[長所と短所は裏返し]という言葉が古来よりあります。
その存在を知ってはいてもその内容や意味するところについては未だ腑に落ちることはなく、会得をしているとは言い難いままにここまで来ていました、
恥ずかしながら。
植物、例えば[たんぽぽ]。季節になればあちこちで目にする機会があります。
けれど果たして[ネジバナ]これについては知っている見たことがあるという方は格段に少なくなってくるように思えるのです。
さて[たんぽぽ]どこにでもあるということは様々な環境で育ちやすく目にする機会が多く、ゆえに親しみを覚えやすいという利点があり、
つまりそれを裏側から見るのなら[珍しくない][どこにでもある] [勝手に増える=雑草]と捉えられてしまうこともあり
一方[ネジバナ]の利点は[珍しい]、
けれどそれは[育つ環境を選ぶ=その存在を保護しなくてはならない]、つまりは[手が掛かる]という短所にもなりえるのであり、
どの植物についても[長所と短所は裏返し]という言葉は、あてはまるのではないでしょうか?
要は、それぞれが持って生まれた特性のどの点へ焦点を合わせて捉えるのか、
それにより、どのような特性もいつでも長所となったり短所となりうるのでしょう。
今さらと言われてしまえば、それまでなのですが、それでも、ここですこし視点を変えてみようという思いが生まれています。
私の手がけている木工品は[器]が主です。木、それは植物。植物は人のために生まれたわけではなく、ましてや器になるためではありません。
器としての自分の作品は[飲用としての活用に耐えうるもの]、それ以外はすべて発信すべきでは無いと、
これまで長らく自らそう定めそれを守り、これまでの活動をしてきていました。
けれど、はて? それで良いものなのかどうかという疑問が、今更ながらに生じて来たのです。
木、それにはそれぞれに持って生まれた個性・特性があります。
それゆえに生じる様々な点を[見ないもの・無いもの]にしているのでは無いかと。
たとえば・・・飲用の器としての活用はできなくとも、その木が本来持っている他の木には無い
[えも言われぬような美しい模様]が有るのだから、[この良さ]こそを発信するそういう選択も有って然るべきなのではと。
たとえば・・・飲用の器としての活用はできなくとも、たとえ割れが生じていたとしても
[その木から生まれ出る自然なままの割れの存在感]それこそを活かし花をしつらえる器として、
花をより一層美しくみせる額縁のような使い方だって十分に有って然るべきなのではと。
そもそも私はいつでも『どうぞ自由に使ってください。』と、自ら、そう言い続けて来ていたのです。
富士北麓で長い長い年月に渡り林業への従事を続けている知人によればたとえ同じナラの木ではあっても、
その木が育った環境等により、その見た目・性質は異なる場合が有ると。
その通りです、当たり前です。木の場合と捉えるからどこか特別なもののような気がして来るのであり、
それを同じ自然界のもの人に例えて考えるのであれば簡単な話。
たとえ同じ地域で育ったひとであっても親などの環境等により、それぞれが唯一無二の個性を備えた存在となりうるのですから。
すみません、ここまでは難い話ばかりになってしまったでしょうか?
やっと、ここからが本題です。器の作品の中で[飲用に耐えうることができないもの]は作品として発信をしないという、
これまでに自ら定めてきたルールの撤廃をしようと思うのです。
こう書くと、まるでこれはおおごとのようですが、本来こちらの方が当たり前なぜなら、木は器になるために生まれ育ったのではありません。
自然界に生まれ育っていた木の力を借りて、それを私の作品として発信をして来た、元々それに過ぎないのですから、
木のそれぞれの特性をこれまでよりも前面へと引き出し、その特性から自然に現れている、
その美しさや存在感をみなさまにもっと知って頂き、それらのものと出会うその機会を得て頂けるような形へと、
これからすこしずつ変えてゆこうとそう思っているのです。
いつのまにか、そんなつもりはなくとも、あたまでっかちになっていたのかもしれません。
器はこうでなくてはいけないと。木はこうでなくてはいけないと。
この
[かたいものさし]から、外れているものは、皆ダメなものであると。
『ゴメン、木よ、ゴメンな。』とちいさな声で述べつつ、新しい発信への宣言とさせて頂きます。
ご賛同くださる方がひとりでも居られましたなら、心強く思うばかりであります。まずは一歩、踏み出してみます。
この夏の課題、わたしの宿題として。
その存在を知ってはいてもその内容や意味するところについては未だ腑に落ちることはなく、会得をしているとは言い難いままにここまで来ていました、
恥ずかしながら。
植物、例えば[たんぽぽ]。季節になればあちこちで目にする機会があります。
けれど果たして[ネジバナ]これについては知っている見たことがあるという方は格段に少なくなってくるように思えるのです。
さて[たんぽぽ]どこにでもあるということは様々な環境で育ちやすく目にする機会が多く、ゆえに親しみを覚えやすいという利点があり、
つまりそれを裏側から見るのなら[珍しくない][どこにでもある] [勝手に増える=雑草]と捉えられてしまうこともあり
一方[ネジバナ]の利点は[珍しい]、
けれどそれは[育つ環境を選ぶ=その存在を保護しなくてはならない]、つまりは[手が掛かる]という短所にもなりえるのであり、
どの植物についても[長所と短所は裏返し]という言葉は、あてはまるのではないでしょうか?
