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本と音楽とねこと

<“脱・恋愛”>論──「純愛」「モテ」を超えて

草柳千早,2011,<“脱・恋愛”>論──「純愛」「モテ」を超えて,平凡社.(4.10.24)

(著作権者、および版元の方々へ・・・たいへん有意義な作品をお届けいただき、深くお礼を申し上げます。本ブログでは、とくに印象深かった箇所を引用していますが、これを読んだ方が、それをとおして、このすばらしい内容の本を買って読んでくれるであろうこと、そのことを確信しています。)

 本書は、たんなる恋愛論を超えて、人間にとって充溢した生とはなにか、という大きな問いに答えようとする作品であるように思う。

 ゲオルグ・ジンメルとアーヴィング・ゴフマンの著作からの引用が多いが、それらが論旨に違和感なく配置されている。

 異性あるいは同性にモテたいという人は多いだろう。

 もっと一般化して、「人から好かれたい」という願望に置き換えてもよい。

 モテる、好かれるためには、他者の役割期待を敏感に看取し、自己を役割に同一化しなければならない。

 しかし、それは、自己の存在意義を喪失することにつながる。

 ところで、もし逆に自分が演じる役割に一切、何の違和感も感じなかったら?ごく自然にその役にはまり、役と自分がまるで一体になっていたとしたら?先に触れたように、役割にはあらかじめ社会的な期待が染みこんでいる。というよりも、社会の期待が役割をかたちづくっている。役割に何の違和感もなくはまってしまうことは、社会的役割期待と自分の間にギャップがないこと、役割期待と一体化した状態になることである。その状態は、違和感がない、それゆえ迷いがないという点では、本人にとって、もしかしたら快適かもしれない。だが、そのとき「私」はどうなっているのだろうか。
(pp.81-82)

 また、モテとは周りからの評価であり、それに依存することは、精神的にも負担が大きい。自分の価値を人の評価にゆだねてしまうと、人から評価されないと不安になり、自分に価値がないように思えてしまう。世間の目をまったく気にしないのも問題だが、世間の目から見た好ましさを重視し、世間のものさしで自分を計ることに気をとられると、自分で自分を肯定するのが難しくなってしまわないか。周りからの評価次第の自信は心許ないものである。
(p.85)

 本章3の冒頭(P66~66)に挙げたゲオルク・ジンメルの言葉を今一度見てみよう。要約しよう。社会は一つの全体であり、個人をその一部として、社会が期待する役割にはめこもうとする。個人は、「この役割を立派に果す人間になるように自己を改造せねばならない」。だが、この改造に個人の心は反抗する。個人は一個の人間として、「自己自身の完成を欲し、自己の全能力を発揮することを欲」しているのである。ここに、社会と個人の葛藤が必然的に生じる。そして、ジンメルによればこの両者の間の矛盾は、原理的に解決できない。
 だが、この葛藤、矛盾、社会の要求に対して個人のなかに生じる抵抗感や違和感こそが、ゴフマンに言わせれば、個人にとって一個の自己であることの拠り所となるものだった。社会の要求、役割期待にどうしても完全には合わせられない自分がいる。その生きづらさ、息苦しさ、居心地の悪さ。それが私を一個の人間、独自の「私」たらしめているのである。それを失ったとき、「私」は社会に完全適応したことになる。完全に適応してしまったら、もはや生きづらさはないかもしれない。「私」は社会にのみこまれてしまう。自己喪失の完成である。
(pp.87-88)

