新大橋
河口から8番目の橋梁である新大橋もまた、歴史にその名が刻まれている隅田川橋梁の一つである。現在の橋梁は、1977(昭和52)年に竣工した比較的新しい橋梁ではあるが(とは言ってももう40年以上経つのだが・・)、架け替えられる前の旧新大橋は、関東大震災の際に唯一、大きな被災を免れ多くの人たちが当橋梁を利用し(新大橋は、他の隅田川橋梁と違い、床がアスファルトで出来ていたため、床が抜け落ちなかったためらしい)、避難することができた橋梁である。それゆえ「人助け橋」と呼ばれるようになったと言う。その後、旧新大橋は、戦後まで使われたものの、橋台が弱っていたために架け替えられることになる。旧新大橋は、現在、博物館明治村に1径間のみ移設され、展示されている。
2018年撮影
名称は新大橋であるが、元を辿ると1693(元禄6)年に木橋として創架された橋梁であり、名前は当時から新大橋でも、今や古い歴史を持つ隅田川橋梁のひとつとなっている。パリのポンヌフみたいなものか・・・いやいや、ポンヌフは現時点でパリ市内で最古の橋梁だから少し違いますか。
2018年撮影
新大橋
竣工:1977(昭和52)年
形式:連続鋼斜張橋 2径間
製造:石川島播磨重工業
明治時代末に鉄橋として架け替えられた旧新大橋は、関東大震災に耐え、人を渡し、昭和に入っても明治時代の意匠を残した橋梁として隅田川に鎮座していた橋梁である。しかし、老朽化には耐えられず、新しい橋梁に掛け替えられた。かといって、この新しい新大橋が簡単に架設されたのかというと、そうではなかったようである。地盤沈下を経験した場所で、そもそも軟弱な地盤に架設しなければならないという条件下で、新しい橋梁への架け替えを実行しなければならなかったからである。
形式の選定にあたっては、墨田川の下流域に位置していることもあり、道路との接続から桁高を低くすること、また、旧橋脚の位置を避けて新橋脚を設置すること、上路とすること、他の橋梁との調和に配慮すること、などの条件の下で企画、設計がなされたようである。その結果、形式は、2径間の斜張橋、3径間連続桁橋、トラストランガー桁橋の3案が出て、それらの比較検討の後、橋脚が左寄りにオフセットできること、大ブロック工法の採用で舟航に支障を与えずに架設できること、通行者に閉塞感を与えないこと、軽快な形式で現代的であること、などの理由で、最終的に斜張橋ということになったそうである。(佐藤次郎「橋めぐりにしひがし=東京都の巻=」『虹橋』第18号 1978年より)
2018年撮影
ちょっと頼りなさそうに見える柱である。
2018年撮影
斜張橋は、隅田川の橋梁では、平成6年に創架した中央大橋を含めると2橋存在している。
旧新大橋
人助けの旧新大橋も紹介したい。
旧新大橋は、1912(明治45)年7月に竣工した綱ピントラスの橋梁であった。
江戸時代の隅田川5橋梁のうち、最後に鉄橋化された橋梁であった。ただ、鋼材はすべてアメリカから輸入されたものである。
はがきの写真は、墨田川右岸からの撮影されたもの。はがきで見て取れる銘板は、現在、中央区で保管されているとのこと。文字は、野村素介(1842~1927)の筆によるものだそうだ。
川瀬巴水:東京二十景 新大橋
旧新大橋を描いた川瀬による版画 親柱もきれいに描かれている。
2018年撮影
旧橋梁の一部は、親柱や銘板を含めて博物館明治村に移設されたが、旧新大橋の江東区側の銘板は、江東区に現存する。しかも、ちょっと意外なところに保存されているのである。八名川小学校の校地内、校舎の北側である。おそらく、江東区の登録文化財になっているのだろう。解説板には、新大橋の架け替えに際し、「町のシンボルとして親しまれてきた橋の記念として、この橋名板を保存することを希望し、ここに残されました。」とある。古い物好きとしては、これはうれしい配慮である。野ざらしではなく、ちゃんと屋根が作られている。右から「志ん於ほはし」と銘記されているのが面白い。ローマ字表記も興味深い。
SHIN O HASHI である。
でも、これでは、違う橋の銘板だと思ってしまうのではなかろうか・・・
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現在の新大橋を再び見てみる。
新大橋の柱には、この橋の歴史を勉強できる解説板が施されている。
その他、江戸時代の新大橋(歌川広重の錦絵)など、かつての新大橋の姿を描いた絵板が柱に貼り付けられていて楽しい。
こちらは、現在の新大橋の袂に残る旧新大橋の親柱。一人ここに残り、さみしく隅田川を眺めているように見える。
明治村は一度、訪れたことがあるのだが、その際の撮影データがなくなってしまったため、もう一度、見学に訪れたいと思っている。品川燈台、品川硝子製作所の煉瓦造りの建築物も移設されているので、僕には、とても楽しい博物館である。