要は、それぞれが持って生まれた特性のどの点へ焦点を合わせて捉えるのか、
それにより、どのような特性もいつでも長所となったり短所となりうるのでしょう。
今さらと言われてしまえば、それまでなのですが、それでも、ここですこし視点を変えてみようという思いが生まれています。
私の手がけている木工品は[器]が主です。木、それは植物。植物は人のために生まれたわけではなく、ましてや器になるためではありません。
器としての自分の作品は[飲用としての活用に耐えうるもの]、それ以外はすべて発信すべきでは無いと、
これまで長らく自らそう定めそれを守り、これまでの活動をしてきていました。
けれど、はて? それで良いものなのかどうかという疑問が、今更ながらに生じて来たのです。
木、それにはそれぞれに持って生まれた個性・特性があります。
それゆえに生じる様々な点を[見ないもの・無いもの]にしているのでは無いかと。
たとえば・・・飲用の器としての活用はできなくとも、その木が本来持っている他の木には無い
[えも言われぬような美しい模様]が有るのだから、[この良さ]こそを発信するそういう選択も有って然るべきなのではと。
たとえば・・・飲用の器としての活用はできなくとも、たとえ割れが生じていたとしても
[その木から生まれ出る自然なままの割れの存在感]それこそを活かし花をしつらえる器として、
花をより一層美しくみせる額縁のような使い方だって十分に有って然るべきなのではと。
そもそも私はいつでも『どうぞ自由に使ってください。』と、自ら、そう言い続けて来ていたのです。
富士北麓で長い長い年月に渡り林業への従事を続けている知人によればたとえ同じナラの木ではあっても、
その木が育った環境等により、その見た目・性質は異なる場合が有ると。
その通りです、当たり前です。木の場合と捉えるからどこか特別なもののような気がして来るのであり、
それを同じ自然界のもの人に例えて考えるのであれば簡単な話。
たとえ同じ地域で育ったひとであっても親などの環境等により、それぞれが唯一無二の個性を備えた存在となりうるのですから。
すみません、ここまでは難い話ばかりになってしまったでしょうか?
やっと、ここからが本題です。器の作品の中で[飲用に耐えうることができないもの]は作品として発信をしないという、
これまでに自ら定めてきたルールの撤廃をしようと思うのです。
こう書くと、まるでこれはおおごとのようですが、本来こちらの方が当たり前なぜなら、木は器になるために生まれ育ったのではありません。
自然界に生まれ育っていた木の力を借りて、それを私の作品として発信をして来た、元々それに過ぎないのですから、
木のそれぞれの特性をこれまでよりも前面へと引き出し、その特性から自然に現れている、
その美しさや存在感をみなさまにもっと知って頂き、それらのものと出会うその機会を得て頂けるような形へと、
これからすこしずつ変えてゆこうとそう思っているのです。
いつのまにか、そんなつもりはなくとも、あたまでっかちになっていたのかもしれません。
器はこうでなくてはいけないと。木はこうでなくてはいけないと。
この
[かたいものさし]から、外れているものは、皆ダメなものであると。
『ゴメン、木よ、ゴメンな。』とちいさな声で述べつつ、新しい発信への宣言とさせて頂きます。
ご賛同くださる方がひとりでも居られましたなら、心強く思うばかりであります。まずは一歩、踏み出してみます。
この夏の課題、わたしの宿題として。