管弦楽曲として、またポピュラー音楽としても有名な「ダッタン人(タタール人)の踊り」という曲は アレクセイ・ボロディンのオペラ「イーゴリ公」の第2幕の曲。
この歌劇のもととなった中世ロシア叙事詩「イーゴリ遠征物語」は12世紀末に書かれたもので、これをアレクセイ・ボロディンが歌劇「イーゴリ公」として作曲。
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2幕目は日本では「韃靼人(タタール人)の踊り」などの曲名で呼ばれていますが、「韃靼(タタール)」とはモンゴルあたりの広い地域を指し、この歌劇「イーゴリ公」の第2幕では、黒海辺りから南ロシア辺りの「(トルコ系)ポーロヴェツ人」と戦ってイーゴリ公が捕虜となっている場面で、「韃靼人(タタール人)と言うのは誤りで、正しくは「ポーロヴェツ人の踊り」と呼ぶべき。
劇中、「ポーロヴェツの陣営で、敵将コンチャークが、負傷して捕らわれている主人公イーゴリ公の気晴らしにと宴席を設け、 その余興として、華やかに繰り広げられるポーロヴェツ人の歌と踊り」で、「歌よ、風にのって故郷へと飛べ」とふるさとを想い、踊り、歌う歌、とある。
絵画「ポロヴェツとの戦いに敗れたイーゴリ公」より
「タタール(韃靼)」という言葉はロシアでの「東洋系の異教徒、異民族」の総称で、特定の民族を指すものではないらしい。
イーゴリ公が戦った相手はトルコ系のボロヴェツであり厳密な意味では「タタール(韃靼)」ではない。
しかし、ルーシ(ロシア、ウクライナ、ベラルーシ)はイーゴリ公の遠征の後、このボロヴェツとは連合してもっと強大な敵と戦って敗れることになり、それこそが「タタール人(=モンゴル人)」だったのだ。
「イーゴリ公」は実在の人物で、中世ロシア叙事詩「イーゴリ遠征物語」は、1185年の春にノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリという人物がトルコ系遊牧民ポロヴェツ人(コンチャーク)に対して試みた遠征の史実に基づいた物語であり、古フランス語叙事詩「ローランの歌」などとも比肩される。
「イーゴリ遠征物語り」の成立時期は1187年以後と考えられ、原本は現存せず、最古の写本は1790年代はじめ頃にアレクセイ・ムーシン=プーシュキン伯爵が発見し、1800年に初刊本が公刊されたものの、1812年にナポレオンの侵入によって起きたモスクワ大火において焼失。
「イーゴリ遠征物語り」の作者は不明で、キエフ大公スヴャトスラフの妻でポロツク出身のマリア・ヴァシルカヴナが有力な候補とされており、その根拠として
①「イーゴリ遠征物語」と「聖女イェフロシニア伝」が共にルーシ諸公の闘争を憂う物語であること。
②「『イーゴリ遠征物語』におけるポロツクに関する内容は、キエフ大公家とポロツク公家の微妙な関係を示唆しており、それはポロツクの事情に精通したものでなければ書けないであろうこと」
③「イーゴリ遠征物語」が女性の文体で書かれていること
などが列挙されている。
■「タタールのくびき」=モンゴル人のロシア支配
歴史的には「イーゴリ遠征」から約20年後の1206年のにチンギス・ハンが遠いモンゴル高原の遊牧国家を統一したことから始まった。
「13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)侵攻とそれにつづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルーシ支配を、ロシア側から表現した用語が「タタールのくびき」
1300年頃のキプチャク・ハン国
「タタールのくびき」とは現在のロシア人などの祖先であるルーシ人のモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念を指す。
モンゴル帝国の拡大(チンギス・ハーン在世中の諸遠征)
1223年にはカフカス(コーカサス)を越えてモンゴル軍が初めてルーシに襲来し、ルーシ(ロシア)と(トルコ系)ポーロヴェツの連合軍は破れ、いわゆる「タタールのくびき」の時代の始まりとなった。
先ほども書いたように、「タタール」という言葉はロシアでの「東洋系の異教徒、異民族」の総称で、特定の民族を指すものではなく、つまり、トルコ系もモンゴル系もみな「タタール」であり、後の時代から見ればロシアにとってはトルコ系のポーロヴェツも「タタール」ということかもしれない。
「ポーロヴェツ人の踊り」を日本に紹介する際、馴染みのない「ポーロヴェツ人」の説明に「タタール」という言葉が使われ、 更にそのタタールが韃靼(だったん)という漢字に置き換えられたのではないか、という説もある。
「タタールのくびき」とは、キプチャク・ハン国(金帳汗国)(1243年~1543年)がノヴゴロドを含む全ルーシ(現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシ)をモンゴル帝国の支配下に組み入れられたことを指し、ルーシの人びとはモンゴルへの貢納を強制された、とある。
このモンゴル=タタールによる支配のことをロシア史では「タタールのくびき」と呼んでいるのだ。「タタールのくびき」は、モスクワ大公国が1480年に貢納を廃止し、他地域も相次いでモンゴルからの自立を果たすまでの200年以上に渡って続いた。