 ある程度、役割期待に応えながらも、それに収まりきれない過剰をもちつづけること、それが肝要なのであろう。

 現在も、女性にとっての結婚というものが、上昇婚(hypergamy)の傾向をもつことはよく知られている。

 しかし、損得勘定をはたらかせ、相手を経済的充足のための手段としてみなすとき、共感による充足は損なわれがちとなる。

 ならば、いったいどういう観点ならばよいというのか。松本が「打算」と対比させていたのは「恋愛」であった。ではそこでの「恋愛」とはどういうことか。これももっと一般化していうならば、生活のための条件などということを脇へ置いて、単純に、自分は相手その人に対してどう感じるかを何よりも大切にする、ということであろう。端的に、自分が共に生きていきたいと感じられる他者を選ぶ、ということである。
 これはまったくシンプルなことである。しかし、実際に簡単か、と問われれば、即答は難しい。なぜなら、松本が論じたように、私たちはこの社会で、自分にとっての有用性という観点から物事を判断することに慣れてしまっているからである。女性が打算的にならざるをえなかったのは、資本主義社会ゆえであり、家庭が経済単位であるがゆえのこと、と松本は考えていた。現代の私たちも、この社会で自分の生活の快適さを大切にし、自分の生活にとってプラスかマイナスか、メリットとデメリットは、という基準で人や物事を評価し、それを賢い選択と考える、そんな習慣に染まっている。身についた習慣から自由になるのは簡単ではない。
 第二に、そのような習慣を身につけている私たちは、人を条件で見ることに慣れ、条件に関する情報に頼り、ただシンプルにその人そのものを見るということに不慣れになっている。条件を脇へ置いて、ただシンプルにその人を見る、感じる、という感覚が、いざそうしようとしても往々にして鈍っている。相手の地位、属性など、条件に関する事柄がわかっていると、それらを頼りに相手を見て接してしまいがちである。
(pp.134-135)

 現代社会が経済的にも精神的にも生きやすい状況にないことはたしかである。そのような社会状態はそれ自体問題である。しかし今その厳しさのなかで他者と共に生きていくために必要なのは、他者の有用性、あるいは「利用可能性」なのか。私のニーズに合う社会的属性――社会的地位、職業、収入等々――などの面で、条件に適っていることであろうか。それよりも、厳しい状況のなかでも発揮される、人としての明るさや朗らかさ、強靭さや繊細さ、あるいは快活さや闊達さ、ユーモア、しなやかさや打たれ強さ・・・・・・といったものではないだろうか。そうした人間味は、まさに共在の相互作用のただなかで、本人の意図に関わりなく、例えば、明るいまなざしや溌剌とした身体の動きの中などに表現される。そして私たちはそれをさまざまな形で感じとり、文字通り共感することができるだろう。
(pp.194-195)

 恋愛の対象をどう選ぶのかということは、どう生きるのかということにつながる。

 私たちは他者と共に生きている。ならば、その楽しさと喜びをもっと味わい、分かちあい、大切にしたい。無関心さや鈍感さゆえに私はどれほどその機会を取り逃がしていることだろう。もっと感覚を澄ませ、目の前の他者、その存在固有の豊かさに触れ、より深いコミュニケーションへのスパイラルを築けたら、と願う。そして、近く接することがもたらす、「きわめて充実した幸運」を喜びとしたい。
 恋愛、友情、結婚・・・・・・、その相互作用に、制度的な形式と名称をどう与えるかということは、この際まったく二義的なことである。「今ここ」の相互作用を共に楽しみ喜びとすることのできる、そのような他者との出会いを大切にすることが、まず第一ではないだろうか。
(p.204)

 他者との相互作用や共感による享楽は、なによりも重要なものである。

 女性が男性に経済的に依存する必要がないよう、すべての個人に最低所得を保障することがいかに重要であるのか、このことにあらためて感じ入った。

人と人のつながりの大切さが明らかになった今こそ、改めて“恋愛”というつながり方を考えてみよう。純愛に憧れ、モテるかどうかを気にする人もいるだろうし、相手に対して「キャラ」を演じている人もいるだろう。しかしそのことが、かえって他者との関係を息苦しく不自由なものにしていないだろうか。自分の身体と感覚を大切にしつつ、「共にいる喜び」を手にするための道を探る。

目次
第1章 「純愛」は怖い?―片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』に学ぶ
第2章 「モテ」で自分を見失う?―姫野カオルコ『整形美女』に学ぶ
第3章 ゲームとしての恋愛・結婚―ミラン・クンデラ「偽りのヒッチハイク」に学ぶ
第4章 愛か打算か―松本正枝「恋愛の経済学」「貞操の経済学」に学ぶ
第5章 「他者への無関心」という技術―ジンメル「大都市と精神生活」に学ぶ
第6章 共にいることの喜び―D.H.ロレンス、マイケル・ジャクソン等に学ぶ


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