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【旧作】恋愛論アンソロジー──ソクラテスから井上章一まで【斜め読み】

小谷野敦編,2003,恋愛論アンソロジー──ソクラテスから井上章一まで,中央公論新社.(4.8.24)

 本書には、小谷野さんが恋愛論研究のために蒐集した、古今東西の文献からの引用が収められている。

 色恋がドーパミン、テストステロン、持続的な愛着がオキシトシンにより発現することがわかっている現在では、どうにも的を外しているなあと思わざるを得ないものも多いのだが、なかには、まだ色恋と愛着の発現メカニズムがわかっていなかった時代に、鋭く、両者を弁別する議論を展開した者がいたことに、驚かされる。

 江戸時代の遊廓と太夫について考察した、安部次郎の議論が興味深い。

 しからば徳川時代における遊廓の根本組織にある矛盾とは何であるか。それは前にも言ったように、女奴隷が色界の女王に扮しなければならぬところにある。色界の女王として教養されたものが、結局女奴隷の役目をしなければならぬところにある。この間の矛盾をかくすために、売物買物という根本事実を覆うに色さまざまな花をもってして、その花の美しさによって人心を蠱惑しようとしたのは、たしかに遊廓当事者の賢いやり方であった。太夫の品格、太夫の藝能、太夫の色道の錬磨──こういうものは太夫買いそのものにすでに一種の面目、一種の晴れがましさを感じさせた。太夫の意地と張り、嫌な客をふるの自由──こういうことは太夫自身に自分の権威を自覚せしめ、太夫に許される客に光栄と自惚とを感ぜしめた。しかも許すことがこの里における恋の極致ではない、その許しか、許すことの底にある心の誠の深さ──これをつかむのが、危険と遊戯とを愛する遊客の最後の目標である。そうして最後の目標に対する熱心は、彼女が多くの男に許さなければならぬ「勤めの身」であることや、彼女の周囲には多くの競争者があるという事実によっていっそうあおられる。しかし遊女が一度誠の恋に到達するとき、女奴隷であるという事実は千鈞の重みをもって彼女にのしかかってくるであろう。たとい多年の修練によってその許し方に心の厚薄の差別を見せる術を心得ているとはいえ、およそ「勤め」そのものが彼女って堪えがたい苦痛となることは言うまでもない。この意味において恋は遊廓と矛盾する。遊廓は特に徳川時代のように男女の清らかな接触の不自由であった時代においては、恋の発生に対してきわめて有力な機会を与えたであろうが、しかし恋の完成は廓外に出ることによってはじめて可能である。しょせん遊廓は、興味から恋愛にいたる途中の花野である。その花野はそこに人をひきとめておこうとするかぎり、魔法的な美しさをもって人を蠱惑しなければならない。しかしこの魔法は、これを支持する財力の保護を離れるとき、その保護を離れて多数者から集められた零細な金銀を基礎とする必要に迫られるとき、当然にその眩惑の力を減じなければならぬ。品格、教養、意地、張りが失われるとき、また廓内にみちていた生気のゆるみが感ぜられるとき、それは女奴隷と人身を買う者との裸な関係として、本来の地獄の相をしだいに顕現してくる。しかし徳川時代においては、それは依然として、恋愛発生の場所としての特殊の使命を持つことをやめない。しかもここで接触する者は、売手としても買手としても、ともに不幸な魂である。ゆえにこの廓の恋は特別に悲痛な絶望的な憂愁にみちたものとなるのは当然であった。これは「里の掟」に対する反逆としての自滅を予告する現象として、吉原本来の精神から云えは堕落である。しかしこれを人間的に見ればむしろ不自然に誘拐されていた人間の魂がその本来自然に還しつつある道程と見ることもできるであろう。人は、特に誠ある人は、しだいに廓の遊びに堪えがたくなってきたのである。
(安部次郎『徳川時代の藝術と社会』、pp.238-240)