ロシアはその後16世紀初め頃までに「タタールのくびき」を完全に脱するが、その後もクリミア半島やヴォルガ川流域、シベリアなど広範囲にひろがるテュルク=モンゴル系の人々を「タタール」と呼んだ。
実は「タタール人」達による支配は異教徒からの支配を受けたという屈辱ばかりでなく、ルーシのその後の国家システムにとり恩恵ももたらしたと考えられている。
「ルーシで人口調査を行い、それにもとづいて課税と徴兵を行ったが、西ヨーロッパでは王権はそのような施策を講じることができなかった。それに対し、モスクワ国家の大公やツァーリの権力はモンゴル人がおこなった人口調査にもとづく徴税と徴兵という方策を踏襲し、それを介して西欧諸国の王権よりも確固たる住民統制が可能となった」ともいわれている。
その後の帝政ロシアで「ピョートル大帝以後のロシア帝国が西欧化政策を推進し、あるいはヨーロッパ諸国に並び立つ国として強大化していった」のは「タタールのくびき」の時代の住民統制が基礎となっていたという側面があったということらしい。
「モンゴル帝国の駅伝制(ジャムチ)はロシアに移植されて「ヤム」と呼ばれた。ロシアで今日でも郵便配達人を「ヤムシチク」と呼ぶのは、その名残」なのだそうだ。
「ヤムの制度がモスクワ大公国で広大な地方と中央とを結合する国内通信制度として整備されるようになったのは15世紀末のイヴァン3世の時代であり、16世紀末のイヴァン4世の時代まで急速に整えられたが、モスクワ国家がモデルとしたのはモンゴル帝国のそれであり、当時のヨーロッパ諸国においては最良の国内通信制度であった。当時ロシアを訪れた外国人は、ロシアの駅伝制の安全さや旅行のスピードの速さを称賛している」とある。
詳細は以下の引用元を参照なさって下さい
「タタールのくびき」引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%81%8F%E3%81%B3%E3%81%8D
引用:
ロシアは何故か文学や音楽や舞踊など、日本人が好む優れた芸術作品や芸術家を多く生み出している国ですね。
「韃靼人(ポロヴェツ人)の踊り」の調べは、誰もが知っていますね。
久しぶりに聴いてみました。
聞きなれた美しいメロディで始まり、途中から力強い迫力のある曲調に変わります。
次は馬が駆けていくような軽快なテンポで、そしてまた最初の美しい調べのテーマに戻ります。最後は勇ましい感じで盛り上げて、聞き終わった後の気分が爽快になります。
繰り返される美しい旋律が心地よいですね。
何にせよ大変な雨量、被害の拡大が次々にニュースで報じられ、警戒レベルも5段階の「最高レベル5」が出ているようですが、今後も人的な被害の拡大などが心配です。
「蒙古人は遊牧民ですので都市を築き、年貢を掛け人間を管理統治する方法など下より出来ようはずがない。行政管理は農耕民独である漢族に任せた形」というのもご指摘の通りで、キプチャクハン国はサライに年貢を納めさえすれば、ルーシにとり、あまり行政的な干渉はしなかったようです。
東をみると「元の属国であった朝鮮が、東の海上の国、日本には金銀財宝が眠っている。是非、日本と言う国を侵略遠征すべきだとクビライ汗に吹き込み2度に亘る侵略を試みたが全滅敗北」これが2度の元寇ですね。
「元寇」に日本が勝利したのは決して所謂「神風」のおかげばかりではなく、鎌倉幕府が周到な防衛戦略に基づいて備えたからであったという分析が最近ではなされているようです。
「元の末期、西暦1351年には黄巾の乱が起きて滅亡」「軍事的に強大な帝国がたった97年で滅んでいるのは、その国家に長期的な成立を阻む何かが在る」というご指摘ですが、是非検証してみたいテーマですね。
ご指摘のようにモンゴル帝国の広大なユーラシア大陸全域に迫る世界支配は、世界史にとって大きな出来事ですね。その影響はその時代に、モンゴル帝国による支配が各地にどのような影響を与えたのかということを検証しながら考えてみることで、その地域の民族的な特徴なども見えてくるような気がします。
同じような「支配」を受けても、それをどのようにその後に活かしたか、ということも、結局はその地域の地政学的な問題や民族性によるものなのではないかと思うのです。
モンゴルは、余りにも広大な領土は殆んど統一管理できない範囲にまで広がりました。それでチンギスハーンの子供や、モンゴル軍の有力な武将に拠る幾つかの行政単位に成りました。支那大陸の中原では、西暦1271年には南宋を滅ぼして元が成立します。蒙古人は遊牧民ですので都市を築き、年貢を掛け人間を管理統治する方法など下より出来ようはずがない。行政管理は農耕民独である漢族に任せた形となり、その間、元の属国であった朝鮮が、東の海上の国、日本には金銀財宝が眠っている。是非、日本と言う国を侵略遠征すべきだとクビライ汗に吹き込み2度に亘る侵略を試みたが全滅敗北し、其れが基で国力の衰退に瀕して、国内反乱により滅亡しますが、西暦1368年の滅亡まで97年間つづく訳です。元の末期、西暦1351年には黄巾の乱が起きて滅亡間近に成ります。あの軍事的に強大な帝国が足った97年で滅んでいるのは、その国家に長期的な成立を阻む何かが在るのでしょう。その後に反乱の頭目である朱元璋の起こした明が成立しますが、朱元璋と言う男は、強盗野党集団の頭目の様な男です。いつも例外なく支那大陸の歴史では、この様な人物が暴れ回るのを常として居ます。続く歴史が無いのが支那の特徴です、血で血を洗う争いが続き、負けた王朝の連中はみな殺害されて来たのが支那の歴史の特徴です。長くなりますのでこの辺で終わりにします。