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一碧万頃

大瀬埼記念灯台<灯ろう>・稚内灯台回転式3等レンズ

大瀬埼記念灯台
 
 船の科学館の屋外展示場には、安乗埼復元灯台の他、もう一つ明治時代の灯台が移設、展示されている。それは、大瀬埼灯台の灯ろう部分である。灯塔は、新設である。なお、灯室には、稚内灯台の3等レンズ(実物)が格納されている。
 
 
 船の科学館にある、この記念灯台は、あたかも灯台が建っているように見せるために、別々の灯台の灯ろうとレンズを組み合わせ、新設の灯塔に乗せて設置した、あいのこ保存灯台?である。
 
それでは、まず、初代大瀬埼灯台の歴史について紹介したい。                                                         
 
初代大瀬埼灯台(灯籠部)
 
 
 大瀬埼灯台は、長崎県の五島列島福江島の西南端に設置され、1等の回転式灯器を装備し、1879(明治12)年12月15日初灯の灯台である。初代の灯台は、鉄製で円形、塔高は三丈六尺五寸、灯高は二六丈五尺であったとされる(『工部省沿革報告』)。かなりの岸壁の上に設置されていることから、灯台の本体は、高さをそれほど必要としなかったように見え、案内版に載っている写真でわかるように、なんともずんぐりした体裁を擁している。
 大瀬埼灯台は東シナ海から長崎に向かう際に最初に頼りにされる灯台であり、また、このあたりが航路上の要衝であるが故、1等のレンズが備えたと推察される。よって、灯台が頭でっかちなのは、無理もないことであろう。灯台の美しさよりも質が重要と言ったところだろうか。この初代の灯台が、灯ろうだけも保存されているのは、うれしいことである。 
 
 
解説版
 
 
 ネットを漂流していると(笑)、この灯台はブラントンの設計とされているという文言をみかけるのだが、ブラントンは1876(明治9)年3月15日までしか仕事をしていない。ブラントンの後は、マクリッチがその仕事を継いでるので、本当のところはどうであろうか?ブラントンの著作なども読んでみたが、まだ、調査を始めたばかりであるので、そのうち報告したい。
 
以下<加筆>
 
初代大瀬崎灯台について 
 
 初代の大瀬埼灯台の歴史を探ってみたところ、やはり、史料を引用し、かつ概説としてもわかりやすかったのが、『燈光」に連載されている「明治の灯台の話」シリーズである。その第1回が大瀬埼灯台についての話であったことがわかったため、当文献を引用しつつ、簡潔に紹介することにする。
 
 『燈光』の研究によると、大瀬崎灯台は、ブラントンの後を継いだ灯台築造方首員のマクリッチが設置場所を検討し、現場施工を指示を出していたことが紹介されている。ところが、マクリッチもこの大瀬埼灯台が稼働を始めた月に任期満了を迎え、イギリスに帰国してしまっている。マクリッチの後に灯台築造方首員となったのは、一等技手であった藤倉見達であった。
 
 五島の灯台設置にあたっては、以下のような経緯があったことが、マクリッチの報告書からわかる。
 ・当初は、力尾崎(大瀬埼の南東約3キロメートルに位置する岬)に設置しようとしていたが、灯高が高くなりすぎること(357尺)などから、大瀬埼に変更をしたこと。
 ・大瀬埼は、工事が困難であるため、鉄造の灯台や三和土の官舎で済ますこと。
 ・一等の回転式の灯台にすること。
 
 大瀬埼の灯台は、マクリッチやシンプキンスの指導により、日本の技師や職人たちによって建設されたと解して良いのでは無いか。設計者は誰であるかはまだ確証を得られない。
 
 
稚内灯台の3等レンズと回転台
 
 大瀬埼灯台の1等のフレネルレンズの代わりに、極北の岬からやってきて、この大瀬埼灯台の灯室に格納されたのは、稚内灯台の3等のフレネルレンズである。このレンズは、北海道の北端に1900(明治33)年に初灯した稚内灯台のレンズそのままらしい(船の科学館のHPには、そう記されている)。
 稚内灯台は、明治33年12月10日に初灯の鉄製灯台であり、北海道では初めて水銀槽式の回転器械を備えた灯台でもあった。昭和41年に現在のコンクリート製の灯台に代わるまで、極北の地で航海の安全を凝視してきた灯台であった。
 
 
 
 それにしても、本州の西端の灯ろうと北海道の北端のレンズをハイブリッドしたこの記念灯台、実に面白いと思ってしまうのは、僕だけだろうか?まあ、船の科学館には、あの宗谷もあるし・・・。
 
 ちなみに、船の科学館に設置されていた戦艦陸奥の主砲の一門は、横須賀のヴェルニー記念館の前に移設されて展示されています。そのうち、ヴェルニーの灯台も紹介せねば・・・
 
 とりあえず、以上
 

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