 太夫がたしなんだ芸事をもって、江戸時代の遊廓を高尚なものにまつりあげる論調が、いかにバカげたものであるのかを安部は教えてくれている。

 しょせんは、男が女をカネで買う/女が男にカネで心身を売る、人身売買でしかないものに、恋などという綺麗事をもちこむことの欺瞞が、見事に論じられている。

 男女の結びつきを翻訳語の「愛」で考える習慣が日本の智識階級の間に出来てから、いかに多くの女性が、そのために絶望を感じなければならなかったろう?人間の男女が自由に交際し、他者と触れることに生き甲斐を感ずるキリスト教系の思考法による交際社会のない日本では、多くの男女は「愛」のない見合結婚をしなければならず、それを彼らは不満に感じた。また恋をし合って結婚した女は、それを「愛」という言葉で錯覚するために、人間の交際は独立の男と男の間にのみあり、その席に出る女は本質上娼婦に過ぎないという日本の社会で、確実にやって来る男性の娼婦買いに直面して、「愛」という永遠なものが失われたことを、大きな絶望とともに味わわねばならない。一九五八年度から日本では娼婦は廃された。しかし、男性が仕事をし、交際しているところの場所には、実質上の娼婦である酒場の女、女給、芸者がいるのであり、彼女らは自己を男性に売ろうとしてそばに侍している。男性は極めて容易にそれらの女性とすぐ触れる社会に生きているのだ。即ち公式的には永遠の「愛」というもので女性と結婚した男性は、実質的には仕事と交際において日夜、娼婦たちの中に混って生活しているのである。結婚の公式と社会生活の実質とは、いちじるしく違い、女たちは公式を信じ、男は実質を信じている。これは、江戸時代と極めて近いあり方なのだ。だから江戸時代のように男女の関係が、惚れている、恋しているという言葉で語られ、愛という怖ろしい言葉で語られていなければ、そのような時に男性に裏切られる女性の傷手ははるかに軽いであろう。
(伊藤整「近代日本における「愛」の虚偽」、pp.326-327)

 伊藤の言う、「実質上の娼婦である酒場の女」は現存する。

 もっと有益なカネの使い方があろうに、飲み屋で酌婦をはべらせて酒を飲み、これと見込んだ女を買う、囲う。

 いろいろと事情はあるのだろうが、太客に自らの心身を売る。

 心的習慣としての他者への愛の働きかけのない日本で、それが、愛という言葉で表現されるとき、そこには、殆んど間違いなしに虚偽が生れる。毎日の新聞の身上相談を見るだけでも足りる。「私の方で愛しているのに私を棄てた」とか、「私を愛さなくなったのは彼が悪い」などという考え方でそれらは書かれている。実質上の性の束縛の強制を愛という言葉で現代の男女は考えているのだ。愛してなどいるのではなく、恋し、慕い、執着し、強制し、束縛し合い、やがて飽き、逃走しているだけなのである。
(同上、pp.328-329)

 これは、色恋がドーパミン、テストステロン、持続的な愛着がオキシトシンの作用であることをふまえて、明晰に理解することができることだな。

 そして、恋と愛とを調和させることの大切さについても、気づくことができるであろう。

 何故に田舎には美人が少く、都会にそれが多いか。それには二様の答えが得られる。強ち田舎に美人が少いわけではない、その証拠には田舎の女子が二年も都会に出ていれば、忽ち美人になる場合が多い。これは即ち美人なるものは、化粧と着物とで出来ているということを物語るものであり、田舎は労働の場所で、それらの化粧とか着物とかには縁が遠い。即ち故に田舎の女子は醜である。それに反して都会は非労働有閑、享楽の場所で、化粧や着物の競争地である。故に都会の女子は美である。これが一つの答えである。他の答えは、ダーウィンの「人為淘汰に便宜な諸事情」の中から得られる。即ち、「高度の変化性と、数の集積、並びに土地の封鎖」──そして高度の変化性は生活状態の変化の度の高いに因るというが、都会の生活状態は変化に富んでおり、従って少くとも美に関して間断なき変化性、あるいは種々の発芽とその進展とがたえず助長される。また美における数の集積、即ち都会にあっては女子は美によって集中されている。すべての女子が美を求める。競争する。即ちそれは美的淘汰に便宜な事情の一つである。また土地の封鎖ということ、一の区画をなせる城壁の中においてのみ、人為的の美は成育する。箱庭の中に箱庭的の美があるように、都会の中には都会美がある。そして今日美と称せられているものは、此の都会美に外ならない。かくて何れの意味においても、今日の女子美は都会のものであるということが考えられる。即ち美という一点において、田舎の女子は都会の女子に支配されている。
(高群逸枝「美人論──都会否定論の一」、pp.268-269)

 そう、美人に見えるだけで、「即ち美人なるものは、化粧と着物とで出来ている」。

 けだし、炯眼であろう。

「恋愛は、論じるものではなく、するものだ」という言葉がある。しかし、努力すれば誰にでもできるというものではない。本書は、古今東西の「恋愛」を論じた言説から、現代の日本人に重要と思われる著作を適宜抄出した。プラトン、スタンダール、夏目漱石など厳選41編。「恋愛」の訪れを夢想する、もしくは渦中にある、すべての人に捧げるアンソロジー。

目次
プラトン『パイドロス』より
オウィディウス『恋の技法』より
プルタルコス『愛をめぐる対話』より
アンドレーアース・カペルラーヌス『宮廷風恋愛について』より
メアリ・ウルストンクラーフト『女性の権利の擁護』より
スタンダール『恋愛論』より
ジュール・ミシュレ『愛』より
作者不詳『たきつけ草』より
作者不詳『田夫物語』
酉水庵無底居士『色道諸分難波鉦』よりほか


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