<土木学会図書館HP 戦前土木絵葉書ライブラリーより>
新大橋の名称と江戸時代の新大橋
新大橋は、元禄時代に架けられたときから、「新大橋」の名称を使っている。1912(明治45)年に架け替えられた時も、もちろん「新大橋」である。
では、「新大橋」の前の橋、つまり「大橋」はあるのかというと・・・・この橋梁が架け替えられる前の橋としては、ありませんとなるのではないか。でも、「大橋」は存在する。いや、していたと言った方が良いのか。それは、両国橋である。
「新大橋」は、「大橋」と呼ばれていた両国橋(寛文元(1661)年架橋)の次に架橋された隅田川の新しい橋であったために「新大橋」と名付けられたとされる。よって、「新大橋」の旧大橋たる大橋はないが、「両国橋」と呼称されるようになったかつての「大橋」は存在し、この旧大橋たる「両国橋」と併行して、「新大橋」が存在することになる。え、そうするとやはり「大橋」はあるということになるのか・・・・・。
ちなみに、「新大橋」は、隅田川では、三番目に設置された橋梁である。橋があまりなかった時代、橋は、ただ橋であり、大きな橋は大橋、小さな橋は小橋といったように、単純に名付けていたことが原因かもしれない。この点は未調査である。ところが、「大橋」名称の変遷は、これだけでは終わらない。まだ、かつての「大橋」は存在しているのである。それは、「両国橋」の項で紹介したい。
なお、江戸時代の「新大橋」は、現在の新大橋よりもかなり下流の地点、万年橋の近くに架橋されていたという。現在、その地点には、「旧新大橋跡」の碑が建てられている(万年橋北交差点)。
2018年撮影
写真の旧新大橋は、このブログで使っている旧新大橋(明治45年創架の新大橋)を指しているのではなく、江戸時代の新大橋のことである。
「新大橋」『江戸名所圖絵』(1834)天枢之上畢 2 「国立公文書館アーカイブ」より転載
『江戸名所圖絵』中の左奥には、同じく木造の「永代橋」も描かれている。右手奥の橋は「永久橋」、その右に架けられているのは「川口橋」か。木造の「永代橋」は、現在の永代橋の位置よりも上流に架けられていた。「永久橋」と「川口橋」は、現在、川が埋め立てられてしまっているため、存在しない。
広川歌重 「大はしあたけの夕立」『名所江戸百景』
1693(元禄6)年に木橋として創架された新大橋は、両国橋に次いで隅田川に架けられた橋梁であり、この架橋に町民たちは大いに喜んだようである。1680(延宝8)年に深川に移り住んできた松尾芭蕉は、新大橋の竣工時には、旅から帰り、新築した芭蕉庵で静養していたと推察される。まさにこの頃、芭蕉は、この芭蕉庵で『奥の細道』を完成させていた。
現在、芭蕉歴史跡展望庭園、川船番所跡あたりは、「ケルンの眺め」と称して、「ドイツ吊橋」そっくりの「清洲橋」を見るビューポイントになっている。しかし、芭蕉が住んでいた当時は、清洲橋はおろか永代橋すらまだ創架されていない。芭蕉庵があったとされる所からは、日が南側から大橋に当たり、新大橋の眺めも良かったと推察する。
芭蕉は、この地から、建設中の新大橋、完成した新大橋を見ていたようである。
新大橋を読んだ芭蕉の俳句を以下に紹介する。
「初雪や かけかかりたる 橋の上」
「皆出でて 橋を戴く 霜路哉」
「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」
新大橋は、元禄年間に破損修理2回、享保年間に架け替え修理13回、寛保年間に7回ほど改修がなされている。後の永代橋のように、橋の撤去を幕府は目論んだらしいのだが、町民たちの反対があり、新大橋は、1744(延亨元)年に町人に下付されたらしい。(前掲「橋めぐりにしひがし」)
広重の「大はしあたけの夕立」は、1856年の作、『江戸名所図絵』は、1834年刊行であるから、芭蕉の見た当時の新大橋の雰囲気は、江戸末期とは違うはずである。
小林清親 「東京新大橋雨中圖」明治9年頃
どうも新大橋は、雨模様で描かれる伝統があるのか、有名な版画は皆、雨模様である。
明治の洋式木製橋梁としての新大橋
1885(明治18)年4月、新大橋は、木製洋式の橋梁として架け替えられた。1882(明治15)年・1883(明治16)年のお約束の出水で、橋杭が破損して危険な状態になった、少なくとも修理が必要となったため、修繕を内務省に申し出たようだが、結局、架け替えることになったようだ。
この洋式木製の新大橋は、隅田川では、最後に創架された木製橋梁であろう。
2019年撮影
おそらく、江戸時代の新大橋は、上記写真の遊覧船(右)のあたりから左の船あたりに架橋されていたと推察される。
引用参考文献:佐藤次郎「橋めぐりにしひがし=東京都の巻=」『虹橋』第18号 1978年
2023年2月 修正、加筆
以上