と「可能なる革命」―有限性の時代へ向けて
第2章 名づけられない革命をめぐって―新しい共同性の論理
第3章 「自我」の自己裂開的な構造―解放の現実的根拠について
第4章 未来は幽霊のように


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